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彼女の手元でカチリ、と不穏な音がして、情けなくも肩が跳ねる。しかしそれは凶器の音ではなく、単に彼女がノブから手を離しただけのことだった。
彼女ではない名で呼ばれた彼女は、背を向けたまま彼の名を読んだ。
「あら、スプートニク様。昔の名前でお呼びになんて」
かく言うが、他でもない彼女の纏う雰囲気が、彼にそう呼ばせたのだ。
アコと呼ばれた彼女の、ひどく落ち着いた物言い。しかしその芯にあるものは、確かに変化していた。
「『どう』、ですか……うふ。聞きたい?」
声は少し、弾んでいる。けれどその端々から見え隠れする不穏な気配。徒らに首に刃を当てられているような不快感を腹に抱えたまま、それでもスプートニクは笑ってみせる。
この程度の圧力なら、慣れていた。
「そりゃ聞きたいとも。『いろいろ』あったんだろう?」
尋ねる。と――不意にユキが、くるりと回ってこちらを向いた。紺スカートのプリーツが優雅に揺れて、微笑む。
ユキは踵で床を鳴らしながら、大股で元のソファへ戻ってきた。
「どうもこうもないよ。そのまんま」
答える声に、一切の甘みはなかった。
先ほどと同じようにソファに腰掛ける。先ほどまでは縮こまり、前のめりになっていた背を、今はソファの背もたれに押し付けた。首を左右に折って鳴らし、肩を回して神経を解き、仕上げとばかりにポケットから取りだしたハンカチで手の汗を拭う。それだけで、目の前にいる人間はまるで別人のようになった。
反対にスプートニクは身を乗り出し、声を潜めて問いかける。
「――ばれたのか」
「失礼な。私がドジを踏んだとでも言いたい? 違ァよ」
彼女は眼鏡の向こうで目を細め、唇を引いて声なく笑う。数秒前までそこにいた『引っ込み思案の商会事務職員』であれば、決してしない表情だ。
レンズの奥で細まる瞳はいたく鋭く、まるで眼光で敵を射殺せると信じているようであり、また、頬を歪め口の端を釣り上げて作るその表情には、混じりけのない自信だけが満ち満ちている。その顔を、スプートニクは知っていた。――これこそが、彼女の本質だ。
そんな彼女は、まったく呆れた、とばかりにかぶりを振ると、こう言った。
「私を嵌めたがった馬鹿がいたの」
「嵌める? お前を? 誰が」
「がっつく男は嫌われるよォ」
これでも食って落ち着きたまえ、と演技過多な様子で鷹揚に言うと、ユキは上着のポケットから丸まった色とりどりのセロファンを三、四つ取り出した。一つを手の中に収めたまま、残りを机の中央あたりに撒き散らす。
手に残ったセロファンを開封すると、中からチョコレートが覗いた。
「大体の流れは先の通り。――ただね、一つだけ言ってないのは『私を蹴落としたがった奴がいた』ってこと」
この女に喧嘩を売るとは何とも命知らずな奴がいたものだ、などと思うがそんなことを易々口にするほどスプートニクは愚かでない。相づちの意味を込めて、「それはまた」と小さく頷くと、彼女は嫌みたらしく笑った。
「だから狙ってやってやったの。普通、会議資料なんてファイルごと持ち出したりしないよ。だから、ああすれば絶対に私を疎く思う誰かから告発が行くと思った」
「炙り出したわけか」
そゆこと、と頷いて彼女は茶を一口啜った。
「犯人は?」
「その茶淹れてきた女」
「あァ。なんか変な女だったな」
ソーサーからカップを持ち上げながら言う。と彼女は、まるで我が意を得たりとばかりに笑った。
件の女性に向けられたはずの、ユキのその、毒々しい笑顔。しかしそれに、何故かスプートニクまでもが怖気を覚える。毒でも仕込まれているような気がして、口をつけることなくカップを戻すと、彼女は茶化すように「飲んでやればいい」と言った。
「あの女、君にお熱みたいだよ」
「俺にィ?」
「私がいなくなれば君の担当を奪えるでしょう。あっはっは、あいつ私が正真正銘の引っ込み思案だと思いやがって、それ以外にもいろいろチクチクやられたなァ――ま、あの調子なら、私がどうこうされるより、あっちが辞める方が先だァね。余程お灸を据えられたのか、私の顔見るだけでびくびくしちゃってさ」
けれど恐らく、怯えているのは上層部からの灸のせいだけではあるまい。ユキはその際に、他の恨みも何らかの形で『返した』のだろう。これは、そういう女だ。
「色男は辛いよ」
「色男の姉をやっている私はもっと辛いんだ、覚えておきなさい」
笑って言うと、そう返された。
姉。――とはいえ、スプートニクと血が繋がっているわけではない。
幼い頃の知り合いで、当時よく遊んでもらったというだけの縁である。あるとき彼女の両親が事故で他界し、遠くの親戚に引き取られていったことで縁が切れ、それからどうしているのかは知らなかったが、彼が宝石商として身を立てたとき、偶然にも商会で再会した。クリューと出会うより少し前のことだ。それ以来、何かと助けてもらっている。
頭の回転は速く、やることは彼以上にえげつない。昔からそういう彼女だが、何を理由にか知らないが、商会では大人しい引っ込み思案を演じているようだった。恐らくはその方が諸々『やり易い』からだろうが、呼ばれている名が彼の知るそれと違うこともあいまって、最初は他人の空似かと思った――『ユキ』の名は、養子に行った先で新しく、養父母に貰ったのだという。
ユキはカップを取り上げ、茶を啜った。毒が込められていてもおかしくないそれを、まったくの躊躇なく。
「ま、取り敢えず先にさ、仕事の話をしようよ」
唇が潤ったことに満足してか、ニッ、と笑う。
そして彼女は、手元のファイルから幾枚かの書類を取り出した。
「これ、預かった依頼書と、工房からの模型。えェっと、ベビーリングね」
商会の機能のうちの一つとして、宝石商或いはデザイナーと工房との仲介機能がある。作りたい宝飾品があるけれども設備面で難しいときに、詳細な設計図、説明書をつけて宝石商会に送ると、商会所属の工房に製作依頼書が流れて、作成を請け負ってくれるという仕組みだ。勿論工房への作成料、商会への仲介料は必要となるが、下手な工房と仕事をしなければならなくなるリスクや、工房を名乗る詐欺に遭う確率は格段に減る。
スプートニク宝石店の場合、宝石加工室があるから設備には申し分ないが、何しろ人手が足りない。加工師としての技術も知識もないクリューに検品をさせるわけにはいかず、また彼が製作に集中してしまえば、店を運営するために必要なその他一切の業務を彼女に任せることになってしまう。それは流石に酷だろう。というわけで、ある程度の注文からは外注してしまうことにしていた。
差し出されたものは以前スプートニクが彼女に預けた依頼書と、その依頼書に基づいて作られた指輪の模型、及びその完成型。
「感謝。持って帰ってまた連絡する」
「うん。あ、あと、こっちのデザインだけど」
次いで彼女が机に広げたのは、少し前に彼が注文したネックレストップの図案の写しだった。客からの受注生産ではなく、個人の趣味で描いただけのそれだったが、なかなか出来良く仕上がった。それなりの値段をつけて店に並べておいたというのに、すぐに買い手がついた程度には。
「それがどうかしたのか」
「うん、工房側が余程気に入ったみたいで、量産希望だって。了承した場合に君へ支払われる意匠料と商会に支払われる手数料は――」
提示された見積書を眺める。決して悪くはない数字だった。
依頼をしたそれが優れた意匠であった場合、商会関係者か工房から、それと同じ意匠の宝飾品をうちでも販売したいという申し出があることも少なくない。中にはそういった申し出を頑なに拒む職人もいるが、スプートニクの場合、顧客にとって特別の思い入れがあるもの――婚約指輪、結婚指輪等――や、特別注文の一点ものでと依頼されている場合を除いては、大抵の場合許可を出す。そして今回も、それは違わなかった。
「構わねェよ、好きにやってくれ。手続きは任せた」
「合点承知。あと、こちらの工房さんなんだけど、君のデザインをいたく気に入っていてね。君の持ち込む依頼の引受先は、最近ほとんどここなんだ。で、この間書類を渡しに行ったとき、君のことを『出来れば正式にデザイナーとして雇いたい』って言ってて。考えてくれるように伝えてほしいって言われたんだけど――どう?」
「デザイナー、ねェ……」
腕を組み、ソファに背を預けて天井を見る。
悩むような姿勢を作ってはみるが、答えなど最初から決まっていた。
「デザインを考えるのは好きだけど、紙との睨み合いは嫌いだな。今の、趣味に毛の生えた程度が一番楽でいい。宝石商が俺には合ってるよ」
「了解。まァ、君ならそう言うと思っていたよ」
資料に手早く何事かを書きつける。いたく崩れた字は彼女の本当の筆跡だ。人前で書くときはもっと甘く、少女めいたものになる。
一体何匹の猫を被っているのだろう。昔の、本性を隠すことなく残虐に――もとい伸び伸びと笑う彼女を知っているからこそ、この生き方を窮屈で生き辛くはなかろうかと思うのだが、以前に尋ねたところからからと笑って「君も同じだろうよ」と言った。「猫を被って見せる相手が、客か、それとも同僚かの違いだ」と。
彼女はペンを滑らせる手を緩めぬまま、ぽつりとこんなことを言った。
「それで? 先日の『宝石』はお役に立ちましたでしょうか、スプートニク様」
様。本性を出した時点でのその敬称は、からかい以外の何でもない。スプートニクは煙を遠ざけるように、顔の前でゆるゆると手を振る。
ユキの言うそれがどの『宝石』を指しているのか、思い出すのは難くなかった。
「やめてくれ、ユキ。――有り難く使わせて貰ったよ。よく効いた」
「夕方になって息せき切らして飛び込んできた郵便屋にも驚いたけど、内容にも驚いた。手紙を開けてみたら、『魔法使いに対抗する手を教えてくれ』なんて。一体、何があったの?」
腕を組み、その視線を真っ向から受け止めながら、スプートニクは呟いた。
「何がって、どうせユキ、お前のことだ。全部調べがついているんだろうに」
「うゥん、魔法少女っていうのが関係してるのは知ってるけど。どこまで正確に情報を仕入れられているのかわからないから、何とも言えない。答え合わせがしたいなァ」
上目遣いで小首を傾げる。しかしその仕草も、白々しい。ユキの猫撫で声を聞きながら、スプートニクは考える。
さて、どこから話すべきか。そして、どこまで話すべきか。――魔法少女の正体まで話したら、あの魔法使いは『約束違反だ』と怒るだろうか?




