40. かけられた罠
私が風雅の国に来て三ヶ月。
年が明け初陣から一ヶ月弱が経過し、翡翠宮での日々も少し落ち着いてきていた。
姫教育は相変わらず大変だけど、馬の紅玉との遠乗りや、速水と囲炉裏を囲んでの他愛ないおしゃべりが私の心の支えだった。
ある夜、夕食を食べているとき、速水が聞いた。
「薫は、翡翠さまの馬だった紅玉に乗ってるんだよね? 乗りこなせるようになった?」
「うん。なんか、最初の頃から気が合ってね。初陣の時は速歩も出来るようになってたし、最近は駆足もできるようになってきたよ」
私が焼き魚を頬張りながらにこにこしてそう言うと、速水は驚いた顔をした。
「すごいね! 紅玉って、気難しいって神殿でも有名で、気に入らない人が飼葉をあげても、ぜったい食べてくれないんだよ?」
今度は私が驚く番だった。
「えっそうなんだ。言われてみれば玲も、紅玉に何回も、私のこと気に入ったのかって聞いてたような……」
「玲さまは不思議で、神官だからなのか、どんな馬でもすぐなつくんだよね」
そう言って、速水は私に、そっと秘密を打ち明けてくれるように、言った。
「じつは僕、巫女の家系だからだと思うんだけど……人の周りの空気の色が見えるんだ。それで、玲さまの色は、星空みたいな澄んだ群青色で、細かい銀色の粒子に包まれてる感じなんだ」
私は驚くと同時に、ああ、でも、わかる。と頷いている。夜空に輝く星とか、月みたい。日本にいた頃から、玲にはそういう、冴え冴えとしたイメージがあった。
「すごいね、速水。それって、私はどう見えるの?」
思わず自分のことも聞いてしまった私に、速水はにこにこと笑って。
「薫はね、綺麗に晴れた日の空みたいな水色で、まわりが金色にきらきら光ってる感じなんだ」
私は思わずぐっと来る。
「そんなすばらしいものでは……」
謙遜する私に、速水はくすくすと笑った。
「速水、すごいね。そういうのが見えるんだ……。でも、玲の馬、天藍は、本当にかっこよくて賢い馬だよね」
照れてしまって話題を変えると、速水はそれにもうんと頷く。
「うん。僕も天藍のこと、本当に大好き。綺麗で、いつまでも見てられる」
「速水は乗馬はどれくらいできるの?」
「僕は母の馬に乗ってるんだけど上手いよ! 九歳から神殿で習って、駆足もできるもん」
「え~そうなんだ。そしたら今度、一緒に遠乗りしようか」
「いいね! やろうやろう」
こんな風に。
速水の素直な性格に私は日々癒され、玲の雰囲気も、私がここに来た頃のどこか張り詰めたような感じから少し変化があり、表情がやわらかくなったような気がしていた。そして南の谷での戦以来、西軍の動きは静かで、なんだか平和な空気が流れている感じだった。
でも、一月も十日ほど経ったその日、すべてが変わった。
その日の朝、いつものように速水は神殿の学び舎へ、私は姫教育のために翡翠宮へ向かった。でも、私が夕方になって速水邸に戻った時も、そこに速水の笑顔はなかった。
なんだか胸騒ぎがして神殿に行ってみるけれど、姿は見えない。不安になって、翡翠宮の青の間に戻った。夕方五時すぎ、青の間には玲と夏野の二人だけがいた。
「どうした、薫? 忘れ物か?」
笑顔でそう聞いてくる玲に、私は不安な気持ちを隠せずに伝えている。
「……玲、夏野。速水が、神殿の学び舎に行ったまま、帰ってきてないみたいなんだよね……」
「速水が?」と玲。
「それは心配だな。通常、学び舎は午後三時過ぎには終わるはずだが……」
夏野がそう呟いたとき、激しく走る複数の足音がして、黎彩と滝が一枚の矢文を手に持って走り込んできた。
「街の門にこれが刺さってた……速水が西羅の手に捕まった……!」
一瞬、耳を疑った。
急なショックで身体がこわばり、滝から矢文を受け取る手が震えた。
そこには端的に冷たく、墨でただ一行が記されていた。
翡翠の代役を西軍に差し出せ。さもなければ女と暮らしている子供の命はない。西羅
滝の話はこうだった。
日々、軍ではその日の担当が、翡翠宮や街を取り巻く塀、外につながるいくつかの門と、その外周の見回りをしている。今日の見回り担当は滝と若手の梓だった。そして、滝が門に刺さった矢文を見つけて、まず軍に戻り統括している黎彩に報告、その後二人が青の間に駆け付けたという流れだったらしい。
「ふざけんなとしか言いようがないよね……」
私は思わず呟いて、矢文を握りつぶしそうになっていた。頭に血が上って、思わず男言葉になってしまう。今朝、「行ってくるね」とにこにこ笑って手を振った速水の姿が脳裏に浮かんだ。
素直で人を疑うことを知らない速水。
突然この世界に現れた、皆が着ている着物や袴とはまったく違う制服姿だった私を家に泊め、お母さんの形見の着物も迷わず貸し、神殿の僧医に交渉して私の分の食材も分けてもらうようにしてくれていた。邪念も欲もない、ひたむきな子。そんな子が、私と一緒に暮らしているから攫われたなんて。
「……私、助けに行く……。速水を、取り返してくる……!」
静まりかえった青の間に、私の声が響いた。皆の視線が私に集まる。
夏野が、いつも通りの冷静さで口を開いた。
「……薫、ちょっと落ち着け。西羅はお前を狙ってるんだ。翡翠の代役……薫を誘い出すために、速水を捕まえた。これは罠だ」
「関係ないよ! 速水の命が危険で、私を求められてるなら、行くしかないよね? 翡翠として皆を守るのが私の役目なのに、私が行かずに速水が危険な目に合ってるなんて、おかしいよ……!」
私は思わず感情的になって夏野に言い返していた。速水の笑顔が思い出されて胸が痛む。私がここに落ちてきた最初の日から、ずっと近くで支えてくれていた。
速水が危険にさらされるなんて、私の中で起こってはいけないことだった。




