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――リャン。
名を呼ぶ相棒の声が、今もなお耳の奥に残っている。
*
この部屋の中で、碌な目に遭った試しがない。
そうわかっていても訪れないわけにいかないのは、ひとえに自身の背負った肩書きのせいだ。魔女協会コークディエ支部副支部長の肩書きを持つ彼は、部屋の主を前にして、内心でため息をついた。
「ソアラン。あの話、聞いていて?」
書類の最終確認にと呼ばれ、憂鬱な気分で訪れた支部長室。なるべく手短に済ませたくて事前に念入りにまとめておいた説明は十分も必要とせず終わったが、彼女はやはり、彼がそのまま去ることを許さなかった。
その一言で呼び止められ、彼は握ったノブを渋々離す。数拍置いてからゆっくり振り返ると、窓辺に佇む彼女と視線が交差した。
「何のことでしょう」
「数人の魔法使いが、一般民を誘拐しようとしたとか」
聞いていない、わけがなかった。
先日の話である。ここより東に位置する都市フィーネチカで、三人の魔法使いが『魔力なし』の少女を拉致、危害を加えようとしたという事件があった。彼女が問うているのは、おそらくそのことだ。
聴取の中で犯人達が「自分たちが捕らえようとした少女とは『鉱石症』の疑いのある子供で、確保し検証する必要があった」と述べたことは協会を俄かに騒がせた。
鉱石症とは『人や生き物に宝石を吐かせる』幻の魔法として魔法使いの間に古くから伝わっている。宝石とは魔法使いにとって不可欠な道具で、それを無尽蔵に生み出せる人間がいるとすればそれは――。協会本部は鉱石症の開発のためにこの現代でも『実験』を繰り返しているというし、それを持つ少女が見つかったとすれば、間違いなく魔法使いの一大ニュースだ。
……しかし、蓋を開けてみればどうということはない。すでに該当の少女は『鉱石症』の検査済で、陰性と結論付けられた報告書も確かに協会本部へ納められていた。更に、犯人を追及した結果、その報告書の主が気に食わないからことを起こした、というひどく自己本位的な動機を吐いたというくだりを読んだ時点で、ソアランはそれ以上調書に目を通すのをやめた。
そもそも、そんな調書など読まなくとも、ソアランがその詳細を知らぬわけがなかった。何せ自分はその報告書の作成者で、更には事件の際、その町にいたのだから。――しかし、前者はともかく後者は口が裂けても言ってはならぬことだ。だから代わりに、
「由々しきことです」
と、だけ答えた。
魔女協会コークディエ支部支部長。彼女は名前を、ジャヴォットと言った。
彼女は名のある魔法使いの家柄の出で、血統も、魔法の才も申し分ない。現に彼女の母親も協会本部の役職におり、将来は彼女自身も協会本部に。そういうことを考えれば、これと『仲良く』しておくことは確実に今後のためになる。それはわかっていたのだが、どうもソアランは、この女のことを好意的に見ることが出来ずにいた。
「その件に関して、あなたは、どう思います?」
予想していた質問だ。
何度も練り上げ、書き上げた台本をそらんじるような心持ちで答える。
「『鉱石症』のことですか。私の婚約者が研究を致しておりましたが、やはり眉唾なところが大きいかとは思います。先日検査を申し込んだリアフィアットの娘の件も、目撃者――誘拐事件の犯人と言うべきでしょうか――の単なるうわごと、妄言であったわけですし、」
「そちらではなく」
しかしその澱みない回答を、彼女は遮った。
伏せた視界に彼女の足元が見えて、顔を上げる。いつの間にやら歩み寄っていた彼女は、整ったその顔に蠱惑的な笑みを浮かべていた。
「あなたのことを信用ならぬと言った者たちに。何か思うところは?」
そちらか。
それもそれで、彼の中に『台本』はあった。再び、目を伏せる。
「……憂うべきことです。性差別は撤廃されたはずですのに」
「ですが現状、確かに協会本部役員には男性はおりません。――ソアラン」
細い指が彼の胸元に触れた。
「私の名があればあなたを更に立身させることなど造作もありません」
「お戯れを」
「戯れなどでは」
このやり取りを、今までに何度しただろう。
振り払うことも押し返すこともし辛く、言葉だけでやんわりと拒絶する。そういうソアランの胸元を、彼女は涼しい瞳で見据えた。
「いつになるのかしら。あなたがこのボタンを外すのは」
通常と色の違うそれは、魔法使いの作法で喪に服していることを表す。ソアランは婚約者であった彼女が亡くなったことを知った日から、一度としてそのボタンを外していなかった。
けれどその姿勢を、疎ましいと思う人も、いるらしい。
「彼女に再び見えるときと決めております」
「いつまでも彼女の亡霊に縛られて生きるのは愚かと思わない?」
「仕事がありますので。失礼致します」
彼女に対し話すことは、それ以上なかった。一歩後退して彼女の手から離れると、回れ右してノブを握る。
「ソアラン」
呼ばれた名前は、もう、聞こえないふりをした。ドアを必要最低限だけ開け、隙間から体を滑らすように廊下へ出て、すぐに閉じる。彼女が追って部屋を出てくることはなかった。
漏れそうになるため息を奥歯で噛み殺す。どこに誰の目があるかわからない協会の廊下だ、気を抜くには早い。左を向くと、廊下の奥で慌てて隠れる誰かが見えた。誰かは知らないが、どうせ支部長室から副支部長が一人、供も連れずに出てきたことに関して、また何か良からぬ噂を流すのだろう。――面白くない。
視線だけを床に落として、遠い空の下に思いを馳せる。東の街の、とある小さな宝石店。
従業員の彼女は、はたして今日も、元気に笑っているのだろうか。
お久しぶりです。お気に入り、評価等、ありがとうございました。
またのんびり書いていきたいと思いますので、どうぞお付き合いいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。




