26. 身代わり姫の胸の内
滝の剣術稽古を終えて、私は湖畔の裏口から治療室に入った。
そこは朱鷺子さんが体調不良者を診る医務室で、部屋の隅に清潔な白いシーツが敷かれたベッドが二つと、真ん中には四角い木のテーブルと椅子が四脚、台所風の流し台があり、そして、お湯を沸かしたり簡単な調理もできそうな小さめのかまども部屋の隅に設置されている。
……と、そこでは玲がお茶を飲みながら、朱鷺子さんと談笑していた。
入ってきた私を見て、優しく微笑んでいる。
「お疲れ、薫。初日は大変だったろ? 着替えたら、おまえも薬草茶飲んで行ったらいい。結構うまいぜ」
私は目の前がチカチカしそうな位疲れていたけれど、なんとか玲に微笑み返し、
「うん、……そしたら、着替えて来るね」
と、ベッドの周りに取り付けられているカーテンを引いて、まずは着替えることにした。
身体がぎしぎしして、着替えるのもゆっくりとしかできない。
私は、う~とうなり声を上げたくなるのを必死でがまんして、淡いオレンジ色の着物に着替え、滝が持ってきてくれた練習着を最初に包まれていた風呂敷に包み直し、それを抱えてゆっくり玲の隣に座った。
朱鷺子さんが、ほんのり湯気が出ている小ぶりの湯飲みを渡してくれる。
「はい、薫。薬草茶よ。ゆっくり飲んでね」
「ありがとうございます……」
朱鷺子さんにぺこりと頭を下げて一口いただくと、ほろ苦い味が喉にひろがって、少しすうっとする感じもする。ミントか何か配合してあるのかな? と思いながら、私は急に激しい筋トレをした後で、あまりの疲労度に泣き出しそうな気持ちにすらなっている。
「あんまり好きな味じゃなかったか?」
私が涙目なことに気付いたのか、覗き込むようにして玲が聞いてきて、私はぶんぶんと首を振った。
「大丈夫。ちょっと疲れて、でも、おいしい……しみわたるよ……」
言いながら、ほんの少し声が震えた。初日とは言え、滝の激しい性格もあるのか、口調も訓練もかなりきつかった。これからもがんばるけれど、かなり疲労度が高いところに温かいお茶を勧められて、しかも玲が優しくて、またもちょっと泣きそうになってしまう。
優しくされると心が弱くなりすぎてしまうんだ。どんな時でもちゃんと立ってなきゃ、と、心底思う。ここに来た最初の頃、私は玲の態度に怒りを感じていたけれど、右も左もわからないこの場所で自分の力で立つという意味では、かえって良かったのかもしれなかった。
そんなことを考えながら、もう一口お茶を飲んでいたら、玲が穏やかな、どこかなだめるような口調で言った。
「……明日の午後は、俺と乗馬訓練だから。最初はゆっくり、馬に慣れるところから始めたらいい。馬と友達になるような気持ちでのんびりやろうぜ」
耳に心地よく響くその声が余計に涙腺を刺激して、でも泣くのを一生懸命に堪えて、どうにか私は頷いていた。
玲との乗馬訓練。不謹慎かもしれないけれど、私はそれをとても楽しみにしていたのだ。
「着物じゃ馬に跨がって乗るのは厳しいから……速水の母親って、乗馬とか作業用の袴は持ってなかったのかな……。薬草茶を飲み終えたら、速水の家まで一緒に行こう。それで、明日の格好考えようぜ」
急な玲の言葉に、私はうん、と頷いていた。玲の真意がわかって彼の態度がとても柔らかくなった今でも、時折、ここに来てすぐの頃の彼の冷たさが思い出されることがある。そうすると心の奥に氷が滑り込んだようになって、私は玲に自分から話しかけたりすることをほんの少し遠慮していた。でも、一緒に明日の服装を考えようというそれは、とてもうれしい申し出だった。
「もし、速水の家になかった時のために、私のも用意しておきましょうか? 着方を教えた方がいいと思うから、明日、薫は昼食後にここで着替えて行けばいいわ」
朱鷺子さんの申し出に、玲と私は声を揃えて、「よろしくお願いします」と言った。




