3-4
「うわぁぁぁあぁぁぁぁぁん!」
世間には、三度目の正直、という言葉がある。
一度目や二度目の結果は良からぬものだったとしても、三度目こそは幸運な結果が期待できるという意味だ。――しかし。
今度こそクリューが、という期待を抱く間もなくそれは、スプートニクの聴覚に強烈な自己主張を訴えてきた。
「なッ」
扉が開いて、姿より早く店内に飛び込んできたのは、絶叫だった。甲高く遠慮のない子供の声に、さすがのスプートニクも両手を耳に当てて顔をしかめる。周りを気にせず響き渡る声はクリューのそれより遥かによく響いて、耳につく。これならまだ、あれの泣き声の方が可愛げがある。いったい、何事だ。
そのうちに絶叫の主が、扉をくぐって中に入ってきた。――保護者を連れて。
彼女らのことを、スプートニクは知っていた。
「雑貨屋の」
「こんにちは。お仕事中ごめんなさいね、スプートニクさん」
「……ああ、いや」
困り顔の雑貨屋店主夫人は、そうスプートニクに謝罪すると、絶叫の主である自身の娘アンナに向けて「ほら、静かになさい」と叱責した。「聞かなきゃいけないことがあるんでしょう?」とも。聞くこと?
と、アンナはなんとか泣くのをやめた。下唇をぐっと噛み、鼻をすすり、うぇ、ふぅ、うぇ、としばらく涙の余韻を耐えた後、スプートニクを見上げる。
「く、クリューちゃん、ひぐっ、い、いま、いますか」
「あいつなら出掛けたぞ」
「なん、で」
「さて。明日からどこかに行くって言ってたから、その準備も兼ねてるんじゃねェの」
「じ、じゃあ、じ…………お、おが、おがぁぁぁあぁぁぁぁん」
それは『おかあさん』と言おうとしたのか、それともただの泣き声だったのかはわからない。ただいずれにせようるさくて、スプートニクはまた眉を寄せ、掌底で耳を塞いで「うるせェ」と叫び返した。親がいる前での暴言である、たとえばそれが顧客だったら許されざる蛮行だが、生憎これはただの『ご近所さん』で、そして雑貨屋夫人は正当な抗議で気を害すような人間ではない。案の定、彼女は娘を「静かになさい」と窘めた。
しかし。静かにはなったが、涙を止ませるには程遠いようだ。顔を伏せ、一生懸命涙をぬぐうアンナを見ながらスプートニクは、こちらでは埒が明かないと判断した。雑貨屋夫人を見る。
「何があったんです」
「それがねぇ」
尋ねると彼女は、頰に手を当て、眉を寄せ、心底呆れたようにため息をついた。
「ごめんなさいね、実はうちの子がクリューちゃんに、家出をするよう焚きつけたらしくて」
「クーに?」
「ええ。……ここ最近、クリューちゃんがスプートニクさんのことで、何か悩んでいるように見えたみたいで。その解消のために、スプートニクさんからちょっと離れてみたらどう、って言ったらしいの」
成程。
――と思ったのは、アンナの泣いている意味が分かったから、ではない。
ここ最近ずっとこちらにべったりだったあれが、先ほどから突然に挙動不審になったのはこいつの差し金かと、納得がいったのである。
とはいえさほど怒りは湧かなかった。どんなことを誰に言われたとしても、的外れなアドバイスを真に受けて行動し始めたのは、他でもないあの馬鹿だ。
ひぐー、ひぐーと息をして、ときどき「うぇっ」とえづくアンナは、まだ顔を上げない。謝罪をしろと言えばきっと彼女は「ごめんなさい」と告げるだろうが、同時にまた大泣きを始めるだろう。
「で、それが、なんでこんなことに」
「それがね」
だからアンナに話を振ることはしなかった。代わりに母親の方へ問いかける。
同じく小首を傾げたまま、彼女はまた、ため息をついた。
「クリューちゃんが本当に家出して、この街からいなくなっちゃったらって考えたら、寂しくなったらしいのよ。まったくこの子ったら、ひと様に滅多なこと言って……ごめんなさいね、この子のことはよく叱っておくから、どうかクリューちゃんのことは怒らないであげてちょうだい」
「ふべっ、ふ、ふべぇぇぇえぇぇぇぇぇぇ」
雑貨屋夫人のその言葉に、また泣き喚く少女の姿に、不意に妙な笑みが、腹の底から湧いてきた。――『寂しくなる』とはまた、うちの従業員はいい友人を持ったものだ。
いなくなる、に反応したのか、また泣き声が大きくなってきた。先ほどの二の舞は御免だと、彼女の声が耳を劈く前に、軽く手を振って返事する。
「大丈夫ですよ。自分が育児に向いていない自覚はしていますが、雇い主としての自負は、それなりにあります。一時の気まぐれで解雇したり、また異常な理由で退職を認めるような雇用契約は結んでいません」
「雇い主に恵まれたわね、クリューちゃんは」
「ひぐ、ほ、ほんとにスプートニクさんがいい人だったら、クリューちゃんのことあんな風に扱ったりしな……痛っ」
「アンタは、まったくっ」
まだ涙は残っているが、そうやって毒を吐けるあたり、こちらも大丈夫だろう。また、クリューの奇妙な行動の意味も分かった。
さて、残る問題は。
――そう思ったとき、またしても、入口扉のベルが鳴った。
四回目の正直、という諺はあったかな、と思いながら顔を上げるとそこには――
*
「おっきい」
その店の脇にある馬屋を覗き込みながら、クリューはぽつり、と呟いた。
馬屋の中では数党の馬が餌を食んでいるが、どれも体は大きく、毛並みもつやつやと健康そうで、よく走れそうな子ばかりである。だというのに皆、暴れたり大声で叫んだりせず、並んで大人しくしているのだから、きっと皆いい子たちなのだろう。
ここは貸し馬車の店だ。スプートニクが遠出をする際、いつもこの店で馬車を借りているのを、クリューは知っていた。
そういえば。くりくりとつぶらな目を眺めていてふと、クリューは思い出す。
――ナツは、ニンジンいっぱい食べたら胸が大きくなったって言ってたような気がするけど。
馬の好物は確か、ニンジンだったはず。
「…………」
クリューはまず馬の黒い瞳を、それから自分の胸元を見た。確か馬のおっぱいは、後ろ足の方にあると図鑑に書いてあった。
もう一度馬の目を、そしてもう一度、自分の胸を。
「ち、ちょっと失礼して……」
体を屈め、馬の下腹部を覗き込む。
………。
「おっきい……」
――などと思ったそのとき、
「どちらさま?」
「ふぇっ!」
集中していたせいで、突然かけられた人の声に、思いきり驚いてしまった。
その場から慌てて飛び退いて、まさかこの馬が人の言葉を喋ったのかと見上げるが、馬の方こそクリューの声に驚いたようで、興奮したように鼻を鳴らして地面を蹴っていた。
「ああ、ああ、どうどう。大丈夫よ」
何とか馬を落ち着かせようとしている彼女。謝った方が、いいだろうか。――悩んでいると、視線を感じた。
後ろを向く。小柄な老人が一人、クリューのことを見ていた。
彼はしわがれた声で言う。
「勝手に馬屋に入られたら、困る」
「ご、ごめんなさい」
もとより準備していた言葉だ、謝罪はすぐに口から出た。
気を取り直して、クリューはその老人へ言った。
「くださいな」
「何を?」
「おうまさんと、馬車を貸してください。明日の朝に、ええと、遠くに、ちょっと、行きたくて」
何と言って注文しているのかはわからないが、まさか貸馬車の店で『一見さんお断り』というルールはないだろう。
そのはずなのに、なぜか寄った老人の眉は和らがない。だから慌てて、言葉を重ねる。
「あの、あの、えっと、お金なら持ってきました」
ちゃりちゃり、と銅貨を手のひらに出して見せる。おやつを買った残りのおつりをちょっとずつ貯めたもので、先ほど、貯金箱から出してきたものだ。
けれど。困ったように笑って答えたのは、老人の方ではなく、先ほどの女性だった。クリューの手のひらを覗き込んで、首を傾げる。
「お嬢ちゃん。申し訳ないのだけど、これじゃあちょっと、足りないわ」
――実際は『ちょっと』どころではないのだけれど、貸馬車の値段も知らぬクリューには、そんなことなど知る由もない。
代金が足りない。けれどクリューには、奥の手があった。ポケットに手を突っこんで、指に触れたものを握り、勢いよく、その女性に向けて差し出した。
「じゃあ、じゃあ、これ!」
それは一つの、緑色の宝石だった。
「まぁ」
「宝石です。えっと、えっと、本物です。これあげるので、これでお馬さん、貸してください」
今回の家出に於いて、クリューは金銭面においては何の心配もしなかった理由。それは、ものを手に入れる方法が、必ずしも金銭と物品の交換ではないということ、また、自身の体質によって作り出されるそれが、大変に価値のあるものであることを知っていたからだ。
――しかし。
彼女の浅はかな策略は、ここで脆くも崩れ去ることになる。
差し出した宝石を、しかし二人は受け取ろうとしなかった。
「どこから盗ってきた」
「えっ?」
まぁ素敵な宝石。これなら馬車を貸してあげましょう――そんな優しい言葉は、返ってこなかった。
「子供が、そんな宝石を持っているはずがないだろう」
その物言いは落ち着いていたが、クリューの耳にはとても鋭いものに聞こえた。
手の中の宝石を、隠すようにきゅっと握り締め、一歩後退する。けれど逃げることは許されなかった。女性の手が、クリューの肩に置かれたからだ。
「お嬢ちゃん、これ、どこから持ってきたの?」
「親のものを持ち出してきたのか。勝手に」
「ちが……わ、私、スプートニク宝石店の従業員で」
「店から盗んできたのか!」
「違う、これは――!」
ついに荒らげられた老人の声に、つられてクリューも大声で言いかけて――はた、と気付く。
自分が吐き出した宝石ですなんて、言っていい、わけがない。
吐こうとした言葉を、慌てて飲んだ。けれど怒鳴りつけられ、混乱した頭では、上手い言い訳など思いつかない。泥棒なんて、悪い人に思われたのははじめてだったのだ。
そうだ。――瞬間、反射的に振り返る。
どうしてそうしたのか、すぐには自分でもわからなかった。けれどそこに誰もいないことを認識して、自身の行動の理由にはじめて気づく。
自分の後ろには今までいつも、困るクリューをニヤニヤしながら見ている目があったのだ。そしてその人はいつも、意地悪なことを言いながらも、最後にはきちんと助けてくれた。
けれど今は、ここにはいない。当然だ、離れようとしたのは自分なのだから。
――クリューが震えている間に彼は、恐らくはその女性の名を呼んだ。
はい、と、穏やかな女性の声が応じる。冷淡にも思える口調で、彼はぽつりと、こう告げた。
「警察に連絡しろ」
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