2-3
喫茶店フィーネ一番奥の席に通されて、クリューはようやく、ほっとひと心地つくことができた。
衝立に阻まれたここは酔っぱらいたちの喧騒から一歩離れているが、スプートニクの姿はしっかりと窺える。エルサの影に隠れながらスプートニクの隣を行くときは心臓がはちきれんばかりに高鳴ったけれど、フードを深く被ったおかげで気付かなかったようだ。今日の夕方、動物パーカーを買っておいて良かったと、今更ながら服屋に感謝した。
しかし。「混雑しているお詫びに」と貰ったオレンジジュースをストローで吸いながら、クリューは思う。彼の向かいに座って仲良さそうに話している、あの青年は一体、誰だろう?
穏やかで中性的な顔立ちと、はめ込まれた碧い瞳はいつか見たような気もするが、どうにも思い出せない。からかうようにスプートニクへ何かを言って意地悪そうに笑う姿を、穴が開くほど観察するが、あんな人、顧客にいたろうか――生憎と、すべての客の顔を完璧に覚えておけるほど、クリューの記憶力は良くなかった。手紙のやり取りをしている友達の想い人に似ているような気もしたが、彼はあんな悪戯っぽい顔で笑うような人ではないし、そもそも彼は多忙な人で、こんなところにいるはずがない。
やがてクリューは、型崩れしたホールケーキをフォークで掘りつつ何事かを話す謎の青年、の対面にいる主へと視線を移す。
スプートニク。フィーネチカ市から帰ってから、彼は、どうもおかしい。
こちらに帰ってきてから彼は、まだ一度として夜に女性と二人きりで会っていなかった。どこかの酒場で一人で、あるいはそこの常連客と酒を飲むことはあっても、知らぬ女性と待ち合わせて会ったり、ましてや――なんてことは、クリューの知る限りなかった。また、朝帰りをすることもなく、遅くとも、後をつけてやって来たクリューが少し眠くなる頃には、会計を済ませて店を出るのだ。『あの』スプートニクはひどく珍しいことである。
振り返って思考して、再確認したような思いになる。やはりフィーネチカ市で、彼の身に何かがあったのだ。クリューに言えない何か、クリューが再三やめろと言っても聞かなかった夜遊びすらやめさせてしまうような何か――そう、例えば――
「お待たせしました」
例えば賑やかな明るい店内で提供されるあつあつとろとろのグラタン――とそこまで考えて、それが想像でなく現実のものであると気付いた。
はっと顔を上げる。不思議そうな表情のエルサと、目が合った。
「どうかした? なんだか顔が怖いわよ、クリューちゃん」
「い、いえ。なんでも、ないです」
「悲しい顔してると幸せが逃げちゃうわよ。ほら、にー」
「に、にー」
口角を上げてみせるエルサに、つられるようにして笑う。と、彼女は満足げに大きく頷いた。
「ん、よし。それじゃこちら、下げるわね。……あら」
サラダの皿を下げようと差し出されたエルサの手、しかし咎めるような口調とともにその手が止まる。同時に、笑顔も消えた。ぎくりとクリューの肩が震えたのは、彼女がそうした理由に心当たりがあったからだ。
予想通り、彼女は皿をクリューの前で降り、少しだけ厳しい口調でこう言った。
「クリューちゃん。ニンジン、残ってる」
「はう」
そして彼女が気に留めたものも、これまた予想の通り。皿に残された、千切りのニンジンを見咎めたのだった。
「き、今日は大好きなものでお腹いっぱいにして元気になりたい気分なのです」
「そう。それじゃ仕方ないわね、今日は諦めるわ。……そういえばナツは、ニンジンいっぱい食べたら胸が大きくなったって言ってたような気がするけどクリューちゃんがそんな気分なら仕方な」
「食べます」
半ば引ったくるようにして受け取り、残していたニンジンを一気に口に入れると急いで噛んで、なるべく味を感じないようにして飲み込む。
それでも少し舌に残ってしまったニンジン独特の嫌な甘みをオレンジジュースで流し込んでから、エルサに向けて空になった皿を勢いよく差し出した。
「ごちそうさまでした!」
「ん、綺麗。お粗末様でした」
にっこりと笑って皿を貰ったエルサを横目に、ぺたぺたと胸を触ってみる。……気のせいかもしれないけれど、
「なんかちょっと大きくなった気がします」
「そうねぇ、私もなんだか、クリューちゃんが素敵なレディに一歩近づいた気がするわ」
やはり。
驚きに両手を頰に当てると、エルサは小首を傾げてこう言った。
「きっとスプートニクさんもめろめろね」
「め、めろめろですか!?」
「ええ、めろめろ」
魅力たっぷりの自分に魅了されて形無しになるスプートニク――諸手を挙げて、つい、きゃあと声を上げてしまう。が、それを制すようにエルサが指を唇に当てた。
「駄目よ、クリューちゃん。今日はスプートニクさんをこっそり追いかけてきたんじゃないの? あんまり賑やかにしていると、スプートニクさんに気付かれちゃうわ」
そうだ。慌ててスプートニクの方を見るが、まだ気づいてはいないようで、こちらを見てはいなかった。クリューが彼の方を向いた瞬間、急いで顔を背けたようにも見えたが、たぶん気のせいだ。たぶん。
だから。先ほどのエルサと同じように、クリューも指を立てて、しいっ、と言う。
「静かに、です」
「そうね。静かにしないとね」
彼女は応え、盆で口元をそっと隠した。
「そうだ。ちょっと待っていてね、いいものがあるわ」
「いいもの?」
「ええ。きっとクリューちゃん、気にいると思うの」
なんだろう。首を傾げるクリューを置いたまま、エルサは踵を返すと奥の戸の中へ姿を消した。けれどそれほど待つことなく、すぐ店に戻ってくる。
腕には何か、茶色いものを抱えていた。
「お待たせ」
そして、言葉とともにエルサが机に置いたのは、一体のクマのぬいぐるみだった。
焦げ茶のつやつやした瞳と、同じ色の鼻。胸元にはちょこんとお洒落に、赤い蝶ネクタイを締めている。前方に放り出された足の裏にはピンク色の肉球があって、それもまた可愛らしさを増長させていた。そして更に、なんとも奇遇なことに――
「色合いがクリューちゃんのパーカーによく似ているでしょう? お揃いだし、いいカモフラージュになるんじゃないかと思って。きっと遠目からじゃ、似たぬいぐるみが二つ置かれているようにしか見えないわ」
彼女の言う通り、布地の色は、クリューの着た動物パーカーによく似ていた。
小さな尻尾、丸い耳、そして今の自分とお揃いの色。その完璧な姿につい見入ってしまう。なんて素敵なぬいぐるみ!
エルサはすぐに、クリューがそれを大変気に入ったことを悟ったらしい。それ以上そのぬいぐるみについて説明はせず、ただ「素行調査、頑張ってね」と言うと、皿を持って職務に戻っていった。
残されたのは、クリューとグラタンと、惚けた瞳でクリューを見つめる彼――だか彼女か――。前方に差し出された右手は、握手を求めているようでもあった。
だから、おずおずと、手を握ってみる。
そうしてクリューが目を見開いたのは、他でもない。
「これは」
なんとも驚くべきことに、その手がとてもとても、ふかふかしていたからである。
いや、手だけではない。体も、足も、そして頭も。体全体が、触れるすべてを包み癒すようなふかふかなのだった。これはとても良いふかふかだ。クリューの持つぬいぐるみの中でもきっと上位に入るだろう優秀なふかふか具合に、つい息を飲んだ――が、すぐに我に返る。
今はぬいぐるみで遊んでいる場合ではない!
「私は忙しいのです。ええと、そうこちょうさ、です」
エルサの言葉を繰り返して、鼻息をフン、と吐く。そして自身を奮い立てるように、グラタンを荒々しく掬い上げ口の中に放った。が、ぷくぷく表面を揺らしているグラタンは勿論火傷しそうに熱くて、慌てて口から息を取り込む。
ちらり、とぬいぐるみを見る。丸い瞳は「大丈夫?」と言っているようにも見えた。
「大丈夫なのですっ」
ぬいぐるみのことを気にしていてはいけない。今はスプートニクのことが最優先なのだから――ちら。
ただふかふかでふわふわで可愛くて視界の端に座っているだけのぬいぐるみに気を取られるなんてことがあるわけがないのだ――ちら。
…………。
ちら。
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