2-7
「ねぇねぇ、クリューちゃん」
「なぁに?」
「なんで今日、ほっぺた黒いの?」
「う」
翌日。
店へ遊びに来た友達のアンナが、クリューに最初に尋ねたのは、クリュー自身もとても気にしていたことだった。
――昨晩スプートニクは、自身の耳元で怒鳴り声を上げたクリューを泣くまで叱ったが、一晩置いても彼の怒りは収まらなかったらしい。おどおどと朝の挨拶をするクリューに彼は無言で近寄ってくると、手に持ったペンの先を両頬に走らせた。最初こそ何をされたのかわからなかったが、すぐ、彼の握ったペン先にインクが確かに滲んでいることに気付く。はっと気づき、卓上鏡を覗くと頰の片方には『私は』、もう片方には『バカです』と書いてあって、クリューは思わず悲鳴を上げた。
慌てて裏に戻り石鹸で顔を擦ったが、油性のインクを使ったらしく完全には落ちず――現在に至る。
「な、なんでもないっ」
「せっかくお前の頭の中を一目でわかるようにしてやったのになァー」
「スプートニクさんのバカ!」
レジカウンターの椅子で新聞を開いているスプートニクに、噛みつくように叫ぶ。落書きという仕返しをしたことで彼の機嫌は直ったようで、彼はクリューの抗議など意にも介さずケラケラ笑った。
「またスプートニクさんと喧嘩したの?」
「むー」
答える言葉を持たず、クリューは唇を尖らせ唸った。
そうではないのだけれど、そうではないと説明するのも、心が許さなかったのである。だってもともとは、スプートニクがクリューのことをもやもやさせるのがいけないのではないか――つい頬を膨らませたそのとき、またあの言葉を思い出す。
――婚約者。
「こんやく……」
「ん? クリューちゃん、こんにゃく食べたいの?」
聞き間違えたアンナが、不思議そうに首を傾げる。「違うよ」と答えながら、クリューは胸元をぎゅっと握った。
そのとき、入口扉のベルが鳴った。慌てて顔をそちらに向けると、入ってきたのは一人の女性。クリューも見慣れたその人は、スプートニク宝石店の『お得意様』だった。
迎える挨拶をすると、彼女はこちらを向いてにっこり微笑んだ――が、クリューに対しての反応はそれだけだった。スプートニクの「お待ち致しておりました」という明るい声にまるで引き寄せられるようにして、彼の方へと歩いていく。その瞳は微笑んでいたが、先ほどクリューに向けたものとは確かに異なっていた。
例えば彼に婚約者がいるとこの人が知ったら、この人も、自分と同じ顔をするのだろうか。
つい、頰に力が入る。
――そんなクリューへ、何故かアンナは訳知り顏で頷いた。
「クリューちゃん、私わかった」
「何が?」
「クリューちゃんのその、複雑な気分の原因」
「えっ」
したり顔のアンナの言葉に、クリューは思わず息を飲んだ。
「ここ最近のクリューちゃん、暇さえあればいつもため息ついてるよね。でも、何を悩んでるのか教えてくれないから、考えてみたの。――ずばり、スプートニクさんのことでしょ?」
心配をかけたくなくて、彼女には何も話していないのに。どうして、と目を丸くしたクリューを見て、アンナはますます笑みを深くした。
「ふふふ。アンナさんを見くびってもらったら困るなぁ」
「アンナちゃんすごい、よくわかったね」
「ふふふ。もっと褒めて褒めて。別にクリューちゃんが悩むことはだいたいスプートニクさん絡みって知ってたわけじゃないよ。私の超すごい頭がそう結論を導き出したんだよ!」
「アンナちゃんすごい!」
「私すごい!」
諸手を挙げて、友達の優秀な頭脳を称賛する。
とそのとき、接客中のスプートニクが、顧客に気付かれぬようこっそりと、肩越しにこちらを睨んだのがわかった。その意味を言葉にするなら『うるせェぞガキ二人』といったところか。二人が慌てて口元を押さえると、彼は再び弾んだ声――とよく作り上げられた笑顔――で接客に戻る。
怒られないよう、二人は声をひそめて会話を再開した。ひそめすぎて掠れた声は、やや聞き取りにくかったが。
「それでね」
「うん」
「クリューちゃんがスプートニクさんの何で悩んでるかっていうとね、ずばり」
「うん」
「けんたいき、ね」
「けんたいき」
繰り返す。が、クリューの記憶にはない、聞き覚えのない言葉だ。
「なぁに、それ」
「私もよく知らないけど、男の人と女の人が長く一緒にいるとね、なるんだって。一緒にいるのが嫌になっちゃうんだって。うちのお父さんとお母さんも昔、なったって言ってた」
「ふうん……」
けんたいきというのが何なのか、どういう理屈でそうなるのか、また自分たちの現状がそうであるのかはまだよくわからないが、現状改善のための糸口として、聞いてみる、知ってみる価値はあるように思えた。
だからこそ、重ねて尋ねる。
「それでその、けんたいき? って、どうしたら治るの」
「お母さんは、実家に帰ったって言ってたけど」
「うーん」
実家のないクリューにはできない対処法だ。さっそく手詰まりになった。
鏡のように二人で揃って首を傾げて、先に意見を思いついたのはアンナの方だった。
「……取り敢えず、距離をおけばいいんじゃない?」
「同じおうちに住んでるのに?」
「別々のおふとんで寝るとか」
「いつも一緒じゃないよ!」
たまにだもん、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
傾いたアンナの頭がもとの位置に戻って、ううん、と唸る。そして今度は、逆の方向に傾いだ。
それから彼女がクリューへ伝えた言葉は、クリューの発想にはまったくなかったことだった。
「じゃあ、家出とか」
「家出」
「家出。うん、いいアイデアだと思わない? いつも近くにいるクリューちゃんが突然いなくなったら、スプートニクさん、心配で胸が張り裂けそうになるかも」
自分のことを思って不安そうにするスプートニクの姿を想像する。夜も昼もなく帰りを待つ灰の眼は憂鬱に暗く沈み、口元に当てられた節の目立つ指はともすれば吐いてしまいそうな弱音を押し留めているようでもある。そしてその彼の心中を占めているものは何か、またすべての感情は誰のためにかといったら、他でもない――
「す、スプートニクさんが、クーのことだけかんがえふぇ……」
つい垂れたよだれを、慌てて拭う。
「うん。それでスプートニクさんは、自分の中でクリューちゃんがどれだけ大事だったかに気づくのよ!」
「アンナちゃん……すごい!」
「私すごい!」
「すごい!!」
「うー、るー、せー、えーっつってんのがわかんねェのかガキ二人!」
けれど現実のスプートニクは、彼女が思うほどに都合が良くなくて。
怒りの様子もあらわに、まるで荷物か何かのように右腕でクリューを、左腕でアンナを持ち上げると、入口扉から外へぽいと放り出してしまった。「遊びたいなら外でやれ」というお叱りの言葉つきで。
扉が閉まる直前、スプートニクが何か「人が珍しく気にかけて……」と言ったようにも聞こえたが、雑音に紛れてよくわからなかった。
「怒られちゃった」
隣でにゃは、にゃはと笑うアンナに反省の色は一切ない。
一方、普段こそ怒られるとしょげてしまうクリューだったが、今回はそうはならなかった。しかしアンナのように、気にも留めていないのとは少し違う。反省はしている、しかし、今のクリューの頭の中は、彼の叱責以上に大事なことでいっぱいになっていたのだった。
スプートニクがクリューのことだけ考えてくれる。クリューのことがどれだけ大事か、気づいてくれる。それは――婚約者の彼女よりも?
たとえばその『けんたいき』を越えられたら、もしくは、『けんたいき』が治ったら。クリューが彼のどんなことも知りたいと思うように、彼もクリューのことをすべて知りたいと思ってくれるようになるのだろうか?
――思ったら、答えは口を突いて出た。
「やる」
いくらじっと見ていても、どれだけ後ろを追いかけても、駄目だったのだ。
押して駄目なら、他にやれることはあと、一つだけ。
友達の大きな瞳を真っ直ぐに見返すと、そこには闘志に燃えた自身の姿が映っている。
胸の前でぎゅっと固く手を握り、クリューは高らかに宣言した。
「アンナちゃん、私、家出する!」
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4/17(金)、特設サイトに『イラージャ』のキャラクターデザインが追加されました。どうぞよろしくお願いします。
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