7. 翡翠宮の異邦人
速水の背中を追いかけて、私は屋敷の外に出た。
西日が差してきていた。空気が少しひんやりしていて、遠くで鳴いている鳥の声が聞こえる。
私はきょろきょろと通りを見渡してみた。
空が広い……!
思わず上を向いて、辺りをぐるりと見回した。
家並みの向こうに、沈みかけてきれいな夕陽になりかけている太陽。そして、あまやかな色で、青から水色、金色のグラデーションの大空が広がっていた。
最初、感動して見上げていると、それもそのはず。電柱も電線もまったくなかった。そのせいか、街並は古い日本というか、時代劇みたいな雰囲気。
白壁で瓦葺きの木造の家々が並んで、しかも遠くの道には着物姿の人が歩いている。
これまでの私の感覚で言うと、映画村みたいな感じ……。でも、速水の話を考えると……本当に異世界だったりするのかな、ここって。
混乱しているのが我ながら明らかで、目の前がぐるぐる回りそうだった。
でも、玲に会えるかもしれないと思うと、胸の鼓動が速くなった。
この何か現代の日本とは全然違う……テレビも電話も電灯すら無さそうな不思議な感じが、玲に会えたら少しでも解明できるのだろうか?
「薫、僕の家の隣の大きな建物が翡翠宮だよ。玲さま、いつも夏野さまと一緒に、この建物の中にある青の間ってお部屋で話をしてるんだ。僕は、親が生前、神殿勤めだった関係もあって、翡翠宮のお手伝いに神殿から派遣されていて……、お茶の片付け担当なんだ♪」
速水が指さす先には、立派な木造の建物がどんと構えていた。163 cmの私の身長を超えるほど高い屏……下半分が木造、上半分が白い土壁に、薄いグレーの瓦を積んだ風格ある屏に囲まれている。
かなり遠くまで曲がり角が見えない……一区画、すべて翡翠宮と呼ばれたこの宮殿の敷地のようだった。そして屏の奥に、瓦葺きの巨大なお屋敷が見えた。
渋い赤で塗られた木造の木戸に速水が手をかける。キィイと軋む音がして、裏口らしいその木戸を、速水がゆっくりと開けた。
「……すごい。大きなお屋敷だね……」
私が呟くと、速水が楽しそうに振り向いて言った。
「そりゃあ、姫将軍が住む宮だもん。この国のどこよりも豪華な御殿だよ」
御殿か。やっぱり、世界観がかなり違う感じだな……。中学の修学旅行で行った京都の広大なお寺に趣が似ていた。私はほんの少し恐怖すら感じながら、その綺麗に整備された裏庭に足を踏み入れた。
広いお庭に大きな石がいくつも置かれ、楓や松が植えられていて……手入れされた草花が咲いている。中には撫子や小さな菊のような、私にもわかる花も植えられていた。
秋の花だ。
季節感は日本と同じなのかもしれないな。そして、奥に植えてある木々はおそらく桜だ。春になったらお花見できそうだな、なんてぼんやり考えている。
「ここから上がるよ」
庭を通り過ぎたその奥、縁側のような長い廊下、その中央の足下に、上がり口の目印のように楕円の平らな石が据え置かれていた。私は速水の家を出る時に借りた草履をそこで脱いで揃え、一緒に床板がぴかぴかに磨かれている薄暗い廊下に上がった。
「青の間にいらっしゃったらいいんだけど……」
速水はそう呟きながら、長い廊下を進んでいく。私も速水の後に続くけど、この建物、静かで厳かで、木の柱も、綺麗に磨かれた床板も、なんだか最初に思った大きなお寺と言うよりは、まるで戦国時代のお城のような風格だった。
あまりの荘厳さに、緊張感が増してくる。
と、その時、廊下の奥から、静かな足音が近づいてきたのと、私たちが曲がり角を曲がって、近づいてくる二人を遠目に見つけるのとが同時だった。
速水がぱっと顔を上げて、弾んだ声で言った。
「玲さま! 夏野さま!」
叫んで駆け寄っていく速水。私も思わず視線を上げた。
……そこにいたのは、玲だった。
玲、……和服姿の、玲。
いつもの見慣れた制服のネクタイ姿や、シャツにジーンズ姿ではなくて、落ち着いた藍色の着物がものすごく似合っている。
そして、私はその着物に見覚えがあった。八月の夏祭りのとき……花火大会に一緒に行ったときに着ていたものと同じ模様。
「亀甲模様といって縁起がいいらしい。幸運を祈るみたいな意味があるらしいけどな」、と玲が教えてくれたことを思い出す。
間違いない。
あの不思議に神秘的な雰囲気も、少し目にかかる長めの前髪も変わらないけれど……なんだか、いつもより凜としているようにも、私の目には映った。いつも私が隣にいるときに見せていたやわらかい印象は影をひそめて、少し張り詰めたような、怖く感じるような空気を纏っていた。
そして玲の隣には、肩まで伸びた茶色の髪に切れ長の瞳が印象的な、長身の同世代くらいの男性がいた。
こちらは深い緑地に茶色の線が入った和服姿で、なんだか玲以上に冷静そうな美形……その人は足が不自由なのか、若いのに杖をついていた。この人が夏野、玲の親友で参謀のひとりと速水が言っていた人なのかな。
二人とも、この時代劇風の世界に完璧に馴染んでいる。
違和感があるとするなら一人、高校の制服姿の私だけが浮いていた。
「……玲!」
私は思わず彼の名前を呼んで、駆け出そうとした。
でも、まるで私の声が聞こえなかったみたいに、玲の視線はさっと速水に向いて……なぜか私には、一瞥もくれなかった。
「ああ、速水。ちょっと今、緊急の案件で話してるから、また後でな」
玲の声、いつもみたいに低く落ち着いたなめらかなその声が、なんだか聞いたこともないくらいよそよそしく耳に響く。
ちょっと待って。
夏野って人も、ちらりと私を見たけど、すぐに玲と何か話しながらすっと通り過ぎていってしまう。そして二人とも、私たちが来た裏口の方の、長い廊下の奥に消えた……。
私は呆然と立ち尽くす。
……今の、何。
玲、私に気付かなかった?
ただの一度も、私のことを見なかった。まるで……まるで、透明人間みたいに。
可能性として、玲は私に、ここに来て欲しくなかったということも考えられた。
でも、もし玲がそう考えて、黙って日本を去ったのだとしても。出会うことができたら、「薫」と名前を呼んでくれると、私は安直に、そう思っていた。
心臓のあたりがずきんと痛んで何も考えられず、頭の中が真っ白になるような気分だった。
「薫……」
速水が心配そうに私の顔を覗き込む。きらきらした瞳が、困ったように揺れていた。
「玲さま、忙しそうだったね。でも、きっとまた話せる時があるよ……」
力づけるように微笑む速水に反応できずに、私は一人呟いた。
「……信じられない……」
私はそう言いながら、拳をぎゅっと握る。
どういうことなのかな、と思ったら、なんだか腹が立ってきた。
意味がまったくわからないけど、黙って置いて行かれた上に、気付かないふりをされた感じだったから。
どうして知らないふりするの?
それとも、覚えていないのかな。忘れてしまったのだろうか。たった二~三日で?
胸の奥が熱くなって、涙がにじみそうになるけれど、ぐっと耐えた。
ここで泣いたら立っていられなくなるような気がした。
そして、なんだか……玲のあの冷たい態度、いつもとまったく違う、クールすぎるような雰囲気に、異様な違和感も感じていた。
絶対に何かある。
速水に連れられて速水邸に戻りながら、私は決めていた。
近いうちに玲をつかまえて、ちゃんと話をしようと。




