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朝の光に目覚めてもやはり、そこにスプートニクはいなかった。
同じベッドに横たわるぬいぐるみの瞳は、朝日を受けてきらきら光り、まるで涙に潤んでいるように見える。
その悲しげな目をなんとか慰めてやりたくて、クリューはぬいぐるみを取り上げると、ぎゅっと固く抱きしめた。
「……おはよ」
*
初めて訪れる場所は、いつのときも緊張するものである。
それが一人きりであれば、ことさらに。
「あの、あの」
その建物の『受付』は、入口からすぐの場所にあった。
花瓶から漂っているのだろう甘い匂い。嗅ぎ慣れぬそれに胸が弾けそうなほどの緊張を覚えながら、クリューは受付に座る二人の女性に向けて、身分と訪問理由を答えてみせた。
「スプートニク宝石店のスプートニクは、ここにいますか。私、従業員のクリューです。朝ごはん、持ってきました」
そう。
一人で部屋にいることに飽きたクリューが思いついたことは、『スプートニクへの差し入れ』だった。
夜通し仕事をしていたのなら、きっとろくなものを食べられていないだろう。そう思い、宿の人間をつらまえて弁当を作れるか尋ねてみると、彼らは快く頷き、引き受けてくれた。
大きなバスケットに詰めてもらったのは、焼きたてのパンを数種類と、生ハムとチーズ、ポテトにスクランブルエッグに、しゃきしゃきのサラダ。……苦手なピクルスは断ったけれど。それに、温かいスープを詰めた水筒をつけてくれた。
宿から出るなとクリューに厳命して行ったスプートニクだが、相応の理由さえあれば許してくれるはずだ。そしてこの『差し入れ』は、きっと確かな理由になる。
身分証などないから、せめて訪問理由だけでも信じてもらおうと、抱えてきたバスケットと水筒を受付に差し出す。そんな彼女を見て、二人の受付嬢は目を細め微笑んだ。
「スプートニク宝石店従業員のクリュー様ですね。照会致しますので少々お待ちください」
片方が奥に向かい、しばらくして戻ってくる。彼女はそのまま、受付カウンターの内部から出てくると、クリューの目の前に立って深々と一礼をした。
「お待たせ致しました。スプートニク宝石店のクリュー様、確かにご確認ができました。スプートニク様は加工室をご利用中ですので、そちらまでご案内をさせて頂きます」
「ありがとうございますっ」
受付嬢に先導され、廊下を歩く。「重たいでしょう」と、彼女がバスケットを運んでくれた。宿からここまで運んできたおかげで、手のひらはすでに真っ赤になっていたので、その申し出に心の底から感謝した。
そうして案内されたのは二階の一室で、部屋の名前は『加工室』。
ノブには『利用中』の札が揺れていた。
――この中に、彼が。
「こちらです。何か御用があれば、受付までお申し付け下さい」
「はい。どうもありがとうございます、スプートニク共々お世話になります」
重ねて礼を言うと、彼女は優しく微笑んで、バスケットを手渡してくれた。
逸る気持ちを抑えつつ部屋に入る。と、スプートニク宝石店の宝石加工室に似たにおいが鼻に届いた。薄明かり差し込む窓辺では、細かい埃が光りながら漂っている。
床に散らかる大量の用紙は、昨晩見たのと同じもの。スプートニクが依頼人に頼まれた指輪のデザインだ。当初なんとかいう詐欺師に注文したものを、その男の代わりにスプートニクが、翌日――つまり今日だ――の昼までにまったくそっくり同じに作るよう、被害者の男性に依頼されたという。
しかし、はて、品は間に合ったのだろうか?
道具こそ幾つか転がっているが、完成品は見当たらない。机の端、乱雑に畳まれた布の塊は、恐らく彼の着ていったジャケットだろう。
そして部屋の中には、スプートニク本人の姿も見受けられない。
どこかに出掛けているのだろうか。品の受け渡しに行ったのだろうか? それにしては部屋の戸に鍵はかかっていなかったし、上着もそこに放りっぱなしだ。上着の胸についたままのピンは、確か宝石商としての身分を示すと言っていたし、盗まれるわけにはいかない代物だったはず。だというのに無施錠で部屋を空けるとは、不用心も過ぎるのではなかろうか。
用紙を踏まないよう留意しながら、部屋の奥へと歩き出す。
――机の陰から、んご、と何やら音がした。
覗き込むと、まず目に入ったのは見慣れた黒。
「……いた」
椅子を二脚並べた上に、スプートニクが横になって眠っていた。聞こえたものはどうやら彼の鼾だったらしい。
昨晩ひどく苦労をしたせいか、それとも何かに安心しているのか、いくつも年上のはずの彼の寝顔は、何故か今日に限っては、とても無防備で幼く見えた。
「お疲れ様、です」
労いの言葉とともに、頬に触れる。気のせいかも知れないけれど、彼の唇が揺れて、ほんの少しだけ笑みを作ったように見えた。
小さく、心臓が跳ねる。
見たそれが、錯覚でなければ嬉しいなと思ったとき、彼の、胸の上に置かれた片手が動いた。
相も変わらず傷の多い無骨な手。手の甲には、急ピッチの制作で手元を誤ったのか、いくつかの新しそうな傷跡が――いや。
……爪跡?
どう見ても、どう考えても宝石加工の作業ではつかないであろう形の傷跡が、転々と。
クリューが眉をひそめた瞬間、スプートニクの手が緩慢に動き、彼女の指先に触れた。
もごもごと、スプートニクの口が動く。
そして呟かれるものは、
「……んだよ、アコ……俺ァまだ寝てんだよ……」
誰と勘違いしたのやら、クリューの知らぬ女の名前。
爪跡と、知らぬ女と、寝不足の彼。ついでに、依頼の品は部屋のどこにも見つからず。
その状況より導かれる結論は。
――クリューの頭の中で、何かが爆ぜた。
「なんで……」
クリューは、知らずのうちに握り締めていた右手を、そっと解いた。
腹の内にある怒りをすべて手に集中させると、そのまま大きく振りかぶり、スプートニクの緩んだ頬目掛けて、手のひらを思いきり振り下ろす。
ぺちーん、といい音がした。
「うおっ何――ひ、うわ、ぎゃっ!」
よほど熟睡していたのか、突然の衝撃にスプートニクは飛び起き――ようとしたようだったが、手をつき損ねて椅子から床へと派手に転げ落ちる。
けれどクリューはお構いなしに、そんな彼の上に乗っかると、更に二度、三度とビンタを重ねた。
「夜中にお仕事なんて、大変だなって、無理してないかなって、クーは、クーはお部屋で一人でたっくさん心配してたんですよ! なのに、な、なのにっ」
「ちょ、ぶっ、お、おい、く、クー、お前何で、ここに、へぶ」
「なのに、スプートニクさんがしてたことは、お、女の人との、密会ですか! 逢引ですか! なんで、なんでそういうことが出来るんですか! そうですかそうですかクーを心配させておきながら知らない女の人といちゃいちゃするのはさぁぁぁぞかし楽しかったことでしょうねぇっ!」
ぺちんぺちんぺちんぺちんと連続して四回、最後に放った五回目は当たり所が良かった――スプートニクにとっては悪かった――ようで、べちぃん、と一層派手な音が鳴った。
寝起きの頭に連続ビンタは効いたようで、頬を押さえながら瞬きをするスプートニク。隈の浮く目を見開いて暫く彼女を眺めていたが、やがてその形のいい眉が寄る。
きっと、文字通り『叩き起こされた』ことへの不満を言おうとしたのだろう。
が、その口がものを言うより早く、クリューは叫んだ。
「クーはっ!」
目の前で放たれた、部屋の外まで響きそうな大声に、スプートニクは驚いて身を反らす。この人は本当に、こちらのことなど何もわかっていないのだ。
「クーは、クーは。……スプートニクさんのこと、たくさん、心配してたのに」
そのために、重いバスケットを背負って、知らない人だらけの知らない場所まで、たった一人でやってきたというのに。
けれど、ひどい、と糾弾する気にはなれなかった。灰の瞳を見返すと、怒りの炎はみるみるうちに小さくなっていく。
悔しいことに、クリューの天秤は、逢引されたことに対する怒りよりも、彼に会えた嬉しさの方にはるかに傾いていたのである。見知らぬ部屋で眠る一人きりの夜は、思っていたよりはるかに寂しいものだった。
怒りに、頰が膨れる。涙が落ちる。それでも、元気そうなスプートニクの姿に、安堵を覚えずにはいられない。
睡眠を奪われ、女性関係を詰られて、いつもなら邪険にするスプートニクだったが、今日に限ってはそうしなかった。彼は爪跡の残る手を自身の頭にやった後、何故かしみじみと、
「……そうか。俺のこと、心配してくれたのか」
ため息のように、そう呟いた。
スプートニクの手が、クリューの左耳に少しだけ触れる。差し込まれた彼の指は、ゆっくりとクリューの髪を梳いていった。
彼のその仕草が、クリューの胸をきゅうっと縮ませる。たった一晩会わなかっただけで、見知らぬ部屋に置かれただけでこの様とは、自分もとうとう弱くなったものだ。――思いながらも涙は止まらず、ただ主張だけはしたくて大きく頷く。
その勢いで、涙が散った。窓から差し込む陽光で、それもまたきらきらと輝きながら落ちていく。
「すっごく、心配しました。……それに、寂しかったです」
「そうか」
頷いて――スプートニクは。
何か探してポケットに手を入れるが、どうやら目当てのものは見当たらなかったらしい。しばらく迷った後、彼は自分の袖口でクリューの頬を拭いながら、「お前はいい女だな」と呟いた。




