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それを伝えた、その瞬間。
クリューの握ったデザートスプーンから、ぼたり、とアイスクリームが落ちた。
あんぐりと開けた口はそのままで、目も同じように大きく開いているが、スプーンが口に向かう様子はない。驚きに手が止まってしまっている。スプーンからアイスが落ちたことにも気づけていないようだ。
無理もない、とは思うが一応、叱ってやる。
「行儀が悪いぞ」
言うと、ようやく我に返ったようだ。
スプーンを皿に置き、両手を胸の前で組む。そして隣に座るスプートニクへ、身を乗り出すように迫り、言った。
「で、でも」
「でも、なんだ」
「そんな、そんなの。出来ることなんですか? ――明日の昼までに、プラチナとダイヤの婚約指輪なんて!」
クリューは装飾品の作り方を知らない。宝石店従業員の経験として多少器具を触らせたことはあるが、専門的な知識を教えたことはなく、加工師として商売するにはまったく足りない。けれどそういう彼女でも、提示された期間が恐ろしく短いということは理解できたようだった。
悲鳴のような疑問。スプートニクは、自身の動揺を悟らせないため目を閉じた。
あの男が提示した納品日。それは、『明日の正午』だった。使うべきはダイヤとプラチナ、勿論、相応の意匠も注文された。
無茶苦茶だ。婚約指輪を半日で作れ、まともな思考をしていればそんな注文をする奴はいない、ということを極力遠回しに伝えてみたものの、彼は自分の要求を頑として譲らず――結局、押し切られるようにして注文を受けてしまった。普段であれば断るか納期を伸ばしてもらうかするが、今回に関しては断るに断れない状況だ。更に言うなら、宝石商会では出来る限り面倒を起こしたくないという心境の中、応接室で騒ぐ彼を持て余したというのもある。
けれどこの娘に、そんな弱音に似た愚痴を吐くのは、主としての矜持が許さなかった。目を閉じたまま、「なんとかするさ」と吐く。――嘘くさいな、とは自分でも思った。
クリューの気配が遠ざかる。瞼を開けると、彼女は縋るのをやめて座り直し、顎に手を当てていた。
「……でも。なんか、変です」
「変?」
よもやこの能天気の口からそんな言葉が出ようとは、まったく予測していなかった。今、自分の語った事柄に、何かおかしなところがあったろうか。
あの女と向き合った代償、神経を張り詰めていた代償として、注意力が落ちているのか。思考すれど答えは出ない。彼女の覚えた違和感が、多少の現状打破に繋がればと、半ば藁にもすがる思いで問いかける。
「何がだ」
「え、だって、だって……」
するとクリューは、両腕を体の横でぱたぱたと振りながら何かもの言いたげにする。
しばらく、あの、その、と言葉を選んでいたが、やがて腕が止まった。情けなく眉が寄り、俯いて、
「……わかりません」
諦めた。
「でも何か、変な気がします」
だから、何が、変なんだ。
もう一度言いかけたその言葉だったが、苛立ちが滲んでいるような気がして、声にする前に噛み潰した。代わりに腕を組み、足を組んでため息を吐く。
スプートニクのその一連の仕草を、クリューは、自身に対する呆れもしくは失望と取ったか。慌てたように声を上げ、すっくと立ち上がる。
「で、でも、でもっ」
そして胸に手を当て、したり顔で宣言した。
「大丈夫です。ここは私にお任せを!」
「ほォ」
その様子だと、他にも何か策があるらしい。
スプートニクが見る前で、彼女は背筋を正すと足を肩幅に広げ、ぽんぽん、と二度腹を叩いた。のち、腰を左右に振る。
そのまま制止。
……やがて、その大きな瞳に、じわ、と涙が滲んだ。
下唇がつり上がり、小刻みに肩が震えはじめる。
何が起きたのか、何をしようとしたのかわからないが、とにかくその一連の動きの中で、クリューにとって何らかの辛いことが起きたらしい。軽く腕を広げて誘ってやると、彼女は泣き声を上げてスプートニクの腕に飛び込んできた。
「無念ですっ」
「何がしたかったんだ」
「プラチナは出したことないですけど、ダイヤモンドなら頑張れば出せるかなと思ったんです。でも、でもっ」
そう説明されて、彼女の奇行にようやく納得した。昔は腹を殴られて宝石を吐かされていたというから、決して絵空事ではないのだろう、しかし。
引き続き、ぺしぺしと腹を叩いているクリューの手を、握り締めて止めてやる。
「せっかく食った飯、吐いたら勿体ないだろう。やめとけ」
「だって、無念です。悔しいです。スプートニクさんの危機、私も役に立ちたいのにっ」
けなげなことを言いつつさめざめと泣くが、それで体調を崩されてもことだ。昔、賊の塒から宝石製造機として攫った頃はともかく、今はこれの従業員としての働きもそれなりに評価しているのだし。
そして何より、これに下手なことがあったらこちらの身が危うい。何せこれの後ろには、リアフィアット市の敏腕警部だの宝石商会長の腹心だのがいるのだから。
「お前如きに頼らなきゃトラブルの一つも何とか出来ねェようじゃ、俺ァ廃業確定だ。安心しろ、お前のご主人様はそこまで無能じゃねェよ」
「でも……むぷ」
「口答えは要らん。あと俺の一張羅に鼻つけんな」
取り出したハンカチで鼻を摘まむことで、無駄口を塞いだ。折り返して涙も拭ってやる。幾粒か追って落ちてくる涙は自分で拭うようにと、最後にそのハンカチをクリューへくれた。
と、何が珍しいのか、彼女は渡されたハンカチをしげしげと見た。裏返し、表に返して、興味深そうに観察している。
安物のありふれたそれだが、汚れやほつれはなかったはずだ。今日ポケットに入れてから、特別使った記憶はないし……口紅など付く機会はなかったはずだし。
「どうした。何かあったか」
しびれを切らして尋ねると、不意にクリューがハンカチを自分の顔に当てた。
「何か、いい匂いがします」
「……あァ」
鼻が慣れてしまっていたせいで、自分自身すっかり忘れていた。
「香水だろう。ほら」
「む」
手首を顔の前にかざすと、鼻を摺り寄せてきた。ふんふんと鼻をひくつかせて、頷く。
「いい匂いです」
「そりゃどうも」
「女の人に会うときはいつもつけてるんですか」
「浮気を疑う嫁か、お前は。正装するときはいつもだよ」
女に会うときもしているけれど、それは言わないことにして。
「さて、と」
スプートニクは、クリューを軽く押して退けるとソファから立ち上がった。
放った書類鞄を引き寄せると、不要なものを取り出し、必要なものだけを詰める。それからジャケットを片腕に掛け、空いた片腕でぐうっと大きく伸びをした。
「俺は出掛けるよ」
「えっ」
スプートニクとしては当然のことを告げたつもりだったのだが、クリューは驚いたように目を剥いた。
「こ、こんな時間にですか。もう夜ですよ。日付、変わっちゃいますよっ」
「残念、もう変わってるな。零時七分だ」
「正確な時刻が知りたいわけじゃないですっ」
ジャケットの内ポケットから時計を取り出し答えてやると、噛みつくように言った。けれどその勢いはすぐに削がれ、寂しそうに眉が下がる。
「こんな、夜遅いのに。……行かなくても」
「遅くたってどうにかしなきゃなんねェだろ。や、遅いからこそか。時間ねェんだし」
寝ている時間も惜しいのだ。
時計を戻し、机を見回す。食い散らかしたこれらは、出掛けにフロントに一声かければ片付けておいてくれるだろう。時間に融通が利くのがこの宿のいいところで、こんな夜更けの依頼にも嫌な顔一つしない。
戦場に赴く覚悟は出来た。さて行くか――と歩き出そうとしたそのとき、不意にクリューが立ち上がった。
「あの、あの。それじゃ、私もお手伝いに行きます。今準備しますから、ちょっと待って――」
「いい」
なんとかして名誉を挽回したいらしくかく言うが、スプートニクはその申し出も断った。
ショックを受けたように固まるが、当然のことだ。
「お前はもう、寝ろ」
「でも」
「明日帰るんだ、また馬車で酔っ払われても困る」
というのは建前で、こんな時間に商会へ連れて行ってあの女に「こんな夜中に女の子を連れ回すなんて!」などと余計な叱りを受けるのは嫌だった。
――それに。
こんな夜更けにこの娘を、ここの外に出したいと、思えなかった。
窓を見る。気にしたのは暗い空、ではなく――そこに貼られた、一枚の符。
それはいつかに、あの女が彼へ寄越したのと同じもの。どこぞの魔法少女にはまったく効かなかった、けれどあれ以外の魔法使いを確実に無効化するそれ。
魔法使い除けの符。
それがそこにあることに、確かな安堵を覚えながら、スプートニクはクリューに告げた。
「宿からは出るなよ。この辺りは、魔法使いがいる」




