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楽しい旅路。
その認識が間違いだと気付くまでに、さほどの時間はかからなかった。
「おゥ。生き返ったかァ」
「う……」
部屋の戸の開く音とともに聞こえた雇い主の声。しかし不敬にも、クリューは小さく呻くのが精いっぱいだった。
――リアフィアット市を馬車で発ち、目的の街にたどり着いたのは空が充分に赤くなった頃だった。クリューとスプートニクがやって来たフィーネチカ市は、リアフィアット市からルカー街道を西南に、馬車で半日ほど行った場所にある都市だ。街外れの大きな動物園と果物を加工した菓子が名物の街で、そして何より、クルーロル宝石商会の支部がある街でもある。
当初の予定としてスプートニクが言っていたところでは、昼過ぎ頃には街に到着する算段であったが、それがここまで大幅に遅くなったのは他でもない。
「う……うえぇぇぇぇぇ」
「まだ死んでるか」
苦笑いの滲む声。クリューはやはりそれにも、言葉を返すことは出来なかった。
口を開き音を吐き出したのを契機としたかのように、喉の奥から熱いものがこみ上げてきていたからだ。しかし今回に限っては、上げてくるそれは彼女の『体質』――宝石とは似ても似つかぬものである。
住み慣れた街を旅立って最初の頃は、確かに楽しい気分でいっぱいだった。久しぶりに乗る馬車、外を過ぎる景色、頬を撫でる風、回る車輪の騒がしい音。スプートニクと二人きりの空間と、柔らかいクッションから伝わる衝撃も合わせて、非日常に胸が高鳴った。
けれどそれも長くは続かず、じわじわとクリューを体調の変化が蝕んでいった。頬が熱くなり眩暈がして、視界に思考が付いて行かなくなる。クリューが自身の体調をおかしいと思ったときにはすでに遅く、当初高鳴っていたはずの胸はぐらぐらと煮えたような熱さとともに中身を逆流させた。馬車酔いである。
道中何度も御者に車を止めさせ、休憩を入れながらやってきたせいで、当初の予定より到着時刻は遥かに遅くなってしまった。
「ま、横になってればじきに楽になるだろう。あれだけ『早寝しろ』って言ったのに、遅くまで起きてるからだ」
ベッドの上で体を丸め、洗面器に顔を突っ込むクリューの耳に、スプートニクの声が届く。同時に背に触れたものが、彼女を落ち着けるようゆっくりと撫でた。
定住をする前、彼について旅をしていた頃は、馬車酔いなど一度もしたことがなかったのに。
「スプートニク、さん」
「どうした」
「無念、なのです。クーは、弱く、なりました……うぷ」
「環境が変われば体質も変わるだろう。油断したな」
「昔は、床に落ちて、踏まれたご飯、食べても、お腹痛くならなかった、くらい、強かった、の、に……ごはん……おぇぇぇぇ」
「もういい。自虐はやめて黙ってろ」
言葉に反応して胃が動き、また吐き気を覚える。えづくがもう中が空っぽのようで、出てくるものはなかった。胃液の一滴すらも上がってこない。
水で口をゆすいで、洗面器に吐き出すと、そのままベッドにうつ伏せになる。暫くふう、ふうと荒い息を吐いていたが、擦る手のおかげかそれとも単に揺れない部屋のせいか、ややもすれば自然と落ち着いていった。
慣れない枕から頭を上げて、首を動かしスプートニクをの方を向く。大丈夫か、と問う声に答えようとして――気づいた。
「あれっ」
そこに立つスプートニクは、見慣れた彼と、少し違っていた。
「いつの間に」
「お前がゲロってるうちに。流石に商会に行くのに、適当な髪といつものラフなシャツってわけにはいかないからな」
そう語るスプートニクは、珍しくも質の良さそうなスーツを着込んでいた。
三つ揃えの濃灰のスーツは、オールバックに整えられた黒髪と灰の目によく似合っていた。そしてそれに品良く合わせられた、赤茶の革靴に青のネクタイ。更に左の襟には、銀のピンが留められている。二つの紋章をシルバーチェーンが繋ぐデザインで、片方は郵便でよく見た宝石商会の紋だったが、もう一つの方は何だろう。どこかで見たことがあるようにも思えたが、どうしても思い出せない。
けれどそれは記憶力のせいだけではなかった。今のクリューは、頭の中がとにかく落ち着かないのである。まるで火で炙られたかのように頬が熱く、酸欠のようにくらくらして収まらない。しかしそれも仕方がないことだ。
この人はつくづく、性格はどうあれ外見だけは完璧なのだ。上着のボタンをさり気なく外しベッドに腰掛ける彼の姿はどんな名画より絵になっていて、ついため息が漏れる。こんな、こんな素敵な彼と並んで街を歩けるだなんて。こんな素敵な彼の唯一の従業員として紹介してもらえるだなんて、なんていう贅沢だろう!
ああ、やっぱり少しばかり無理をしても、服屋の店先に飾られていたあの大人っぽいワンピースを買っておくべきだった。確かに店員の言うとおり、自分が着るにはあの服はバストが『些か』緩かったかもしれないが、『少し』詰め物をすれば丁度良くなったはずだ。そうしたら自分でも、いくらかは彼と釣り合えたかも知れないのに――いろいろな思いが巡る、しかし。
クリューのそんな幸せな後悔を、彼女が美しき雇い主は、最悪な形で払拭してくれた。ジャケットの袖釦を確かめながら、彼女を見すらせずにこう告げたのだ。
「お前はここで留守番な」
つい「ふぇっ?」と声が漏れた。
瞬きひとつ。そして言葉の意味を理解して、クリューはつい声を荒らげた。
「せっかく来たのに!」
「そりゃ最初は連れてくつもりだったさ。あれだけゲロゲロしてくれなけりゃァな」
しかし返されるのはいたく冷ややかなもの。右手で自身の左手に白い手袋を被せながら、スプートニクは彼女を睨んだ。
「店ならともかく、商会の応接室で粗相でもされたら溜まったもんじゃねェわ。俺の評判に係わる」
「し、しませんっ。失礼なことなんてしません!」
「どうだかな。話が難しいってうとうと船漕ぎそうだ」
「そんなこと」
しません、と言いかけて言葉を飲んだのは、自身の体調に気付いたからだ。彼が思っているほどではない、しかし長らく馬車に揺られたこと、延々嘔吐していたこともあって、少し、確かにほんの少し、ほんの少しだけ、疲れている。こんな状態で、彼の隣という安心できる場所で、クリューに理解できないような難しい話がつらつらと流れてきて、更にもしもその場に、睡眠に相応しい程度の空調なんて入っていたら。
「……ね、眠くなったら、目を閉じて考えてるふりしますから……」
「留守番な」
精一杯の妥協案を提示したつもりだったが、一言で切り捨てられた。
「お前は寝てろ。熱もあるんじゃないのか」
左手がクリューの首の後ろに回される。耳の裏に触れられて、また「ふぇっ」と声が出た。彼がその熱をどう取ったか知らないが、しばらく何事か考えると手を離し、そしてその手にも白い手袋を嵌めた。
ベッドから立ち上がり、ジャケットの釦を閉めながら言う。
「終わったら迎えに来るから、そうしたら夕飯食いに行こう。それまでゆっくり寝て、胃ィ治しとけ」
「う……」
自身の不甲斐なさに、つい布団で顔を覆う。続いて口をついて出た言葉は、照れ隠しのつもりで、本当に心からそう思って吐いたわけではなかった。
「そ、そんなこと言って、商会の綺麗な女の人との逢瀬を私に邪魔されたくないだけなんじゃないんですかっ。だから連れて行きたくなくなったんじゃないんですかっ」
――しかし。
その言葉を聞いて、ジャケットの襟を直していた彼の手がぴたりと止まった。
暫しの、沈黙。
やがてスプートニクは足元の鞄を取り上げると、早足でベッドから遠ざかる。そしてノブを握ると、彼女の方を振り返ることなく、早口で、告げた。
「行ってきまス」
「スプートニクさん!」
どうやら図星をついていたらしい。名を叫ぶが彼は振り返ることなく、クリューを置いて部屋を出て行ってしまった。
一人残された静かな部屋で、ふつふつと怒りが湧いてくる。まったく素行の良くない主である! そうしたところで届かないとわかっていながらも、クリューは頬を最大限に膨らませて、彼の出て行った戸に対し、つんとそっぽを向いてやった。
「スプートニクさんの、バカっ」




