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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅳ 宝石商会
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2-6(9/13追加)




 昔も今も、この女には敵う気がしない。

 スプートニクが両手を上げて降伏の意を示すと、彼女は満足したようだった。万年筆を離されたスプートニクは、解れて落ちたひと房の前髪を撫でつけて戻すと、そそくさと手元の書類や模型、宝石箱を自身の鞄に収めてゆく。

 そうしながらふと、一つの案が思い浮かんだ。断られるならそれでもいい、という程度の思いで提案してみる。

「それで、なんだけど。今晩、空いてるか」

「今晩? 何があるの」

 問いかけにユキは、空いているとも空いていないとも言わなかった。内容による、といったところだろう。答えを急く質問でもないので、理由を先に言う。

「何ってわけじゃねェけど。部屋をひとつしか取れなかったから」

 だから何なのか、まで言わなければならないほどユキの察しは悪くない。

 彼女は眉を顰めると、顔を寄せて、小声で心配そうに言った。

「法律に引っかからない?」

「抜かせ」

 顎に手を当て、クリューちゃん幾つだったかな、合意の上なら大丈夫なのかな、などと戯けたことを抜かす。それが冗談なのか本気なのかわからないからたちが悪いが、いずれにせよ否定しておく必要はありそうだった。

「何もする気はねェよ。だから夜、空いてるか聞いてるんだ。酒場で飲み明かしてやる」

「そうだねェ……ま、明日は私、仕事休みだし。いいよ、募る話もあるしね」

「言っておくけど、クーは連れてこれないぞ」

「構わないよ。女の子に夜間の外出なんてとんでもない」

 後々文句を言われても面白くないので釘を刺すと、彼女はあっさりと首を縦に振った。「夜遊びなんて不良の始まりなもの、クリューちゃんに許せるわけないじゃない」と、目を固く閉じ両手を大きく振って『断固反対』の意を示す。どうもこの女はあれに対し過保護なように思える――が、はたから見たら自分も同じように見えるのかもしれない。

「そうだ、今日、売店にジュース屋がジンジャーエールを売りに来てるんだけど、よかったらクリューちゃんへ買っていってあげて頂戴な。辛味抑えめで甘めの味付けだったから、きっと気に入ると思うし」

 土産、か。ユキの提案に、スプートニクは小さく数度、頷いてみせた。

 クリューが勝手に酔っ払ったせいとはいえ、わざわざこんな遠くまで連れてきながら宿に置いてけぼりを食らわせたのだから、きっと相当拗ねているはずだ。

 今頃、部屋でぬいぐるみ相手に愚痴を言っているだろう彼女に、旨い飲み物の手土産は、いいご機嫌取りの材料になるだろう。ただ、

「売店、ストローあるかな。あいつ、炭酸飲むの苦手でさ」

「あると思うけど、クリューちゃん、炭酸嫌いなの。なら別に、無理強いは」

「いや、炭酸自体は嫌いじゃないらしいんだけどな。炭酸は水面がプチプチ跳ねるだろう。鼻に入りそうで、グラスからの直だと飲みにくいんだと」

「何それ可愛い」

 恐る恐るグラスに尖らせた口を寄せては、跳ねる飛沫しぶきに顔を背けるクリューの姿を思い出しながら語る。と、ユキは両手を頬に当て、目を丸くした。

 可愛い、何それ可愛い、と体をくねらせながらいたく幸せそうに繰り返すユキを冷めた目で見ながら、スプートニクは心の中で、ここにいない従業員へ呟く。――この女に気に入られるとは、クー、お前は本当に幸せ者だ。

 しばらくそうして従業員話に花を咲かせ、雑談にユキが満足したらしいのを見て取ると、スプートニクは話題を本筋に戻した。鞄を撫でながら、尋ねる。

「――さて。他に何か、あったっけか」

「大丈夫だと思う。何か忘れているものあったら、夜に持っていくよ。いつもの宿?」

「そ。だから、いつものところで」

「了解」

 この街でユキと酒を交わすときは、大抵同じ酒場を使う。スプートニクが宿泊する宿の近くにあるというのもあるが、ユキ自身がそこの店員と懇意にしている、というのも一つの理由だった。そこならば、下手なことを話しても漏れ出でる心配はない。

 酒と肴の種類もなかなかに多く、長い付き合いだからか多少の融通が利くのも良かった。

 それじゃ、そろそろ、と。

 言って彼女はソファから立ち上がった。スプートニクも、書類を収めた鞄に正しく鍵が掛かっていることを確認してから立ち上がる。

 机の脇を周り戸の方に歩いていくと、ユキが、戸を開けようとノブを握った。

 ――しかし。

 何故だろう。その手が、なかなか動かない。いつまで経っても戸を開けようとせず、かといってノブを離すこともまたしない。怪訝に思っていると、黙り込んで戸を注視していた彼女が、はっと顔を上げた。素早く壁の時計を見て、それから彼を振り返り、そして。

「スプートニク様」

 敬称を付けて彼の名を呼んだ彼女の顔には、既に何匹もの『猫』が張り付いていた。委縮し震える瞳で見上げると、いかにも済まなさそうな物言いをする。

「……申し訳ございません、私、この後に予定が入っておりまして。恐れ入りますが、こちらで失礼させて頂いても、よろしいでしょうか」

 出入り口まで見送るのが通例だが、特別そうしてほしい理由があるわけではない。よしんば何か理由があったとしても、『彼女』に対して物言いをつけることなどスプートニクに出来ようはずがなかった。

 どのような理由があるのか知らないが、忙しいというなら無理に引き止めることはなかろう。どうせ、仕事上がりに会う約束は取りつけているのだし。

「左様ですか。いえ、私のことはどうぞお構いなく。ご予定が入っていたとは、到着が遅れてしまい本当に申し訳ないことを致しました」

「いえ、業務関係の予定ですので問題はありません。どうぞお気をつけてお帰り下さいませね」

「ありがとうございます。では、また『後ほど』」

「ええ。――『後ほど』」

 その言葉にだけ、宝石商と管理担当ではなく、弟と姉としての感情を込めて交わす。

 ユキはノブから一度手を離すと、深々と頭を下げることで別れの挨拶とする。それに応じて、スプートニクも礼をした。

 それにユキは嬉しそうに微笑むと、今度は正しく戸を開ける。引いた戸に隠れるようにしながら、廊下を手で指し示した。出ろ、ということだろう。スプートニクは会釈をすると、遠慮なく廊下への戸をくぐる。そのとき――

 ユキがとてもとても小さな声で、

「まだまだ、詰めが甘いねェ」

 と、言った。

 それは『化け』ていない彼女のそれ。いたく彼を小馬鹿にした物言いだった。

「あ?」

 不快、よりも疑問の意を込めて声を発す。どういう意味だろう。自分は何か失敗したろうか?

 考えれども答えは導き出せず、真意を問おうと振り返る――しかしその眼前で、静かに戸は閉まった。次いで、カチャリ、と小さな金属音がして、少しだけノブが回る。応接室の中で、ユキがノブから手を離したのだろう。

 ますます、おかしい。応接室の出入口は一つしかなく、そもそも後に予定が入っていると言ったのは彼女自身ではないか。部屋を締め切って遊んでいる場合ではなかろうに――

 怪訝に思ったスプートニクが、その答えに気づくまで、時間はそれほどかからない。

 直後。

 彼の立つ場所を誰かの影が覆った。

「リアフィアットのスプートニク、か」

 そして腹の底を震わすような声が、彼の名を呼んで。

 その瞬間、覚えた緊張に息が詰まる。

 同時にすべてを理解し、思った。

 ――そういうことかあのアマ!

 声に出して罵らなかったのは自己鍛錬の成果だ。ただ抑えきれない悔しさに、ぎちり、と奥歯が鳴る。

 スプートニクは縋り付くように応接室のノブを握り締めると、荒々しく戸を開け放つ。が、中は既に、明かりすらも消えていた。置かれていたティーカップ一つも、またいたはずの商会職員ユキもいない。暗い部屋の中で目を凝らすと、奥の床に一筋の光が見えた。しかしそれも、まるで彼から隠れるようにすぐ、消えてしまう。

 恐らくそこに、秘密の出入り口があるのだろう。見えた光はきっと、隠し通路の内部を照らすためのものだ。隠し通路は元々あったものなのか、それともユキが作ったのかは知らないが。

 改めて、歯噛みする。その人がいるから今は良くないと、少し待てと一言言えばよかろうに。――いや。

 言わないだろうな、とスプートニクは思った。二人で連れ立って逃げるより、一人を生贄に差し出した方が、自身の逃げ切れる確率は遥かに高くなる。そしてあの女は、そのために『弟』を差し出すことを厭わない。あれは、そういう女だ。

「どうした。その部屋に、何かあるのか」

「……いえ」

 そうとわかっていても恨みがましくその部屋を睨みつけてしまうスプートニクの背へ、まるで逃げ道をなくすかのように低い声がかけられる。どうもあの女といると、かつての自分に戻っているようなやりづらさを覚えて、何もかもが上手くやれない。

 スプートニクは観念して、その男に向き直った。

 黒い髪に白いものの混じったその男。口を覆うように蓄えた髭にも、同様に白髪が混じっている。縦にも横にも大きい体と眼光は、ただそこにいるだけで向き合うものの戦意を削ぐ。彼は昔、スプートニクも知らぬほど昔、遣り手の宝石商だったと言う。

 すべてはあの女のせいだ。脳裏に、してやったりとばかりに舌を出して笑うあの狸女の顔を思い浮かべながら、それでもスプートニクはその影の主へ、丁寧な挨拶を返してみせた。

「……ご無沙汰しております。クルーロル商会長」





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