46. 西羅の傀儡
速水が助かってよかった。でも胸騒ぎが止まらなかった。
これ以上、何があるっていうんだろう。予感じゃなくて、はっきり未来が見えたらいいのに。
私は落ち着かない気持ちのまま、明日蔵に片付けようと考えつつ速水邸の土間で鎧を脱いだ。疲れ果てて浴衣にも着替えず袴姿で、家の中が寒すぎて袖無し半纏を羽織り、変な格好で布団に倒れこんだ……。
ほっとしたのも束の間のことだった。
その夜、疲労度が高く、でも興奮が冷め切れていなくて眠りが浅かった私、がらりと木製の雨戸が開く音で意識が覚醒した。
暗い部屋の中、縁側を見る。
背後からの淡い月の光を受けた速水の姿がそこにあった。
いつも仔犬がじゃれついて来るようにきらきら光るその瞳。それが異様に虚ろで……右手には短刀が握られていた。きらりと冷たく光るそれを見て完全に目が覚め、飛び起きる。
「……速水……!?」
少し私の反応が遅かった。
駆け寄った速水が持つ短刀の切っ先、私の腕をかすめる。
そして私は、一ヶ月前の戦で負傷した左腕、その同じ箇所をまた負傷したと知る。
鋭い痛みが走り、思わず抑えた右手にじわりと生暖かい液体の感触……浴衣の袖に血が滲み、床に腕を伝った赤い血がぽたりぽたりと落ちて染みを作った。
その傷の痛みが、速水から切られたというショックを増幅させた。
でもそれよりも衝撃だったのは、速水の様子だった。その空っぽな何も映していないような瞳。こんな目をした速水を、この数ヶ月、私は一度も見たことがなかったから。
「どうして、速水……!」
私の言葉に速水は反応しない。
遠くを見ているようで、その目に私は、薫として映っていない。
野菜や着物を扱う時も、速水はこんな目をしない……まったく違う人みたいだった。
数時間前まで、速水を救出するために南の谷に行っていた。その疲労と、いま目の前で起こった事実に対する混乱の中、私ははっとした。
『西羅は呪術を使う』
黎彩や滝の言葉を思い出す。
明らかに速水の状態は変だ。操られているみたい。
西羅が何かしたのかもしれない。そうでなければ、こんな風に虚ろな感じにならないんじゃないか……?
私はとっさに、腕を斬られた拍子に切れていた上衣の切れ端を千切り、血に汚れたそれをそっと握りしめた。
「……どこに行くの?」
静かに近寄り、私の手首を素手でつかんで縁側から外に出ようとする速水。平静を装って私は聞く。すると速水は、信じられないほど抑揚のない声で答えた。
「僕の馬で翡翠の街を出る。一緒に来て」
速水が神殿で馬の稽古をしているという話は聞いたことがあった。
巫女だった母親のものだった馬に乗っているということも。
そして私は、速水をこのまま放っておけないと思った。でも、どうにかして玲に知らせなければ。
慌てて草履を履き、速水邸を出て翡翠宮の裏口を通る瞬間、私は上衣の端切れを木戸の隙間にそっと挟んだ。月明かりに、私の血で汚れた紺地に白い模様の布が、ほのかに光る。
神様。
どうか玲が、この異変に気づいてくれますように……!




