6-3
「この辺だと思うんだけどな……」
手にした地図を改めて見ながら、クリューは眉を寄せ呟いた。
商会から出てどのくらいの時間が立ったろうか。道に迷ってはいけないと、今度は加工室から拝借した蝋石で道に線を書きながら歩いていたが、あまりにも消費が早く、途中で尽きてしまった。再び商会に取りに帰る間も惜しく、そのまま歩いてきたのだが、道はうら寂しくなるばかり。
やはり一度引き返しても商会で待つべきか――いいやスプートニクは信じてくれたのだから――けれど道しるべは途中までしかつけられなかった――それならこのまま先を目指した方が――けれど――いずれにも決められず、立ち尽くし、煩悶していると。
不意に背後で、地を踏む音がした。
すわスプートニクかと振り返る。しかしそこに立っていたのは、残念ながら期待の人物ではなかった。その人の纏ったものは、縁取りのある黒いローブ。顔はフードに隠れてわからないが、明らかにクリューを注視している。背丈と体格からして、女性だろう。
同じような服装の人を、クリューは以前、リアフィアット市で見たことがあった。店に訪れた、客ではない二人組。
魔法使い。スプートニクは彼女等のことを悪し様に言うけれども、クリューは魔法使いにもいい人がいることを知っていた。だから目の前のその人が、知らぬ街で迷った様子のクリューを見兼ねて追ってきた、心の優しい魔法使いである可能性はないではなかった。――しかし。
「『宝石吐き』だな」
続いた一言で、悪い人なのだとすぐにわかった。普通の人なら、自分のことをそんな風には呼ばない。
同時に、ここに自分を呼び出したのが彼女であること、またこの地図が、自分を呼び出すための罠であったのだということに気付く。
声を出そうとしたが、一度目は失敗した。相手に気付かれぬよう浅く細く呼吸をして、再度喉を震わせる。
「……人違い、です」
今度は、上手くいった。
そう、人違いだ。自分はそんな名前ではないし、そんな職業に就いてもいない。けれど魔法使いは、クリューの答えを信じてはくれなかった。
「嘘だな」
「どうして」
「報告にあった特徴のままだ」
報告。――何のことだろう。
「そして我々は『箒』の最終報告など信じるほど、愚かではない」
続いた言葉の意味はわからなかったけれど、クリューを救ってくれるものではないことは、なんとなく予想がついた。
それを裏付けるように、彼女は言う。
「私と一緒に、来てもらおう」
魔法使いと言えど、人の目があるところで誘拐をしようとは思わないだろう。人通りの多いところまで、逃げなければ。彼女がこちらに一歩踏み出した瞬間、クリューは背を向けて駆け出した。
が、残念ながら、逃亡はすぐさま阻まれる。
足元を何かに引っ張られたような感覚がして、気付くとクリューは転んでいた。石に躓いて転けたのではない。転ばされたのだ。自身の足元で白い光が散ったのを、クリューは見逃していなかった。
しかし彼女にとって本当に不幸だったのは、魔法で転ばされたことなどではなく。
「ああっ!」
顔を上げ、目の前のそれに気付いて、クリューは思わず声を上げた。
震える手で、二つに割れたそれを取り上げる。転んだ瞬間、ポシェットの蓋が開いて、転げ落ちたらしい。猫のかたちをしていたはずのそれは、蝶番が壊れて外れ、腹のところで上と下に分かれていた。また、右耳は根元でポッキリと折れて、辛うじてベルベットの一部で繋がっているようだ。
スプートニクから預っていた、大事なジュエリーケース。そしてその、ぱっかりと割れた腹の内から覗いていたのは――
――小さな、小さな指輪だった。
赤子用の指輪、ベビーリング。いったい誰がそれをスプートニクに注文したのか、クリューは知っていた。リアフィアット市に住むとある夫妻が、子供のために仕立てたものである。猫を模した可愛らしいケースも、夫妻はきっと気に入るだろうと、そう思ってスプートニクは手配したのだ。そして、絶対に失くせないからと、彼はそれを、クリューを信じて預けてくれたのだ。
そんな大事な商品を、壊してしまった。
呆然として、逃げることも忘れる。
だから視界の端で、振り上げられた魔法使いの手が光っても、すぐには反応できなかった。
逃げなくてはならないと思い出して、慌てて立ち上がろうとするが、手のひらと膝の擦り傷に阻まれる。恐ろしさのせいで、心臓が、息がどんどん苦しくなる。
けれど、せめてこの指輪だけは守らなければ。
最後の決意を固めたクリューが、壊れた猫を胸の前で握り締めた――そのときである。
「やめなさい」
黒い影が。
彼女の視界を覆った。
目の前が突如闇に包まれたのは、魔法使いの放った魔法の効果だろうか。
予想が外れているとクリューが気付いたのは、その黒色がうっすらと光を反射していたからだった。魔法で作り出した闇などという、そういった怪しいものではなく、ただの黒い布地。
その黒は、やたらと丁寧な口調で話し始めた。
「僭越ながら申し上げますと」
落ち着いた声音だが、よく聞くと語尾が少しばかり弾んでいて、やや楽しげなものにも聞こえる。けれども話すことは、口調とは打って変わって相手を蔑むものだった。
「隙をお見せになるべきではないかと。私が全力で迎え撃っていたら、あなたの魔法は全部あなた自身に撥ね返っておりましたよ。ええ、お気を付け遊ばされた方が宜しいかと存じます」
そしてそれらは、クリューに向けられた言葉ではないようだった。
恐る恐る、顔を上げる。すると、肩越しにこちらを見下ろしていたその人と目が合った。
「大丈夫、お嬢さん?」
「は、はい」
クリューが闇だと思ったものは、彼女の纏ったローブだった。黒の布地に金の縁取りは、魔法使いの着用するそれ。例によってフードも被ってはいたが、見上げる姿勢だったから、彼女の瞳が茶色いことくらいはわかった。
魔法使いがもう一人。けれど、新たに現れた彼女には、瞳にも、また纏う雰囲気にも、恐ろしさはなかった。
茶色の目が、クリューの答えを受けて柔らかく微笑む。
「なら、良かった」
「――誰だ」
言ったのは、クリューでなかった。低く押し殺したような声は、クリューをここへおびき寄せた魔法使いのもの。
茶色い瞳の彼女は、それに悠然と笑ってみせた。
「さて、私は誰でしょう。あなたの知らない人ではなくて?」
「答えろ!」
我慢がならなくなったとばかりに叫ぶ。クリューは恐ろしさに思わずすくみ上がるが、目の前の黒は微動だにしなかった。小さく肩を竦めただけ。
そんな彼女に相手は、苛立ちを隠せぬ様子で問いかけた。
「どこの手の者だ。――そうか。噂の、『魔法少女』か」
「魔法少女?」
呼ばれたその名に、初めて彼女の表情が陰る。
「嫌だ、勝手に納得なさらないで下さいな。あんな小物と一緒にしないで頂けます? 私は『本物』」
「本物?」
「ホンモノ。マジモノ。或いは、真正。好きに呼んで頂いて結構ですよ。何なら、試してみなさる?」
悠然と微笑みながらの彼女の言葉に、ローブから覗く唇が憎々しげに歪んだ――直後。
屋根より高い場所に、赤い光が見えた。
それを一番早く見上げたのは相手の魔法使いだ。すぐに消えてしまったが、彼女にはそれで事足りたようだ。呟いたそれもまた、不快そうだった。
「赤。人質の確保は、失敗か」
人質?
口にした言葉に、悪寒が走った。人質になりそうなクリューの知り合いは、今この街に、一人しかいない。
「――まさか」
「大丈夫」
渦巻いた嫌な想像を、はっきりとした声が遮った。
見上げる。茶色の瞳は、相手の魔法使いを見ていた。
「あなたのご主人様は、あんな輩にどうこうされるほど弱くはないし、また不運でもないはず」
しかし相手はそれに、かぶりを振る。覗く口元にはもう、余裕の色が戻っていた。
「いいや、不運だな。人質もまとめて、それの親元に連れて行ってやろうと思っていたが、それの悪運のおかげで、あてが外れてしまった」
「親?」
会話の流れからしてその単語が指すものは、目の前のどちらの魔法使いのものでもなく――だからつい、口を挟んだ。
「あなたは私の、お父さんとお母さんを知っているの?」
「会いたいか」
「…………」
そのとき手の中のベビーリングが熱を持ったように思えたのは、きっと自分がそれを無意識のうちに握り込んだからだ。
そんなこと、考えなくても答えは出る。
でも。
「騙されたら駄目」
――揺らいだその瞬間、冷水のような言葉が頭の上から降ってきて、はっと正気に戻った。
「騙す? 私は嘘など」
「質問に質問で返す人にろくな人はいらっしゃいませんよ。『あなたは彼女の両親と知り合いなのか』と彼女は聞いているの。質問を受けたのであれば、はいかいいえで答えて差し上げるのが礼儀では? よしんばあなたが彼女のご両親をご存じであったとしても、彼女を傷つけ、彼女の大事なものを壊して、更には人質を取ってまで彼女を連れて行こうとする人のことなんて、私の目には善人として映らないのですけれど?」
あくまでも、口調は丁寧に。けれど告げる言葉の一つ一つには、明らかな棘がある。
「去りなさい。私が誰かはどうでもいいこと。誰であろうと、通りすがりの『魔力なし』の女の子を甚振るような魔法使いのことを許す気は私にはありません」
「通りすがりの『魔力なし』? 笑わせるな。それは――」
「黙りなさい」
馬鹿にしたように鼻で笑う相手を遮り、ぴしゃりと言った。
「争ったところで、あなたに勝ち目がないこともわかっているはずですよ。それとも、何です、私と戦うおつもりで?」
問いかけと同時、彼女の空へ向けた手のひらの上に、恐ろしく大きな火球が出現した。それはまるで、冷静に見える彼女の腹の内を示しているようでもある。
「おやつの時間までには、済ませたいのだけれど」
微笑みながらの物言い。それに相手は、怯んだようだった。
互いの沈黙は、それほど続かなかったように思える。
相手の魔法使いの頭が動いて、どうやら、クリューを見たようだった。恐ろしくなって、目の前のローブをきゅっと掴む。
「覚えておけ」
その一言を残して、彼女は踵を返した。
――振り返ることなく通りの奥へと去って行って、そのまま、戻ってくることはなかった。




