5-4
「……悪いけど」
その女性は、眉間に深い皺を刻んで、渡された指輪をそっと、箱ごと彼の元へ返した。
「これは……」
「どういうことだ」
言葉尻を濁す彼女へ、机を挟んで座る男は身を乗り出して彼女に迫る。どういうことと尋ねてはいるが、その様子から、自分に向けられているものが芳しい答えではないことくらいは予想がついているらしい。
「はっきり言ってくれ」
苛立った様子で、彼。
はてさて、彼女は理解の至らぬ男の無知を呆れているのか、それとも現実を飲み込めぬことへ同情しているのか。いずれにせよ、わかりやすく端的に答えを告げてやらねば彼は引いてくれぬと踏んだらしい。彼女は再度箱を引き寄せ、蓋を開け。
躊躇うような、疲れたような声音――
ではなく彼の希望通り、まるで大鉈を振り切るようにばっさりと、こう告げた。
「銀貨五枚、ってところかな」
「どうして!」
彼は――先ほどスプートニクに、ラッシュと名乗ったその男は。
彼女の告げた言葉に、椅子から立ち上がってそう叫んだ。
――ここは質屋。どういったものにも値を付け、それに見合う金を貸し、返せないならその品自体を以て弁済とする、そういう店だ。
リアフィアット市には存在しないが、大陸全土を見れば決して珍しい職業ではない。返せなくなったところで無理な取り立てがやって来ることがないことを思えば、下手な金貸しよりよほど良心的と言えた。そしてそういう店を頼りたがる人間というのは常に一定数存在するもので、さほど多くはないものの、彼以外にも客はちらほらといる。
対してカウンターの奥に座った、髪に白いものの混じり始めた女性店員は、声を荒らげる彼に、ひどく呆れた顔をしていた。彼女にとって、こういう客は大して珍しくないのだろう。これを高く買い取ってもらえないわけがない、と、自身の勝手な審美眼を盲信してやってくる人間は。
「精緻な意匠に敬意を表して、銀貨五枚くらいは出してやっていい。だが、アンタの言う値段では到底買い取れないね」
「そんなわけがあるか!」
唾が飛びそうなほどに勢いよく、彼女を怒鳴りつける。
「ダイヤの、プラチナの、婚約指輪だぞ! 出来て間もない、傷ひとつない、まだ使用すらされてない! 新古品だ、もっと値が張ってもいいはずだろうが!」
けれど彼女はそれにひるむ様子はない。
どころかほとほとあきれ果てた、とでも言いたそうな溜息すら交えて、答えた。
「アンタね、何を勘違いしてるのかわからないけど、こりゃ、プラチナじゃないよ」
「はァっ!?」
男の裏返った叫び声が店内に響き渡るのを聞いて――
――どうやら寝不足で、笑いの沸点が低くなっているらしい。くっ、と自分の喉から耐えきれなくなった声が溢れたのを契機に、スプートニクは傍観をやめることを決意した。
「プラチナの装飾品ってのは、綺麗な白金色をしているだろう」
彼らの元へ届く程度に、声を張り上げる。
と、彼らは顔を上げた。店内を見回し、やがて、背丈の高い植木鉢の横に隠れるようにして、壁に寄りかかって立っているスプートニクを見つける。
みるみる顔色を変える彼に、スプートニクは笑ってみせた。唇だけで。
「だが、あれは正確にはプラチナの色じゃない。プラチナの指輪は、大抵がロジウムでコーティングされているんだ。変色を防ぎ長期の使用にも耐えうるようにするため、またアレルギーを起こしにくくするため。つまるところあれはロジウムの色なんだよな、お前が知っているかどうかは知らねェけど――いや、その様子なら知らなかったんだろうな」
見開いた目は、スプートニクが語る事実への驚きか、それとも『自身の騙した宝石商』が目の前にいることへのそれか。
けれどスプートニクにとっては、いずれであっても構わない。淡々と説明を重ねてやる。
「だから、どれだけ粗悪な銀であっても、同じようにロジウムでコーティングしてやれば、『見た目だけは』プラチナに似た白金色の指輪になる。いや、鍍金技術の進歩とは目覚ましいものだ。モノさえあれば数時間で鍍金が出来るっていうんだから」
新しい機材をいち早く仕入れていた工房には、感謝以下の言葉がない。いや、感謝するべきは、あんな夜更けに叩き起こされたというのに、注文通りの作業を行ってくれたことに対してかもしれないが。
「ついでに言えばその指輪。石も模造ダイヤ――つまりはダイヤのパチモンだ。それでも銀貨五枚の値がつくっていうんだから、俺も頑張りすぎたかな」
でも下手な加工はしたかァなかったんだよな。呟いて、自身の呆れた職業意識にケケケと笑う。
鑑定・鑑別が宝石商会の仕事なら、違法に作られた模造品を回収し二次被害を防止するのもまた同様だ。商会の倉庫には、その手のダイヤは溢れるほどにあった。一粒たりと流通させず回収することを条件に、一時的に拝借したのである。
蒼白のラッシュを前に、押さえ切れない笑みが湧く。
スプートニクは腹の底から湧いて止まない感情を、嫌味たらしく言葉にしてやった。
「やァどうも、『お客様』。どうしてこんなところで再会したのか、ご説明を頂けますか?」
スプートニクとラッシュ、二人の視線が交差する。方や鷹揚自若と、方や戦々慄々と。
カウンターの店員が、そんな彼らを交互に見ながら首を傾げた。
「アンタ、こちらのお客さんの知り合いかい?」
「知り合いっちゃ知り合いだが、それ以上ではないな。その指輪の加工師だ」
「そうなの。アンタ、なかなかいい腕をしているね」
「お褒めに預り光栄だ。……さて」
スプートニクと質屋店員、二人の視線がラッシュを見る。
椅子から腰を浮かした彼は、見当違いな抗議の声を上げた。
「さ、詐欺だ! 俺はアンタに、プラチナの婚約指輪を注文したはずだぞ! 俺もアンタを騙したかもしれないが、アンタこそ俺を――」
「何を仰る『お客様』」
なんとも人聞きの悪いことを言うものだ。スプートニクは敢えて仰々しく呼ぶと、商会から持ってきた書類束をかざして見せた。その表紙には、
「署名をなさったじゃありませんか」
紛れも無い、彼の名前が。
「それは……!」
それは、商会の応接室で彼に指輪を引き渡した際、スプートニクが『婚約指輪の受領の証』と言って、彼に署名をさせた書類。――しかしながら、中身は指輪の受領のことではなかった。
急遽の依頼であったため、外見こそ整えたが中身は質の悪い銀を、また石は商会で回収した模造ダイヤを使用していること。後日正式な指輪を誂えさせて頂くことなど、それを販売したことに関してスプートニクが宝石商として罪に問われないための、つまるところ『言い訳』が連ねられていた。そして『以上のすべての提案に関して一切の意義を申し立てず、同意をする』ことを約束した署名欄。彼はスプートニクの適当な説明に騙されて、中身も改めずにペンを走らせてしまったわけである。大事な書類に署名をするときは、隅々まで中身を読めと教わらなかったのか。
「そもそも受領証明の書類なら頭に『同意書』なんて書くか。バァカ」
せめて『受領書』、或いは『領収書』だろうに。
ちなみに。作業に追われるスプートニクの代わりにこれを作成したのは、ユキだ。あれも詐欺師の逮捕の手回しに忙しかっただろうに、朝方渡された書類は、一文字の欠けも狂いもなく仕上がっていた。
――せっかくだ、全て説明してやろう。
「お前の話の中で、変だと思ったのは、二点ほど」
言ってスプートニクは、人さし指を立ててみせた。
「一。『お前はどうして犯人のことを『クルーロル宝石商会の宝石商』と言ったのか』。宝石商は基本的に、『所属する商会』『商店の名称』『自身の名前』と名乗る」
クルーロル宝石商会所属、スプートニク宝石店のスプートニク。商会名を告げるか否かは時と場合によって変わるけれども――ユキの調査書によれば、例の詐欺師は自身を『クルーロル宝石商会所属のフェイリー宝石店』と名乗ってことに及ぶという。ということは少なくとも例の詐欺師は、宝石商の名乗り方を知っていたはずだ。
「だからアンタは、少なくともその詐欺師の店名は知っているはずなんだ。なのにアンタはそれのことを『クルーロル宝石商会の宝石商』としか言わなかった。何故だ?」
「それは――」
「二つ目」
発言は許可しない。スプートニクは、立てる指を一本増やす。
「どんな性悪でも、狸女でも、割った卵が双子なら、嬉しくなるものなんだそうだ」
「? 何を」
「俺だってまァ、店を開けるとき、入口扉の外にカラスがいたり、靴紐が切れたら嫌な気分になる。そんなことを考えたら、詐欺に遭った……一度ケチのついたものとまったく同じデザインの指輪を、プロポーズなんていう失敗の許されない場面で使いたがるかなと思ってさ」
たぶんクリューが『変だ』と言ったのはこのことなのだろう。彼女は妙に素直というか、感受性が強い分、人の心の機微に気づきやすい。何が変だと思ったのか、違和感の正体は何か、というところまではまだ気付けなかったようだが、あれもなかなか将来有望な従業員である。
「宝石商による詐欺が流行っていると、どこかで耳にしたんだろう?」
被害者の一を装い、宝石商の元締めに無理難題をふっかけて高価な指輪を作らせ奪うか、無理と言ったら慰謝料を貰ってやろうと、そういう浅知恵である。――その浅知恵にまんまと引っ掛かりかけたのは腹立たしいところだが。
そういうところに気付いてしまえば、この男の挙動は明らかに不審だった。
しかし確たる証拠はなく、だからスプートニクは、その指輪を仕立てたのだ。「なければつくる。当然でしょう」とのユキの言葉通りに、証拠となるその指輪を偽造り上げてみせた。そうして自身の要望通りに作られた指輪を、一体ラッシュはどうしたいと思ったのか。結果は、現在の通りである。
計画を立てた時点で、指輪の受領後はどう動こうと考えていたのか、そこまではわからない。すぐ質屋に持ち込もうとしていたのか、それともどこか別の街で捌こうと考えていたのか――ただ、後者であれば面倒なことになると考えたスプートニクは、「宝石商を騙る詐欺師はまもなく逮捕される」「街の出入りは警察によって制限されている」という情報を吹き込んで、街の出入りは犯罪者にとって危険であること、時間が経てば経つほど逃げづらくなるということを印象付けてやったのだ。
バタン、と背後で音がした。振り返るより早く、名を呼ばれる。
「スプートニク様!」
聞き覚えのある声にそちらを見やれば、そこには予想通り、ユキの姿が。
彼女は急いでスプートニクの元へ駆け寄ってくると、「お待たせいたしました」と抱えたバインダーの書類をめくった。
「例の詐欺師が無事逮捕されました。――几帳面な男でしてね、彼は塒に、すべての犯行記録を残しておりました。ですが、ラッシュという名の人物は記録に残っておりません」
「成る程。それではやはり、そこの男は」
「……便乗犯、確定でよろしいかと」
期せずして、スプートニクとユキの視線が同時に彼を見る。
「よくも善良な宝石商様を騙そうとしてくれやがったなこの野郎。豚箱のメシは臭ェぞ、覚悟しろよ」
「ぐ……」
彼は小さく呻き、そして――
「あ、アンタ!」
取り出したものを見て引き攣った声を上げたのは、先ほどまで彼を応対していた店員だった。
彼がポケットから取り出したのは、一振りの刃物。小ぶりだが、男性の力で刺したなら、場所によっては致命傷にもなり兼ねない。声を受けてか、彼はカウンターの店員を見る。彼女は慌てて椅子を立ち、カウンターの奥、彼の手の届かないところへと逃げた。
――そのときスプートニクがユキの前に一歩出たのは、女を守るのは男の義務とかそういう高尚なことを考えたわけではなく、単純に、ここで盾になるふりでもしなければ後が怖かったからだ。
しかし結論から言えば彼女は、それを良しとしなかった。
「畜生ォ!」
叫んで、ラッシュがこちらへ駆けてくる。
刃物に丸腰で立ち向かうのは危険だが、ユキを置いて逃げるわけにはいかない。そんなことをすれば刃物より強い仕置きが待っている。ならば上着で叩き落としてやろうと、服を脱ぎかけた――が、その瞬間。
後ろから強く、肩を引かれた。
不意のことに重心を対処できず、数歩、後退。それと入れ違うように人影が彼の前に出る。スプートニクがあっと思う間もなく、その影はラッシュの腕に捕えられていた。
「きっ……キャァァァァァァァ!」
「ユキ!」
刃物を首に当てられたその人、ユキはなんとも女らしい甲高い悲鳴を上げた。
何事かと店の奥から飛び出してきた背広姿の青年が、その光景を見てみるみる真っ青になった。悲鳴のように、ラッシュを呼ぶ。
「お、お、お、お客様!」
「近寄んな! こ、こ、こいつの命が惜しければなァ!」
恫喝――しかし舌が回っていない。
スプートニクは、背広の青年に駆け寄ると勢いよく言った。
「この店の責任者は!」
「わ、私ですがっ」
店を任されてまだ日が浅いのか、それとも元来の性質かは知らないが、責任者と名乗り出た彼は、荒事に慣れていない印象を受けた。声はひっくり返って、顔は見事に真っ青だ。
しかしそれなら、こちらとしてはひどく『やりやすい』。スプートニクは短く息を吸うと、一気にこう彼に告げた。
「私はクルーロル宝石商会所属スプートニク宝石店のスプートニクだ。人質に取られているのは同会の職員のユキ。ここは私に任せて、一刻も早く客と従業員を外へ避難させ、警察局と宝石商会に連絡を!」
「は、はいっ」
宝石商会の一所属員に、商会と何の関係もない店の現場を仕切る権限などあるわけがない。だが混乱状態にある現場で、指導者を欲しがるのは人の常である。全ては勢いだ――身分を明かし、そう言い切ってしまえば予想通り、彼は指示に従ってくれた。転げそうになりながらも「落ち着いて避難を!」と叫び、パニックに陥り騒ぐ客を、従業員を、なんとか外に導いていく。
時間帯のせいか、客はそれほど多くない。こちらは心配ないだろう。問題は――
スプートニクは改めて、ラッシュを見た。
その程度の刃物で人質を二人以上持つのは難しいと判断したか、逃げていく人間たちに対しては関心がないようだ。ただ、ぼそぼそ、ぼそぼそと人質に何かを言っている。動くな、とか、大人しくしていろ、とか、そういったことだろうが。
「何が目的だ!」
スプートニクが声を張り上げると、彼もまた応じるように、要求を叫んだ。
「金だ。金を――金と、逃亡のための馬車を用意しろ! この女の命が惜しければなァ!」
「卑怯な……」
言いながら、奥歯を噛み締める。しかし堪え切れず、少しだけ目が潤んだ。
そのスプートニクの様子に彼は、ヒヒヒ、と狂った様子で笑った。抱えられた彼女は俯いていて、どんな顔をしているのか、スプートニクからはわからない。
――やがて彼ら三人以外が皆、店の外に消える。
指示に従ってくれて有り難いことだ、とスプートニクは内心ほくそ笑んだ。この店の責任者が『人質と犯人を残して自分だけ避難出来ない』と変な正義感を見せるか、或いはスプートニクを指し『人払いをして泥棒でも企んでいるのでは』などと言い出したなら、いたく面倒なことになった。
商会からこの店はそう遠くない。五分もあれば、誰か使いがやってくる。警察局はどうだろう。捕物が終わった直後の今、突然起きた人質事件にどの程度人員を割けるだろうか。けれど事件が起こったと聞いて、悠長に構えているほど、ここの警察局支部は無能ではなかったはずだ。
いずれにせよ、再度人が集まるまでに、それほどの時間はかからない。
黙ってラッシュを睨みつけながら、諸々の推量を行っている、と。
「……スプートニク」
ユキに名を呼ばれ、不意に既視感を覚える。
対峙する自分と男、男の腕に人質の女。捉えられた人質は、あのときも震えてスプートニクの名を呼んでいた。スプートニク、さん。
今、ユキは確かに似たように、彼の名前を呼んだけれども。
あのときと違い、怒りは湧かなかった。道具を抜くこともしなかった。
辺りを見回し、人が誰もいなくなったことを再度確認すると、スプートニクは右腕を二人の方に差し出した。手のひらを上に向け、誘うように。
「何の真似だ!」
放たれた罵声に、人質の肩が震える。泣いている、わけではない。
意気がる彼へ、怒りはもう冷めている。どころか若干の同情心すら覚えながら、スプートニクは深く頭を下げ、『終わり』の始まりを宣言した。
「それでは、アコ姉様。どォぞ、存分に」
警察局と商会がやってくるまで、きっとさほどの時間はない。しかし――
――そんなものを理由に甘く済ませてくれるほど、この女は優しくないのである。
「嫌だ、スプートニク様。昔の名前でお呼びになんて」
床を向いていたから見なかったけれど、その瞬間きっと、ユキは笑った。
スプートニクは、その表情を視界に入れずに済んだことを、心の底から喜んだ。




