11. 異邦人は空き部屋に潜み、
まだ出会って間もない、四月下旬のある日の学校帰り。
玲が、昼休みに図書室に行ってみたらすごく楽しかったと言った。
じゃあ明日の放課後も行ってみる? と私は彼を誘って、翌日、下校する前に学校の図書室で少し勉強することにした。
玲は本当に楽しそうに画集を見て、私は苦手な数学の勉強をしていた。
一心に見ている玲に、
「誰の絵みてるの? さっきからページ変えてないね」
と、数学に嫌気がさしてきた私は声をかけてた。 玲は少し微笑んで。
「モネ。父さんが好きって言ってたんだ。綺麗だな」
と言った。私は隣から覗き込んで、
「睡蓮のシリーズが人気なんだよね」
と言うと、玲、へえ、と頷いて。
「いつか本物を見に行こうよ、フランスに」
私が笑うと、玲は一瞬真面目な顔で私を見つめた。
いやなのかな? 英語苦手って言ってたな、と少し首をかしげて彼を見ると、玲はやさしく笑って少し目を伏せ、頷いた。
「……そうだな。行けたらいいな」
その後、窓の外に視線を流した玲のその切ないとも言える表情に、私は何か、口に出せない疑問を感じていた。
あまり行きたくないのかな?
……それとも、何か行けないような事情があるのだろうか。
目を伏せる玲の癖を、最初に感じたのはあの時だった。
風雅の国に落ちてきて、三日目の夕方近く。
速水に案内されて、またあの翡翠宮と呼ばれる立派な御殿に向かう。
速水には先に帰っておくようにお願いして、教えられていた空き部屋に、そっと忍び込んだ。ふすまの隙間から、青の間の方向をちらりと覗く。緊張で手がちょっと震えていた。
忍び込むなんてことをするのは、人生で初めてかもしれない。私はちょっとやばいくらい緊張して……でも、今はこうするしか手立てがないような気持ちでいた。
玲。
心の中で、彼の名前を呼ぶ。こんなことをしたら余計に嫌われてしまうのかな、と思ったら血も凍るような気持ちになった。でも。じっとしているのも耐えられなかった。お願いだから、今日こそ真相を教えてほしいと思った。
しばらくして、遠くから静かな足音が響いた。
来た。
ふすまの隙間から、近づいてくる玲の姿を見つめる。最初にここで会った日と同じ、藍色の着物を着た玲が、ひとり廊下を歩いてくる。
いつもの静かで綺麗な雰囲気、でも今日は、なんだか疲れた顔をしているような気がした。
他に誰もいなくて、玲が一人で歩いてくる、それは私にとって、またとないチャンスだった。私は息を潜めて、玲が空き部屋の前を通る瞬間を待つ。
……今!
私はさっとふすまを開けて。
「玲!」
小さな声で名前を呼びながら、腕を掴んで彼をその部屋に引き込んだ。
玲、さすがに驚いた顔で、「うわっ」って声を上げるけど、私はふすまを静かに閉めて、玲を壁に押しつける。
こんなことをしていいのかわからなかった。
でも、内心で、今だけは仕方ないと、自分を必死で納得させていた。
その時。
私がつかんでいた玲の着物の襟元から、するりと布の動きに合わせて、流れるように外にこぼれ落ちてきたものが、あった。
小さな木彫りのチャーム……。
私が何日か前に玲にプレゼントした、月と星が細かく彫られた玲の瞳みたいなそれが、細いストラップの紐から麻紐みたいなものに付け替えられて、長めのネックレスのような感じで、玲の首にかけられていた……まるで大切なお守りみたいに。
……泣くかと思った。
あの日、玲の部屋でストラップがスマホから外されているのを見た。
それは私の中で、ブラックホールに飛び込む時のかすかな希望だった。
持って行ったのかもしれない。それは気のせいかもしれなかったけれど、でも。
そのことがあったから、私はあの怖い真っ暗な渦に飛び込むことができたんだ。




