6-4
クリューを襲った魔法使いが去っても、ローブの彼女はずっとその方向を見つめていた。
その雰囲気がどうも重たくて、声をかけるのも憚られ、クリューはただその場に立ち尽くす。礼も言わずに立ち去るなんてことはしたくないが――迷いながら視線を下に落とす、と。
もそもそ、もそもそと彼女のローブの一部が動いていることに気がついた。
なんだろう。
興味を惹かれてじいっと見つめていると、それは少しずつ下がってくる。そして、やがて裾からひょっこりと姿を見せた。
その『蠢き』の正体は、なんと。
「くもっ!?」
ローブの彼女を気遣って黙っていたことなど、その瞬間にすっかり忘れた。
現れたものは一匹の蜘蛛だった。それも、とても大きな。
クリューは出来る限りの速度で後ろ歩きして、蜘蛛から距離を取る。壁に背が張り付くまで後退してから、その異様な虫を観察。
胴体はクリューの顔と同じくらい。八本ある太めの足は先だけが黄色く、瞳はラピスラズリのような深い青をしている。パステルピンクを基調とした体色に毒々しさはないが、いかんせん形は蜘蛛だ。決して気持ちのいいものではない。
やがて蜘蛛はローブの裾から完全に這い出すと、多足を器用に操ってクリューの方へ歩いてきた。
ひぃ、と悲鳴が喉から漏れる。
殺虫剤など持ち歩いていない。どうしたらいいのかと悩む間にもそれは近寄ってきて、やがてクリューの目の前まで来ると、足を止めた。何をする気だろう、まさか飛びかかってくる気では、と震えていると――それは。
蜘蛛らしく、腹からするする細い糸を出し始めた。
しかし、巣を作りたいわけではないようだ。編み物を思わせる仕草で足先で糸を器用に絡ませて、やがて一枚の布にする。そしてそれを、たくさんある足のうち一本の先に載せると、まるで紳士のような仕草ですっとクリューに差し出した。
戸惑っていると、ハンカチを持った足が、クリューの膝を指した。促されるように見下ろして、はじめて気づく。先ほど転ばされたせいで傷ついた膝から、血が溢れていたのだった。
さて、その布を受け取ったものか。迷っていると、声がした。
「シャル。やめなさい」
ローブの彼女のそれだ。
静かな、落ち着いた声。けれどその中に、呆れの色が滲んでいる。
「脅かさないの。下がりなさい」
「…………」
シャルと呼ばれたその蜘蛛は、足を細かく動かして主へと向き直る。そして彼女を見上げると、「脅かしているのではない」と言いたそうに軽く撥ねた。
「それでも駄目。彼女が恐がっているでしょう、下がりなさい」
蜘蛛の顔に表情などあるはずもない。
けれど、何故だろう。主の命令に従ってのそのそと戻って行く蜘蛛の、二つのラピスラズリが悲しそうに歪んでいるような気がした。だから、
「あ、あの……あの」
戻るそれと彼女に向けて、声をかけずにはいられなかった。
胸の前で手を組んで、蜘蛛と、その主に向けて言う。
「私なら、大丈夫です。すみません、驚いてしまって。……私のこと気にしてくれたんだよね、ありがとう」
「…………」
蜘蛛は足取りを速め、元の通りローブの中に戻って行く。
やはり、気を害してしまったのだろうか。もう一度謝るべきかと思っていると、ローブの裾から濃青がひとつだけ覗いた。
「照れてるの。女の子に優しくしてもらうことなんて、なかなかないから」
「あは」
クリューは、虫はあまり好きでない。蝶や鈴虫ならまだしも、蜘蛛など嫌いな虫の筆頭だ。……けれどこれには、愛着を持てるような気がした。
「名前はシャル。ぬいぐるみに魔法をかけて動かしているだけ……なんだけど、最近は命令を聞きにくくて困ってるの。誰に似たのか、我がままな子で」
「ぬいぐるみ?」
「うん。だから、触っても毒はないよ。さっきの糸も、ただ綿を結ったものだし」
「そうなの。……シャル。ありがとう」
礼を言うと、シャルはクリューの様子を窺うように瞳を動かす。クリューが本当に嫌がっていないと悟ったか、やがてローブの中から足を一本出した。その先には、先ほどの布が握られている。
それを受け取ることに、もう躊躇はなかった。
「ありがとう」
しかしシャルの方はとうとう恥ずかしくなったか、クリューにそれを渡すと、頭の先まですっぽりとローブの中に入ってしまった。暫くもぞもぞ、もぞもぞと裾が揺れるけれど、やがてそれも収まる。
「背中によじ登ってきたよ。相当照れ臭かったみたい」
「可愛い」
言うと彼女は、「まったく」と言って笑った。それからようやく気付いたとばかりに、その手を頭にやる。
「……そうだ、失礼を」
そしてフードを剥いだ。覗いたのは瞳よりも少し深い色合いの髪。明るみに晒された顔はにっこりと微笑んでおり、どこかで見覚えがあるようにも思えた。
誰かに似ている。――それが誰かは思い出せない。けれど確かに、どこかで。
「あなたは……魔法使いさん、ですよね?」
「魔法使いだけど、魔法使い『みたいなもの』、あたりでお願いできるかな」
「みたいなもの? あなたは、あの人たちと、仲間じゃないんですか」
「まさか」
尋ねると、まるで心外とばかりに眉間に皺を寄せた。拗ねたように唇を尖らせて、クリューの質問へ抗議で返す。
「私は可愛いものが好きなの。可愛いものを苛めるものは嫌い」
「はぁ……」
なんと答えるべきかわからず、生返事をする。彼女はほとほと呆れたといった様子で、ため息をついた。
「あなた、ご両親がいらっしゃらないのね」
はっと、顔を上げる。どうしてそれを――しかしよく考えてみれば、不思議なことではない。先ほどの魔法使いが言っていたことを覚えていただけの話だろう。
「お気をつけなさい。あなた可愛らしいから、そういう嘘を使って誘拐しようとする輩はごろごろいるよ」
「嘘……。だったん、でしょうか」
「あれの言うこと、信用出来そう?」
問いかけられて、つい答えに詰まる。何せ相手は、自分の『体質』を知っていたのだ。親のことを知っていても、不思議ではない、けれど。相手は自分を捕まえるために、スプートニクを人質にしようとするような酷い人だ。そんな人を信じられるかというと――
クリューはゆるゆると、かぶりを振った。そんな人の言うことなんて、到底信じられるわけがない。
そのクリューの様子に、彼女は小さく笑った。
「昨晩、あの三人を見かけてね。挙動不審で少し気になっていたんだけど、見張っていてよかったよ。まったく、女の子を襲うだなんて、なんて野蛮人」
「助けてくれて、ありがとうございました……あの、お姉さん、お名前は」
「名乗るほどの人じゃないし、気にしないで」
「でも……」
「それより、あなたのそれ。壊れちゃったのね」
それ。――言われて、思い出す。
手の中の壊れた黒猫。固く握ったせいで、手のひらには跡がついていた。
「ひどい奴らね、あなたの大事なもの壊しちゃうなんて」
「いえ、私のじゃないんです」
「あら、そうなの?」
「はい。私の……わ、私の、じゃ」
自分のものではなくて。
――ならば誰のものだったのか?
それを思うと、一気に目頭が熱くなった。同時に、喉が詰まり、声が震え始める。
「お店で、売るもので、す、スプートニク、さんに、あ、預かって、く、くれって、言われて、たので、だから、だから、大事にしてて、鞄に、入れてて、なのに」
「そう、そうなのね」
「う、うぇ、ううっ」
泣いても何の解決にもならないとわかっていても、止められなかった。
膝を拭くために貰った布で、涙を拭く。彼女はそんなクリューの脇に座り込むと、ゆっくりと頭を撫でてくれた。その手は温かく、また布は柔らかかったけれど、それで慰められるのはクリューだけで、それを売るはずだったスプートニクと、受け取るはずだった家族には届かない。
けれどきっと彼らは、受け取れなかったことをクリューのせいにはしないだろう。それがまた悲しくて、涙は留まるところを知らない。
「泣かないで」
そんなクリューに、囁くように、彼女は言った。
ひぃ、うぇ、ひぃとしゃくり上げるクリューの頭をもう一度撫で、そして告げることは。
「お姉さんが直してあげるから」
「ふぇ、う、う……う……?」
涙はやがて、湧いてきた疑問符に消えた。
直す。その言葉は、嘘や冗談や、それに類するものではないように聞こえた。しかし、どうやって?
目を見開いて、彼女を見る。彼女は面白いものを見たとばかりの表情をした。
「うふ。泣きやんだね」
「な……直せるんですか……? でもこれ、こんな、こんなになってて」
「貸してご覧なさい」
蝶番の外れかけた、片耳の折れた猫を見ても、彼女は動じなかった。余裕綽々の笑顔で受け取ると、猫の上半身を下半身の上に乗せて、自身の両手の上に置く。
「お姉さんはね、魔法使いみたいなものなの。だから」
途端、手のひらから溢れた白い光の奔流が、一気に黒猫を包み込んだ。
白はまるで泉のように湧き出た後、やはり流れるように空中に散っていく。やがて大方の光が消えた頃、彼女の手のひらに残ったものは、
「わぁ……!」
「こんなことも出来ちゃう」
傷一つ残らない、立派な黒猫の姿。確認とばかりに彼女が蝶番の部分を開けると、そこには確かに、見覚えのある小さな指輪が御座していた。
はいどうぞ、とクリューの手に握らせてくれる。驚きと喜びに何も言えず、猫と彼女を交互に見ていると、彼女はウインクをして「あなたのご主人様には、一度壊しちゃったことは内緒ね」と言った。
「それから、ついでに」
消えずに残った光がきらきらと舞い、クリューの足元に触れる。と、擦り傷がみるみるうちに治っていった。それを見て、彼女はよしよし、と笑う。
その笑顔に、クリューは思った。――何かお礼をしなければ。
助けてもらっただけでなく、商品も直してくれて、その上怪我まで思いやってくれて。何のお礼もせずに別れるなんて、そんなこと出来るわけがない。
ポケットを探る。と、指先に触れるものがあった。そうだ、これが。
掴んで取り出すと、出てきたのは予想通り、黄色い宝石だった。昨晩ジンジャーエールを飲んだときに『吐いた』もの、朝に洗浄して、ポケットに入れていたものだ。本当は朝食のときスプートニクに渡そうと思っていたのだけれど、すっかり忘れていた。
後々、あのときのあれはどうしたとスプートニクに聞かれるかもしれないが、恩人に礼として渡したと言えばいいだろう。もともとクリューのものなのだし。
だから。
「あの、あの」
クリューは宝石を手のひらに置いて、彼女に向けて差し出した。
「これ、良かったら貰って下さい。お礼です、大したものじゃないですけど」
「あら。……でも、こんなに立派な宝石」
「あ、その、私、宝石店でお仕事していて。だから、いっぱいあるから……よかったら」
渋る様子を見せる彼女に、言葉を重ねる。何と言ってすすめたら、彼女は受け取ってくれるだろう。語彙の少なさがもどかしい。
彼女は、捲し立てるクリューを――正確にはその手の宝石をしばらくぼんやり眺めていたが、やがてそっと口を開いた。
まるで、夢見るような口調だった。
「この宝石。……あなたの、なの?」
あなたの、に続く言葉が何なのか戸惑ったが、『あなたの持ち物』辺りだろうと推測した。
だからクリューは、首を大きく縦に振る。
「そうです」
「そう、なのね」
繰り返す声は何故か、震えていた。
泣いているわけでは、ないようだったが。
「ありがとう」
彼女はクリューの宝石を支えた手を、自身の両手で包むと、目を伏せた。彼女の両手は、ひどく冷たい。
温めてあげたら、それも礼になるだろうか。そう思ったとき、彼女が瞼を上げた。覗いたそれは、やはり誰かに似ている気がした。
彼女は言った。囁くような、掠れた声で。
「大事にするね」




