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49. 翡翠

 しんと冷え切った水牢の中、目の前にそっと立つ、私と同じ顔をした女の人……。


 私は確信して、ゆっくりと訊いていた。



「……翡翠……?」



 寒さで私の声は震え、かすれていた。石造りの寒々しい牢に、細い私の声が響く。

 翡翠は私の声に応えて頷き、言った。

「あなたが……私の代わりとして(アキラ)が連れてきた、『助け手』なのね……」


 その声は、花がこぼれるように綺麗だったけれど、どこか悲しげだった。

 私の顔なのにこんなに違う。

 彼女の瞳の奥にある悲しみを感じ取った私は思わず息をのみ、暫くの沈黙の後で名乗った。


「私の名前は薫。でも、どうして翡翠がここにいるの……?」


 私の問いに翡翠は少し目を閉じた。そして、静かに目を開いた後、私をまっすぐに見つめて答えた。それはあまりにも綺麗で、真摯な瞳だった。

「あのね、薫。……私は西羅(サイラ)のことを愛しているの。もう、ずっと長い間」



「……え……」

 今、なんて。

 衝撃で私は言葉を失う。西羅を? 敵の将なんでしょう? どういうこと?


 頭が混乱して、寒さで鈍った思考がさらに乱れる。

「どういうこと……?」

 やっと絞り出した私の声に、翡翠は静かに続けた。


「西羅と私は、小さな頃に親同士が和平の協定を結ぶ時に会って……初めて会った時から、長い時間をかけて、お互いがお互いにとって、とても大切な存在になっていったの。


 でも、東軍と西軍の戦いは、協定を結んでも終わらなかった……私たちはそのまま、戦いを終わらせることができずに、ずっと続けてしまった」


 翡翠の声は、遠いつらい記憶を思い出すようにやるせなく響いた。



 速水に呪術をかけて操った西羅が、翡翠の愛する人?

 いったいどういうことなのかわからない。

 それに今、翡翠が西羅の傍にいるのなら、どうして不毛な戦いを続けなきゃならないの? 



 翡翠に訊きたいことはたくさんあるけれど、寒さと疲労で私の身体は言うことをきかず、言葉にできずにいた。



 その時、遠くでがん!と大きな何かぶつかるような音が響き、大声がとどろいた。続いて、剣がぶつかる重い金属音と叫び声。


 私は、声の聞こえてきた扉の方に視線を向ける。

 きっと玲が、裏口に挟んだ端切れに気付いて来てくれたんだ……!


 翡翠もその音に反応して、彼女が入ってきた扉を振り返り、見つめた。

「薫、助けが来たみたいね」

 彼女の言葉に、私は重い身体を全力で起こして気持ちを奮い立たせる。


「……速水は? 速水を助けなきゃいけないの。あの子はどこにいるの?」


 私が聞くと、翡翠は首を縦に振った。

「……彼はさっき私が逃がしたわ。すぐにあなたの仲間が見つけてくれる。西羅の呪術は強いけれど、朱鷺子は催眠術に精通しているから、解くことができるわ。完全に解けるには、おそらく二~三日くらい時間が必要だけれど」



 言いながら、翡翠は私の手にかかる錠の鍵を外してくれた……。



 私は身体の力が抜けて、がくんと彼女にもたれかかる。

 肩に触れるくらいに伸びていた私の黒髪が乱れて、目にかかる。

 翡翠は私を抱えるようにして水牢の外に出してくれ、ひとまず石作りの少し高くなっている椅子のような出っ張りに私を座らせ、草履を拾ってきて履かせてくれた。そのとき、ふわりと翡翠が、私の冷え切った足先を両手で包むようにして……なぜか足があたたまり、少し感覚が戻った気がした。


 そして、翡翠は私の目を覗き込むように見て、秘密を打ち明けるように続けた。


「西羅は長い間の戦いで……少し、おかしくなってしまっているの」

 おかしくなって……?

 私は頭の中で、もう一度彼女の言葉を繰り返す。衝撃的な話が続き、どこまで正確に玲たちに伝えられるのか、なんとかすべてを覚えていなければと必死だった。


 翡翠は続けた。

「おかしいと気付いたから……私は彼のところに来たの。

 止められると思った。でも、私の声はもう彼に届かなくなっていて、止められなかった……。速水を攫うことは、私の知らないところで話が進んでいたの。昨日、西羅が西の砦に戻ってきて、それでこのことがわかった。速水を囮にあなたを捕らえる目的だと。


 それで、わかってすぐに私、こちらに忍んで来たの。

 西羅は自分で自分に呪術をかけてしまって……私が傍にいても、私の力だけでは、戦いを止めることができない。でも私には彼を殺すこともできない。


 これから私とあなたに、どんな未来が待ち受けてるのか、私にはわからないけど。

 どんなつらいことが起こっても、玲を、皆を信じて。薫は私でなく、薫として東軍にいるの。東軍は、私が作った最高の仲間だから……必ずあなたのことを助けてくれる」


「どうして……どうしてそんなことを教えてくれるの?」


 翡翠は、何か言いかけて……少し首をかしげて、悲しそうに笑った。


「最近の西羅は、私のこともわからなくなっていて……この前の、南の谷での戦も、部下を仕向けて、自分は引きこもって戦陣に立たなかった。まるで、西軍を滅ぼしたいみたいに。


 でも、今回は、速水を囮にして、私の代わりの薫を捕らえた……。

 今の西羅の行動は散漫で、私の言葉も届かなくなってしまって、私はあなたに会うまで、もう手詰まりでどうしようもないと、どこかで思ってた。


 でも薫に今、実際に会って……、私にそっくりだけど私と全然違う、薫の生命力に賭けてみたくなったの。私だけでは、西羅を救えない。でもこれは私の直感だけど、もしかしてあなたと、東軍の皆だったら、何か変えられるかもって思ったから」


 信じられないことに、翡翠は冷え切った私の身体をあたためるように、ぎゅっと抱きしめた。

 ほのかな暖かさが伝わって、私は驚くと同時に彼女の優しさを痛いほど感じていた。


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