8. 速水邸での夜
その夜、私の頭の中では、ずっと玲の氷みたいな態度がリピートしていた。
低くて音楽みたいになめらかなあの声で、速水に「また後でな」と言っていた。でも私のことはちらりとも見ないで立ち去った。
あの場面が胸に突き刺さったまま、ずきずき疼いて消えてくれない。
茫然自失ってこういうことを言うんだな、と思いながら速水と一緒に翡翠宮の隣、速水の家に戻り、最初に気がついた時に寝ていた部屋にぽつんと座っていた。
考えてみれば玲のマンションの部屋に、私の鞄もスマホもすべて置いてきて、落ちていた彼の勾玉だけ持って飛び込んでしまったんだよね……。向こうでは大騒ぎになっているかもしれなかった。
そして、身一つで来てしまった私は私で、考えるくらいしか、やることがなかった。
すると、気を取り直したようにぱたぱたと部屋に入ってきた速水が、笑顔で言った。
「ね、薫! お腹空いたでしょ? 夕飯、一緒に食べよう! 僕、簡単なご飯なら作れるからさ」
速水の申し出を断ることなんてできなくて、私はどうにか頷いた。さっきの翡翠宮での出来事……玲に知らない顔をされた事実があまりに衝撃的すぎて、お腹はそれほど空いていなかったけれど。
「うん、……いただいていいかな。私、手伝うよ」
私が寝ていた部屋の隣、囲炉裏のある部屋に通される。その奥は土間になっていて、かまどがあり、台所になっていた。なるほど、やっぱり時代劇風だ……。
「私、かまどって初めてだから、使い方教えてもらっていい?」
さっき借りた草履をもう一度借りて、土間に降りるけれど、速水はにこにこ笑って。
「うん、でも、ごはんの残りと味噌汁あるんだ。雑炊みたいにしてあげるよ。漬物もあるし、あとはお魚焼くだけだから、薫は囲炉裏のところに座って待ってて」
「なんか申し訳ないな~……」
「いいから、いいから」
速水に押し切られる形で私は囲炉裏に座って、てきぱきと動く速水のことを見つめた。
「あ、そしたら、トイレ……ってなんて言うんだろう、お手洗いを借りてもいい?」
そう言うと、速水、ぽかんと動きを止めて私を見た。昔風の言い方ってなんだったっけ。
「ええと……厠? っていうのかな……」
おじいちゃんとテレビで見たことがある時代劇の知識をなんとか思い出して伝えると、速水はほっとしたように笑った。
「ああ、厠のことか。ええとね、廊下をまっすぐ行ったつきあたりだよ」
「ありがとう」
私は言われた通りに廊下の突き当たりまで行ってみると、たしかに、厠と書かれた個室があった。
開けてみると、……すごい。
昔はくみ取り式だったと漫画か何かで見たことがあったけど、そうではなくて、なぜか、下にちょろちょろと小川より小さい流れで水が流れている……これが自動で流してくれるの、すごくない?
紙は古いちり紙みたいな物が置いてあり、手を洗うところも、ししおどし風なものがある。すごい。
私は少し感動して、囲炉裏部屋の方に戻った。
「すごいね、速水。トイレって水洗なんだね!」
感動して私が言うと、速水は首をかしげている。
「なんかよくわからないけど……すいせん? 風雅の国は水が豊富なんだ。この街の厠は大抵、近くの湖から水を引いて、流れるようにしてあるんだよね。先の方に浄水場ってところがあって、そこで浄化の薬草を大量に入れて、あとで農家の人の水まきに使われてるって、神殿で習ったよ~」
湖があるらしい。そして、浄水場……? すごい技術だなと私は感動しながら、速水を待つことにした。
やはり電灯などは無く、暗くなってきたら、行燈っていうのかな……四角形の室内灯みたいなものに、速水が火を灯した。
外では鈴虫のような声が響いてきて涼しい風が入ってくる。
風情がありすぎるなあと思いながら、縁側の方に目をやると、遠くの空に月がのぼってきているのが見えた。
じっとしていると考えが止まらなくなる。
さっきの玲の冷たい態度を思い出すと、心が乱れて涙がにじみそうだった。
速水がいてくれてよかった。そう言えば、さっき速水が私のことを、急にここに落ちてきたのにそれほど慌てていない、みたいなことを言っていた。
私の心の中はずっと嵐だったけれど、近くに速水がいるから、錯乱せずに立っていられる気さえした。……でも、錯乱ってかっこ悪いな、と、思わずひとり笑ってしまう。
私はとうに、どこか頭の中のネジが一本か二本外れてしまったのかもしれなかった。
膝をかかえてぼんやりしていると、魚が焼ける良い匂いがしてきて、速水がお盆に色々載せてにこにこと土間から部屋に上がってきた。
「薫、できたよ~」
「あ、ありがとう、速水……」
「……だいじょうぶ?」
私の声が少し震えたことに気付いて、速水が心配そうに私を覗き込む。初対面の年下の子に心配されて、本当にかっこ悪いな。と瞬間的に思った私、かなり無理矢理だったけれど、笑顔を作ってみせた。
「うん、大丈夫。うわーめっちゃおいしそう!」
「そう? 僕ね、焼き魚も結構上手なんだよ!」
にこにこと私にお盆を渡す速水。ありがとうと受け取って、私は残りの配膳を手伝うことにした。
我ながら単純だなと思うけれど、おいしくご飯をいただいていたら、ちょっとずつ元気が出て来た。
少し笑顔が戻った私を見て、速水がそっと聞いた。
「薫は何歳なの?」
食べながら尋ねる速水に、私は十六歳、と答える。
「そっか。そしたら、僕よりふたつお姉さんだね」
速水は無邪気に笑って、そして続けた。
「あのさ、薫。僕はここ二年くらい、いつもこの家でひとりで寝起きしてるから、慣れてはいるんだけど、今日、薫と晩ごはん一緒に食べれてうれしいんだ」
そう言われて、私は思わずきゅんとなる。まだ十四歳って言ってた。子供だもん。私だってまだまだ子供だけど、私以上に。それなのに、一軒家に一人暮らしは寂しすぎるよね。治安とか良いのかなと、聞いている私の方が心配になってくる。
「速水はまだ十四歳なのに、ここで一人暮らしって危なくないの?」
私が素直な気持ちで聞くと、速水は少し首をかしげて。
「うーん。危なくないとは言えないけど、うちは翡翠宮のお隣だし、翡翠の街の中では安全な方だと思う。僕は神殿にもお世話になっていて、玲さまや夏野さま、神殿の方々も時折様子を見に来てくれるんだ。だから、そんなに心配しなくてもいい感じ。それに両親は身体が丈夫じゃなかったから、小さい時から色々手伝ってたし」
私はその話を聞いて感心していた。この子に比べたら私は甘えていたんだなと、思わず我が身を振り返ってしまう。
速水は続けた。
「ね、薫。明日、また玲さまに会いに行ってみようよ。今日はちょっと忙しすぎただけかもしれないよ」
そうかもしれないと思えた私は前向きすぎるかもしれなかった。でも。
「うん。そうだね。謎は解明しないと先に進めないよね……。
行く。速水、申し訳ないけど、明日も案内をお願いしていいかな?」
速水、私の言葉ににこにこっと笑う。
「うん、もちろん! じゃあ、今日はもううちに泊まっていきなよ。
薫、ここに落っこちてきた感じで、玲さま以外は知り合いって僕だけだよね?」
そうなのだ。ここを出たら、野宿するしかない。そう思っただけで、身体がどっと重くなる。
ブラックホールに飛び込んで、時代劇みたいな世界に来て、玲には会えたけれど、透明人間みたいな扱いをされて。
今夜、ここに泊まらせてもらえるなら、それだけでも一安心だった。
「……お、お願いしてよろしいでしょうか……」
思わずめちゃくちゃ丁寧な言葉遣いになった私に、速水はくすくすと笑う。
「じゃあ、後で、僕のお母さんの浴衣を出すから、それを着て寝てください。布団はさっきのを敷いたままにしてるから、そこで寝てね。これからお風呂わかすね!」
「え、お風呂も……」
「うん、僕、得意だから、ちょっとまっててね!」
手早く食べ終えた速水は、うれしそうにぱたぱたと走って厠の方に消えた。
よかった……。
晩ごはんだけじゃなく、お風呂にも入れるなんて、まったく考えていなかった。
いや、考える余裕がまったくなかったと言った方がいいのかもしれなかったけれど。
私は涙が出るほどほっとして、速水が戻ってくるのを待った。
明日は家事を手伝おう。置いてもらうのに、何もしないわけにいかないもんね。そんなことを思いながら。




