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クルーロル宝石商会は、現商会長で元宝石商のクルーロル氏が一代で築き上げた、宝石商の互助組織である。
かつて氏が現役の宝石商であった頃、業界では、商品の盗難や、賊による襲撃など、商人が犯罪行為に巻き込まれる事例が少なくなかった。そこで宝石商人や宝石店、またその従業員の安全の確保、及び業界の労働環境の改善を目指して、クルーロル氏をはじめとする商人が集まり作り上げたのがクルーロル宝石商会である。もとは宝石店、ないしは宝石商人の保護を目的として作られた団体だが、今ではそれだけでなく、所属する商人の身分の証明や、宝石鑑定書の発行、登録宝石店の保険機能、宝石商同士の仲介など、宝石に関するあらゆる業務を行っている。
現在宝石商の互助組織がこの大陸にいくつあるかは忘れたが、クルーロル宝石商会はその中でも最も古く、また会員数の最も多い組織である。そしてスプートニク宝石店もまた、そこに会員の一として登録されていた。
――フィーネチカ市の東にある白い大きな建物が、クルーロル宝石商会フィーネチカ支部である。
スプートニクがその扉を押し開け、くぐると、外にはない柔らかい匂いが彼の鼻に届いた。活けられた花の香りというよりは、花に似せた香をどこかで焚いているのだろう。
扉のしまる音。と同時に背中から、「ほら、リアフィアットの」「ああ、美形って噂の……!」などという声が聞こえた。振り返ると二人の女性職員がこちらを見ていて、彼と目が合うと、聞かれていたことを恥じたか居心地の悪そうな表情をした。
気を悪くしていないということを伝えるためにっこりとほほ笑んで返す。花二輪は慌てた様子で頭を下げたが、スプートニクが再び顔を背けると、キャア、と黄色い声が二重奏で届いた。――聞こえてンぞ、と心の中だけで呟く。
面倒を避けるため、適当に振り撒く愛想。他意のないそれであるが、しかしそれもあの娘は「また女の人にでれでれして!」と目を吊り上げるのだろう。そんなことを思いながら『受付』の札を掲げたカウンターへ足を進める。
受付嬢二人は彼と目が合うと、揃って深く頭を下げた。
「クルーロル宝石商会へ、いらっしゃいませ」
「リアフィアット市のスプートニク宝石店と申します。お約束より大変遅れまして恐縮なのですが、弊店管理担当のユキ様はお手隙で――」
「あら、スプートニク様」
聴き慣れたその声は右の方からした。そちらを向くと、二人の女性が立っている。
そのうちの一人、胸に分厚い冊子を抱えた方には見覚えがあった。今、スプートニクの名を呼んだのはこの人だ。
真っ直ぐな黒髪に、鳶色の目。人の良さを象徴するようにやや垂れた眦は、眼鏡のフレームに少しばかり隠れている。アプリコットめいた橙色の唇を笑みの形に歪めながら、彼女は丁寧に挨拶をした。
「こんにちは。お待ち致しておりました」
「お久しぶりです、ユキさん。先日は突然予定を変更しまして申し訳ありません。また本日も、到着が大層遅れまして、失礼を致しました」
「とんでもない。やはり商に直接携わる方はお忙しくていらっしゃるのですね。――応接室を取ってあります、こちらにどうぞ」
片腕で冊子を抱くと、空いた片手を奥に向ける。そして共に歩いていた女性へ「すみません、第二にお茶を二つ」と指示を出すと、彼女、スプートニク宝石店管理担当職員ユキは、スプートニクへ向けて、レンズの向こうの瞳を再び細めて見せた。
クルーロル宝石商会業務部第一業務管理課職員。それが彼女、ユキの正式な肩書だ。
宝石商会の職員で、商会におけるスプートニク宝石店の管理業務の諸々を一手に担っている人である。勿論彼女が管理を担当している店はスプートニク宝石店ではなく何件もあって、だから彼女という職員にとってスプートニク宝石店というのは自分の担当している案件のひとつでしかないのだろうが、それでもスプートニクにとって彼女は、世話になっている商会職員、それ『だけ』の人ではなかった。
「昨今の商会はいかがですか」
第二応接室と札の掲げられた部屋に案内され、奥のソファを薦められる。スプートニク宝石店に応接用として備えているそれより遥かに柔らかく高級そうなそれに腰を埋め、一息ついてから、机を挟んで向かいに座ったユキへ、本題に入る前の閑話としてそんなことを尋ねた――が、何故だろう。
雑談のはずであったそれへ、彼女は目を見張った。聞かれたくないことを聞かれてしまった、という表情。瞬時に張りつめたユキの雰囲気に、どうやら聞くべきではなかったようだと感じるが、言ってしまったことを今更引っ込めることは出来ない。とはいえみっともなく言い訳をするのも彼の矜持が許さず、だからただ黙って彼女の答えを待つ。
ユキは浅い呼吸を何度か繰り返し、自身を落ち着けると、ゆっくりと口を開いた。
「――先日、びっくりすることがありましたよ」
なんとかお道化たように言おうとして、しかし叶わず、委縮し声が震えている。
となればただの雑談ではないのだろう。相槌を打つこともなく、スプートニクは続く言葉を待つ。躊躇うような間を少しだけ開けてから、まるで犯罪者の告白のように、ユキはぽつりと呟いた。
「私が宝石の鑑定書を偽造している、という疑惑があったそうなんです」
「偽造?」
聞き逃せない言葉だった。つい厳しい視線を彼女に向けてしまう。
と、彼女の気弱そうな瞳が面白いほどに揺らいだ。両腕を突き出して大きく振りながら、震える声で必死に言う。
「あ、あの、勿論、誤解です。宝石の鑑定書の控えを収めているファイルと、会議書類の入っているファイルとがよく似ているんですが、あるとき私、資料庫から過去の会議書類を急いで持ってくるように命じられて。急いで資料庫から取ってきたのですが、ちょうどその姿を目撃した方がいたそうで、慌てた様子でファイルを持って走る姿が、どうも、その方には怪しく見えたみたいなのです。それで、私が持っているファイルはもしや、宝石の鑑定書なのではないか、私が何か悪いことを企んで持ち出したのではと誤解されたらしく……鑑定書の控えは会議書類と違って、持ち出しの際に記録が必要ですから、その記録が残っていなかったことも、私の容疑を深めたようです」
スプートニクは深いため息をつきそうになるのを、なんとか堪えた。――脅かしやがって。
けれどそれで彼女を責めるのは筋違いだ。彼女は最初から『疑惑』と言っている。文句を吐きたくなるのをぐっと堪え、表情だけは笑って見せた。
「それはそれは。災難でしたね」
「昨今商会では、模造石の摘発に力を入れていて。内外部問わず取り締まりを強化しているところですから、仕方のないことではあります」
「そうなんですね。ですがどうして、無実の罪を被らずに済んだのです?」
「私が会議書類を運んでいたことを、業務課の方々が覚えていたので。結局、私の与り知らぬところで私のことが問題になって、やはり与り知らぬところで解決しておりました。解決後に、念の為ということで、私の直属の上司から私に連絡があり、そこでようやく私がそれについて知ったという形です」
「知ったのが全部解決した後で良かったですね。あなたの性格では、胃を痛めてしまいそうだ」
「どうせ私は、小心者です」
眉を寄せて困ったように表情を崩し、唇を尖らせそう言った。
けれどその不満そうな表情もすぐに消え、また瞳に影を落とす。
「それで、ですね。スプートニク様だけでなく、私が担当させて頂いているすべての宝石商様にお伝えしているのですが――申出書を頂ければ、担当を変更することも可能です」
「変更? 担当を?」
「はい。私の潔白は証明されたとはいえ、まったくの無実であるとはいえ。一度でも疑いが掛けられたとなれば、そこで揺らぐ信用もありましょう。それに、元はと言えば私の軽率な行動が招いたことでもあります」
かく言うが、手を膝の上で硬く握り締めた彼女の頬は白く、声は震えている。
だからこそスプートニクは、まったく滑稽だとばかりに声を上げて笑い飛ばしてみせた。――本当にまったく、滑稽だ。スプートニク宝石店は、例えどんなことがあろうと、彼女以外を頼れはしないというのに。
「何を仰います、あなたは頼まれて書類を運んでいただけではないですか。それで信頼を失うなんて、馬鹿なことがあるものか。私は自分の、人を見る目を信じております。それに、何です、鑑定書の偽造でしたか? あなたとはもう短くない付き合いです。誰が何と言おうとあなたはそんなことをされるような人ではないし、間違ってもそんなことを、出来る人ではない」
すると。ユキの肩から、拳から力が抜けた。
ゆっくりと頭を下げ、彼女は言う。
「ありがとう、ございます」
そこにはひどい安堵が滲んでいる、ように聞こえた。だからスプートニクはにっこりと笑ってみせる。自分は何に代えても心優しい彼女の味方である、とばかりに。
――緩んだ空気が応接室を満たした、丁度そのとき。
ノックの音が二度、その空間に響いた。
「はい」
「失礼、致します」
迎えるユキの返事。次いで挨拶とともに戸が開き、盆を持った女性が入ってきた。受付前で会ったとき、ユキと連れ立っていた女性である。化粧じているはずの頬は、紅も差してあるというのに、なぜかどうにも青白く見える。
ユキは着席したまま女性を上目遣いで見ると、小さく頭を下げて感謝を伝える。けれど女性は彼女の仕草に気付いていないのか、ユキへ瞳ひとつ向けることはなかった。無言のままスプートニクの方に歩み寄るその姿は、些か不気味に思えた。
何か感づいているかと探るようにユキを見る。けれど彼女は自身の心配が解れたことが嬉しいのか、それとも別の理由があるのか、同僚の様子になど一切気を向けていないようだった。
「あ、そうです。それから」
入ってきた女性がティーカップをスプートニクの前に置くと同時、またスプートニクがティーカップに意識を移したその一瞬の間に、ユキはその接続詞を口にした。先とそれほど変わらぬ穏やかな声音、しかしそのたった一言の中に。
スプートニクは、まったく異なる何かを垣間見た気がした。
喩えて言うなら乾留液のような、強い粘性のある黒い何か。それをつう、と背筋に流し込まれたような不快感。
向かいのソファを改めて、見る。しかし腰を下ろしているのはやはり確かに先ほどと変わらず、物腰の穏やかな女性職員である。何が変わることもない。
――それでも自然と、背筋が伸びた。
「犯人、というと聞こえが悪いですね。告発をされた方ですが」
「ご存じなのですか」
「いいえ。直接そのお名前を教えて頂くことはありませんでした。ただ、今後もここで働く上で疑心暗鬼になってしまわないようにと上が慮って下さり、特別に少しだけ今後に関するお話を聞かせて頂きまして。――どうもその方は商会内でいろいろとされていたようで、相応の処分を行うとのことです」
「いろいろ?」
「それは、ちょっと」
片目を閉じ、唇にそっと、人差し指を添えた。「身内の恥です、ご勘弁を」
言う気がないのなら掘り下げて聞くこともあるまい。ひとつ頷くことで了承を伝え、別のことを尋ねる。
「ちなみにその件で、あなたから離れていった宝石商はいらっしゃるのですか」
「おりません。皆様、そもそもお前にそんな度胸があるわけない、とお笑いになられました」
「でしょうね。あなたにはもう少し、度胸が必要だ」
「あら。それは犯罪教唆ですか?」
良くありませんよ、とおどけたように彼女が言う。スプートニクはゆっくりと右手を振って、
「いやいや。そんな引っ込み思案では、少々生き難かろうという話ですよ。あなたはもう少し、自分に自信を持つべきだ」
「それも、いろいろな方に言われました。努力します」
ユキは困ったように笑った。
――そこでようやくユキは、もう一人の来室者の異変に気付いたようだった。
通常、茶を出しに来た人間が、延々応接室に留まり続けることなど有り得ない。茶を出し終え、空いた盆を持った女性は、しかし部屋から去ることなど思いつかないと言った様子で突っ立っていた。
更に言えば彼女は顔面蒼白で、目の焦点も合っていない。瞬きひとつなく棒立ちでいる彼女を、ユキはおずおずと見上げた。
「あの、リーグルさん、お茶、ありがとうございました。あの、他に何か用件が――嫌だ、リーグルさん、お顔、真っ白ですよ。ご加減でも? 人を呼びましょうか」
「あ、あの、あの、いえ、何でも――すみません、失礼致します!」
悲鳴のようにそう言い捨てると、踵を返して戸に縋りつく。が、手が震えてノブが上手く握れないようだ。ユキが立ち上がり戸を開けてやると、彼女は転げるようにして部屋から出て行った。ユキは背を向け彼女の行った先を眺めながら、「リーグルさん、大丈夫かしら……」と呟いている。
そのときスプートニクは、ユキが背を向けていてくれたことに感謝した。この女が、一体どんな表情を浮かべていたか、スプートニクには予想がつかなかったから。
ともかくもそうして『部外者』は消え、カチャン、と音を立てて、ユキの手により戸が閉められる。スプートニクにはそれが、裁判の開廷を告げる木槌の音に似て聞こえた。
スプートニクはソファに座ったまま、小さく身じろぎをする。――さて。
『茶番』はそろそろ終わりでいいだろう。
どう足掻いたところで彼女に指揮を奪われるとしても、口火を切る言葉くらいは貰いたい。彼女が振り返るより早く、スプートニクはその背に問いかけた。
店主として、宝石商としての顔を捨て、ただ一人の、彼という人間として。
彼女の、『もう一つの名』を呼んだ。
「どういうことだ。――アコ」




