9. 彼の一言。
翌朝、速水の家で目が覚めたとき、少し心が落ち着いていた。
昨夜、和やかに談笑しながらいただいた味噌雑炊も魚もおいしく、お風呂にも入らせてもらって身体も緩み、疲れもあったのか、夢も見ないで熟睡していた。
速水の笑顔と食事、清潔な浴衣に布団、そして睡眠……そのすべてが、私に力をくれたんだと思う。
寝間着に借りていた、紺地に白い花の模様が入った浴衣を脱いで畳む。寝る前に速水から、
「明日は亡くなった母の着物を着たらいいよ」と言われていた。
「この色似合うかも」と渡されていた、シンプルな淡いオレンジ色の着物を借り、葡萄色の帯を締める。
私の家は少し古風な決めごとがあり、毎年お正月には着物を着て、着付けは十二歳くらいから、母に習いながら自力でやることになっていた。
今年の夏祭りの時に浴衣の着付けを復習していたこともよかった。
帯を簡単な締め方で整える。前日お風呂に入ったときに洗面所の場所も聞いていて、顔を洗い歯磨きをして(驚いたことに、馬の毛で作った歯ブラシというモノもあって、速水は使っていないものを一本私にくれていた)、私が寝かせてもらっている部屋にしつらえてある鏡台で、髪を整える。
そして私は、鏡に映る自分の大きな目を見つめた。
昨日はまるで私がいないかのように、玲は私に目もくれず、速水だけに話しかけた。
今日こそ玲に、この状況は何なのか聞くんだ。
絶対に昨日みたいなことにはさせないと、心に誓う。
昨夜、速水は、鏡台に置いてあるものは母の形見だから使って良いよ、とも言ってくれていた。その言葉に完全に甘えて、貝あわせ風の紅入れの中に入っていた未使用の淡い口紅を、気合い入れに借りることにした。
薄くリップを塗る感じ。亡くなった速水のお母さんに、「お借りします」と心の中で呟く。
防衛であり、武装。
私の、短気と言うより負けず嫌いな性格が顔を出す。
玲がまた私に気付かないふりをしても、くじけずに聞くんだ。一体どういうことなのかわからなければ、先に進むことはできないと思っていた。
「薫、ただいま! 準備できたら、今日も翡翠宮に行ってみようね」
朝食の後、午前中は神殿の学び舎というところに勉強に行き、午後に戻ってきた速水、にこやかにそう言う。
私は速水がいない午前中は、速水邸の周りを散策していた。
家の裏手に回ると、大きな湖があった。風光明媚ってこういうことか、と思うほど、風は涼しく木々の葉がそよぎ、光を反射した水面がきらきらと光っていて、とても美しい光景だった。なるほど、ここから水を引いたりしているんだなと理解する。
お昼は速水が私の分のおにぎりを作ってくれていて、なんだか申し訳なく、せめてお礼に、洗い物は済ませておいた。
帰ってきた速水、さらさらの茶髪が光って、子犬が跳ねてるみたいだ。この子と一緒だと、どんなことがあっても頑張れそうな気がするから不思議だった。昨日、初めて会ったときからずっと、人の心を落ち着かせるような何かを持っている感じがしている。
「速水、今日もよろしくお願いします!」
つい元気よく言ってしまった私に、にこにこと笑う速水。
「ちょっと元気になったね」
と言われて、心配されていたことを知る。
不思議な子だ。
突然現われた私をほとんど警戒することなく、宿を提供して勇気づけてくれて。他の人にもこんなに無防備だったとしたらかなり心配だな、と、私は速水に対して、勝手に親心みたいなものまで感じていた。
今日も翡翠宮という大きな建物に着き、長い渡り廊下を進む。引き続き鼓動が速くて、昨日と似たようなことになったらどうしようと不安も湧いてくるけれど、振り払うように首を振る。
玲、今日こそちゃんと私のことを見てほしい。
話を聞いてほしいと思う私は、わがままだろうか?
勝手にここまで来てしまったことを、玲は怒っているのだろうか。
渡り廊下を曲がりながら、速水が私に囁いた。
「僕は青の間での会議中にお部屋に入ったりしたことはないんだけど……薫の話を聞いていて、僕、薫が本当に違う世界からここに来たんだとしたら、それは緊急事態って感じが、すごくしていて。だから、もし、軍議中に何だって咎められたら、そう話すね」
私は頷く。
「ごめんね、いろいろ考えてもらって」
「ううん。僕、昨日と今日の二日間くらいで不思議なんだけど、なんだか薫のこと、友達みたいに好きになっちゃったんだ。だから、協力したいと思って」
速水の申し出に、私は涙目でありがとうと頷いた。
そして、重厚な木の扉の前に私たちは立つ。
翡翠宮の裏口側はふすまで仕切られている部屋もあるのだけれど、廊下を曲がると綺麗な彫刻が施された重々しい木の扉がいくつも並んでいた。
「ここが、いつも軍議をされている青の間だよ」
速水が立ち止まり、青の間という部屋の前に立つ。部屋の中からかすかに話し声が聞こえた。トントン、と速水が軽くノックすると、部屋の中の声が途切れ、
「どうぞ」
玲の低い声が聞こえた。
「失礼します」
速水が扉を開けて、少し礼儀正しく言う。
速水に続いて私も中を覗くと、昨日と少し違う、藍色地に爽やかな白いラインの入った着物を着た玲が、昨日も隣にいた夏野って人と何か話していた。
玲のクールで、男の子なのにどこか綺麗な雰囲気は変わらない。客観的に言って、今日の着物もとても似合っていて素敵だとしか言いようがない。
でも、私を見る視線は、やっぱり冷たいものだった。
「玲」
私は思わず彼の名を呼び、一歩踏み出した。
でも、玲はちらりとこちらを見ただけで、すぐに速水に視線を移す。
そして次の瞬間、信じられない言葉が飛び出した。
「……速水。この女、誰?」
玲の声。
それは異様に冷たくて、まるで知らない人みたいだった。




