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「……危ないっ」
窓の向こうで彼が振り向いた瞬間、クリューは急いで身をかがめた。
そのまましばらく息を殺して待ち、再びそうっと覗き込む。明るく楽しそうな喫茶店フィーネの店内で、スプートニクは先ほどと変わらず、向かいに座った青年と談笑を続けていた。どうやら、気付かれなかったようである。
自分の反射神経が優れていて助かったと安堵すると同時に、できたら気付いてほしかったという相反する思いも抱き、また鬱々とした感情を思い出して、彼女はそっと目を伏せた。どうして自分は、こんなことをしているんだろう。
――頭を過ぎるのは、彼の婚約者と名乗った、魔法使いの彼女。
クリューは先日訪れたフィーネチカ市で、彼の婚約者を名乗る女性に会っていた。
魔法使いに襲われていたクリューを庇い、助け、魔法使いを退けてくれたのだ。怪我をした自分を心配してくれたことも含めて、とてもいい人だった。けれど。
彼を指して『婚約者』と呼んだことに、クリューはひどく暗い感情を抱いた。今までにスプートニクが微笑みかけた女性に対して覚えた怒りややきもちとは違う、もっともっと、暗く深い感情。それを何と呼ぶのか、辞書には何と書いてあるのか、クリューはまだわかっていない。
それでも、いや、『だからこそ』、あの街を出て、リアフィアット市に帰ってきた今も、スプートニクが自分の知らぬところで例の『婚約者』と会うのではないか、自分のいないときに『婚約者』が彼に会いに来るのではないかと思うと、気が気でなかった。
だから。
あの街から戻って以来、スプートニクが夜、一人で出かけようとするときはいつも、クリューはこうして後をつけていた。
夜な夜な外出する彼の後をつけていることは、今のところは気付かれてはいないようだ――とクリューは思っている――が、勘の鋭いスプートニクのことだ、いずれは知られてしまうだろう。そうなればスプートニクは、こんなことをした理由を説明させようとするはすだ。
けれどそんなこと、彼に言えるわけがない。だから、気づかれる前にやめなければいけないと、自分の心に折り合いをつけなければいけないと、わかっていた。
わかってはいた、が。
――ひやりと冷たい風が頬を撫でて、鼻に違和感を覚える。直後、
「ふぇっ……ぷちゅん」
一つ、くしゃみが出た。
慌ててティッシュを取り出し、垂れた鼻水を拭う。虚しい気持ちになりながら、ティッシュをポケットの中に押し込めたそのとき、
「こんばんは」
背後で声がして、クリューは飛び上がらんばかりに驚いた。
慌てて、振り返る。まず目に入ったのは、白いエプロン。夜の路地だというのに、その白はとても明るいものとしてクリューの目に映った。
後ろ手に手を組んで微笑む彼女のことを、クリューはよく知っていた。喫茶店フィーネの店員、エルサ。
クリューは彼女の挨拶に、慌てて頭を下げた。
「こ、こんばんは」
「この時間は酔っぱらいばかりで入りにくいわよね、ごめんなさい。お夕飯よね? どうぞ入って」
そしてエルサは、クリューを導くように店の入り口を指す。
けれどクリューには、その誘いに乗れない理由があった。何せ店内には、スプートニクがいるのだから。ただ夕食に来ただけだと言っても、勘の鋭い彼のことだ、信じてもらえるかどうか。
「……ええと、その」
「あっ、もしかしてただの通りすがりだった? 私ったら」
「そ、そういうわけでも」
通りすがりと嘘をつくのもできないが、「スプートニクを追いかけてきた」なんてことを言えるはずもない。恥ずかしくなって、フードの端を両手で握るとぎゅっと引き、顔を隠した。
そんな彼女にエルサがどう思ったのかはわからない。変な子だと、思ったかもしれない。……けれどその場に座り込み、クリューの顔を見上げたエルサは、いつもの通り笑っていた。
どうしよう、何と言ってこの場を切り抜けるべきか。そう悩むクリューに対し、エルサはこう、言ったのだ。
「あのね、クリューちゃん。実は私、さっきグラタンを一つ、オーダーミスしてしまって。余ってしまっているんだけど、良かったら召し上がっていかない?」
「ぐらたん」
その一言は、まるで魔法のようだった。すべての物思いを押しのけるようにして、彼女の店のグラタンの姿が、味が、クリューの頭に思い出される。
溶けたチーズ、こんがりときつね色に焼けた表面、上る湯気のいい香りは、空っぽの腹をこれでもかとばかりに誘惑する。大きなスプーンで、あつあつのベシャメルソースが絡んだマカロニを、はふはふしながら頂くのだ。苦手なニンジンも、グラタンなら美味しく食べられた。
「で、でも、でも」
「食後にはフォンダンショコラもオーダーミスする予定なんだけど」
渋るクリューの思考の中に描かれた絵が、一枚のデザート皿に差し替えられる。
皿に載ったふかふかのケーキに銀のフォークをそっと差し入れると、中からとろりと魅惑の焦げ茶色が現れる。こっくりとした甘さは単品でもクリューの心を捕らえるが、添えられたバニラアイスと一緒に食べると、冷たくて暖かくて、甘くてちょっとだけ苦くて、それでいて爽やかで、口の中が幸せ一色に染まるのだ。堪え切れなくなった唾液が一筋、口の端から漏れる。
クリューの心は更に大きく揺れて――はた、と気付く。
「オーダーミスって、する前からわかるものなんですか?」
「うふ。私くらいのベテランウェイトレスになるとね、何日の何時にどんなメニューをオーダーミスするか、前以って予測ができるのよ」
「エルサさんすごいです」
そういえばスプートニクも、ときどき、店に入ってきた客の要望を、何を聞かずとも言い当ててしまうときがある。やはり『ベテラン』は違うのだ、と脳裏にスプートニクのことを描いて、同時に現状を思い出した。
駄目だ。たくさんの誘惑に傾いた天秤を、何とか戻す。
「で、でも、でも、私、お腹空いてなくて――」
しかしその瞬間、タイミング悪く、ぐう、と腹が鳴った。
慌てて腹を押さえるが、どうやら聞こえてしまったようだ。エルサのささやかな笑い声に、観念して項垂れる。
「……でも、私」
言い訳はもう、思いつかなかった。
けれどどんな美味しい誘惑よりも、今は。
「スプートニクさんのことなら大丈夫よ」
はっと顔を上げる。エルサはポニーテールを揺らして笑っていた。
「だって今のクリューちゃん、遠くからじゃ、ただの可愛いぬいぐるみにしか見えないもの。一番奥の席に座ってしまえば、きっと気付かれないわ」
「どうして」
勢い余った問いかけは、エルサの言葉尻に被さった。
どうして自分がスプートニクのことを気にしていると、わかってしまったのだろう。一生懸命、隠していたつもりだったのに。……もしやスプートニクが、すでにクリューの行動に気付いていたのだろうか。それで、エルサに何かを喋ったのだろうか。
いろいろ思いを巡らせて、つい、表情を強張らせる。
けれどエルサは、クリューがどうしてここにいたのか、そんなことは聞かなかった。スプートニクが何を言ったということもまた言わなくて、ただ首を傾げ、いつものように微笑んだ。
「大好きな人のことは、なんでもわかっておきたいものね」
「今夜は冷えるでしょう」と差し出された手を、気付くとクリューは、握っていた。
■お知らせ
拙作の書籍版の発売日が、2015年5月3日(日)に決定しました。
書籍のタイトルは連載のものから少し変更になり、
「宝石吐きのおんなのこ ~ちいさな宝石店のすこし不思議な日常~」
となります。どうぞよろしくお願いいたします。
近いうちに活動報告も書きたいです。
参考:
http://www.ponicanbooks.jp/912/
http://www.wtrpg9.com/novel/info/021.html




