2. 玲の部屋に残されたもの。そして薫は。
海の近くの、オートロックではない簡単な造りのマンションの四階。
窓を開けるとさざなみの音が聞こえて潮風が香る。
その古いマンションは私のお気に入りの場所だった。
玲の部屋は、ドアをノックしても反応がない上に、鍵もかかっていなかった。
ドアを開けた瞬間、私は沈黙して、部屋の中を見回してみる。テーブルやソファやテレビに冷蔵庫、家具はそのままだったけれど、まったく生活感がなく、綺麗に整頓されていた。
もともと玲は片付けが好きな感じだったけれど……鍋や食器も片付けられていて、まるでモデルルームみたいな感じ。人の気配も、ない。
「玲……どこにいるの?」
声が震えた。心臓が早鐘をうつって、こういうことを言うんだ。
泣くに泣けない気持ちで、どうしよう、どうしたらいいんだろう、と、頭の中でぐるぐると考えている。
そこで、目に入ったひとつのものがあった。
玲が使っていたメタリックブルーのスマホが、テーブルの上に、もういらないもののようにぽつんと置かれていた。
……でも。
数日前、十月七日は玲の誕生日だった。
学校帰りのマンションの前で、私が玲に渡した誕生日プレゼント……それは、玲の瞳みたいだと思って選んだ、月と星が彫られた小さな木製チャームに細い紐がついた、ストラップのようなものだった。
小さなリボンにくるまれたその包みを開けたとき、玲は驚くほどうれしそうに笑った。私がその笑顔に目を奪われ、しばらく沈黙していたら、玲は言った。
「……ありがとう、薫。すげえ、うれしい……。一生、大事にするから」
一生?
「一生とは大げさだね……」
笑いながら玲を見上げた私は、その玲の、なぜか切ない笑顔に言葉が止まった。
そのまま少し見つめ合った後、玲はそっと私にキスして……そのチャームストラップをとても大切なものを見るような、そんな感じでしばらく見つめた。
「ほんと、ずっと大事にする。……ありがとう」
もう一度、お礼を言われて、いやな予感が胸にこみあげた。
どうしてこんなにいやな感じがするんだろう。
私は自分でも不思議に思って、そのことを玲に言えずにいた。
玲は、ここに付けたらいいなと言って、それをスマホのホールに付けていた。この何日間か彼の隣にいて、それが揺れる度に大事にしてくれてるとわかり、私は内心、とてもうれしい気持ちになっていた。
それがスマホから外されて、なくなっていた。
……どこかに、持って行った……?
そのとき。
……ごおおん……。
「……なに……?」
不意にクロゼットの中からかすかな音が聞こえた気がして、私はクロゼットのドアノブに手を触れた。
映画やドラマだと、ここに死体があったりすることがある。自分の最悪な想像におののいて手が震えてくる。私はびくびくしながら、ゆっくりとクロゼットのドアを開けた。
瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
そこにあったのは、洋服でも屍でもなく。まわりがきらきらと金色に光って、真ん中は黒いブラックホールみたいな渦を巻いた、大きな穴……。
思わず絶句して息を呑み、じっとその穴を見つめる。
もともとはただのクロゼットだったことを知っていた。玲の制服やトレーナーが丁寧にハンガーにかけてあるところを見たことがあったから。
でも、今は。
そこにあるのはまるで宇宙の果てみたいな闇だった。中心から風が巻き起こっている。
「……こわすぎる……!」
私の声は、風の音にかきけされて自分でも聞こえない。急に目の前に広がった宇宙みたいな暗闇に対する恐怖で、自然と目から涙があふれる。
玲、どこに行っちゃったの?
このブラックホールみたいな渦、絶対玲がいなくなったことと関係あるよね……?
怖い。
でも、玲に会いたい。
ここで諦めたら、もう一生会えないかもしれないなんて、変な予感があった。
そしてそれは私にとって、まったく、心の底から意味がわからないことだった。
好きだと確かに聞いた。私も好きと何度もつたえた。
たった半年、されど半年。
キスしたり、抱きしめあったり、笑い合ったり。
図書室で見た画集、夏の花火大会。ちょっとしたすれ違いでケンカしたりもした。
あの数々の出来事はなんだったんだろう?
私は一歩、ごうごうと音を立てるクロゼットの渦に近づいた。なぜだかこの向こうに玲がいる気がしていた。
その渦は、低く獣がうなるような音を上げながら揺れている。
......本気で怖すぎる。心臓の音がめっちゃうるさい。こんなわけのわからない穴に飛び込むなんて、かなり狂ってると自分でも思う。
でも、玲がこの先にいるかもしれない。それは、妙な確信だった。
急にいなくなって部屋に来てみたら、どう見ても怪しさ満載の黒い渦があって、それで?
「……絶対、この先にいるよね……」
呟いた時、足下に一瞬、光る何かが目をかすめた。
クロゼットの開いたドアの脇で、何かがきらりと光った感じがして視線を流すと、小さな勾玉が落ちていることに気づく。玲が紐につけて首にかけていた記憶が蘇った。
前に聞いたとき、お守り代わりと言っていた……。
この勾玉も、玲がここを通った証拠だよね?
めちゃくちゃ怖すぎるけど、でも。
抱きしめられたあの感触を身体がまだ覚えていた。
玲に近づくといつも、ハーブみたいな香みたいな良い匂いがした。
勾玉を拾い上げた瞬間、微かにその匂いがしたと思ったのは気のせい?
そして怖すぎて凝視していた渦の奥に、ほんの一瞬、着物を着た誰かが立っている姿が見えた気がした。
全部夢なのかな。私の気のせいなのかな?
でも、……それでも。
私はぎゅっと自分を抱きしめた。我ながらがくがく震えてる。
深呼吸して、足に力を込めてブラックホールに近づく。中心から渦巻く風で、顎のラインで切り揃えている私の髪が翻る。
身体だけじゃなく、心まで飲み込まれそうだった。不安すぎてどうにかなりそう。
でも、行こうと思った。
その時、頭の中に、少し前に言われた言葉が響いた。
「自分が信じることがあったら、思うようにしていい」
それは私のお父さんの言葉で、私はあのとき、お風呂に入ろうとしていて、急に父が何のことを言っているのかわからなかった。……でも。
信じることがあったら。
私はついに心を決めた。
「行け、薫……!」
思わず目を閉じる。言い聞かせるように自分に命令して、思いっきり飛び込んだ。
風の音がごうごうと響き、一瞬ふわりと身体が浮いて、その後、まっさかさまに落ちていく。
何も考えられなくて、遊園地のフリーフォールみたいで気持ち悪い……怖い怖い怖い!
声が出なくて、心の中、私は玲の名前を呼んだ。意識が遠のく。やばい、このままじゃ気を失ってしまう……!
その時、ふいに彼の笑顔が脳裏に浮かんで、心臓を掴まれたような気持ちになった。
あの、どこか寂しそうで切ない、星がまたたくみたいな玲の笑った顔。
「……ぜったい見つける……!」
そう思った瞬間、意識がふっと途切れた。暗闇に落ちていく感覚だけが最後に残った。




