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クリューが王として政をするスプートニクの姿などぼんやり想像していると、不意にスプートニクが「そうだ」と言った。
「忘れるところだった。コレ」
ベッドの宮の上に手を伸ばし、何かをクリューに差し出す。不思議に思いながら受け取ると、それは一冊の本だった――『はじめてのほうせき』。おや、とクリューは自分の部屋から持ってきた本を見る。しかし差し出されたそれは、クリューの借りている本とは装丁が少し異なっていた。そしてよくよく見ると、差し出されたそれには、彼女のよく見知った題字の最後に『Ⅱ』とついている。
借りた本、一巻に通し番号がなかったから気づかなかったが、
「これ、続刊あったんですね」
「確か四、五巻くらいまであったはずだ。捨てた覚えはないから、箱の中探ればどこかには全巻あると思うけど。そっちも読むか」
「あ、じゃ、いつでもいいので貸して下さい」
スプートニクの持つたくさんの書籍。難しい本の多い中で、そのシリーズはクリューにも理解できるような平易な言葉で書かれていた。図解も多くわかりやすくて、それが他にもあるというのであれば、出来ることなら読んでみたい。
「一巻だけちょっと傷があるんですね、読み込まれてる感じ」
「一巻はもともと、人に譲ってもらったものだからな。他のものはあとから集めた」
あちこちに傷があり、端の方がよれている。二巻はそれほど傷がなく、装丁も綺麗なままだ。部屋で一巻だけを見ていたときにはそれほど気づかなかったが、こうして比べてみると一目瞭然だった。クロゼットの中の木箱の奥、という陽の当たらない場所に保管してあったからだろうかとクリューは思ったが、どうもそれだけではないらしい。
保存状態の違いにはスプートニクも自覚があったようで、彼が彼女の問いかけに悩むことはなかった。
「へぇ」
もしかしたら彼が宝石商を志したのは、この本がきっかけなのかもしれない。
二冊の本を見比べながら、クリューは、自分はこの人のことを何も知らないのだな、と思った。彼がどうして宝石商になったのかも知らなければ、先の話にもあった出身のこと、両親のこと、何も知らない。こんなに近くにいて、出会ってから顔を合わせない日などほとんどないというのに、不思議なことだ。――どうも今宵は、過去のことに思考が行く。
昔のことばかりに思いを馳せるのもあまり良くないような気がして、クリューは頭を切り替えることにした。
未来。未来の、明るいこと。
――考えて、思い出したそれはクリューの心を少しだけ痛めた。答えの返ることのなかった、彼に投げかけられた問いかけ。答えを知れなかったことで安心できたのだ、今更知りたくはなかった。けれど彼の真意がわからなかった以上、またいつかその問いを思い出して悩むのだろう。
ならば今聞いてしまった方が、今後絶対に楽であるはずだ。クリューはそう心を決めると、「どこにしまったかな」と本の保管場所に思いを馳せるスプートニクを見た。そして、おずおずと、尋ねる。
「スプートニクさんは……結婚は、しないんですか」
「はァ?」
あの家の客間で、犬屋が彼に言ったこと。
心を決めて尋ねたそれだったが、スプートニクは心底呆れたといったような顔をした。見下すように彼女を眺め、逆に尋ねる。
「お前まで変なこと言うな。誰としろっていうんだ」
「いえ、誰っていうのは別に、その、ないですけど……」
「そうか。クー、お前に一つ、ためになることを教えてやろう。実は結婚ってェのはな、相手がいないと出来ないもんなんだ。いつかきっと役に立つから覚えておけ」
「そのくらいは知ってますっ」
いくらなんでも、そこまで無知ではない。噛みつかんばかりに言うと、スプートニクは隠そうともせず溜息をついた。
「……犬屋がしたから同じ年頃の俺もするって思ったのか? 結婚は、そんな簡単なもんじゃねェだろうよ」
「でもスプートニクさん、よく、夜、知らない女の人と遊んでるし……そういう人と」
「お前にわかるかどうか知んねェけど、あれはそういうのじゃないの。ただのオトモダチ。お前アンナのこと好きだろう、でも結婚したいと思うか? それと同じだ」
クリューの友人の名前を例に挙げて彼は言う。確かにアンナは大事な友人で、一緒にいて楽しいと思うし、でも確かに結婚したいとかそんなことは思わない。――でも彼の言う『オトモダチ』と、クリューの思う『お友達』は少し、いやかなり意味合いが違っているように思えてならない。が、彼はそれ以上それに関する追及はさせてくれなかった。
とにかく、と手を二、三振る。
「俺が結婚するとしたら、クーが一人前になって、俺が遊び飽きてからか。拾って雇って稼がせたらはいおしまいってのも、雇い主として、後見人としてどうかと思うしな。お前が俺のとこから巣立って、そのときに身を固めたいと思ったら、残りの生涯をともに歩んでいきたいと思う相手がいたら、するさ」
それはどこか、『当店で販売・修繕した装飾品について、引き渡しから十日以内の不具合であれば無料で修理する』というスプートニク宝石店の取り決めに似ている。なんと言ったか、そう――
「私、それ、知ってます。『ばんぜんなアフターサービス』ですね」
「福利厚生が充実してるの方が正しいような気もするが……ま、それも少し違うけどな」
意味はわからないが取り敢えず神妙な表情を作り、「確かにふくりこうせいですね」と答えておく。そんなクリューに彼は「わかっていないな」とでも言いたそうな顔をした。
ともかくも整理すると、今のスプートニクには結婚の意思も、また相手もなく、クリューが独り立ち出来たら、そのときようやく考えるということだ。
つまり、クリューが独り立ちするのを嫌がったら、彼はずっとクリューの隣にいてくれるということで。
「うふふ」
「何だ。気持ち悪ィな」
「なんでもありません」
やや打算めいているような感じもしたが、思いついた良案につい笑みが湧く。
彼はそんなクリューに、ついでとばかりにこうも言った。
「あとは……まァ。その前に、お前の両親も見つけてやろうな」
親などもう、どうでも良かった。彼がクリューの隣にいてくれるのだ、家族などそれで良かろう。しかしこの下衆商人には、『どうでもいいこと』ではなかったらしい。
「安心しろ。必ず俺が見つけ出して、養育費と慰謝料を山ほどふんだくってやる」
ヒャーッ、ハーッ、ハァッ、と、正義の使者なら絶対にしないだろう下卑た笑い声を上げた。そうして気が済むまでひとしきり笑ってから、
「お前はどうする。何を請求したい? 親が破産するくらいに好きなもの頼んでおけ」
「く、クーは、クーは……じゃあ、あの、スパイのおはなしの、今出てるの全巻揃えて買わせてやりますっ」
本屋で見たときは確か三十巻は下らなかったそれだが、クリューの本棚にはまだ十冊も揃っていないのだ。だからそれは、今彼女が思いつく限りの贅沢を言ったつもりだった。
彼女の、彼女なりの贅沢に、スプートニクはくすり、と笑った。
「まったくお前は、甘いなァ」
「今の私には一番の贅沢だからいいんですっ」
頬を膨らませて、そっぽを向く。
スプートニクは面白そうに彼女の膨らんだ頬を指でつつきながら、「それならもっと凄いゼイタクがあるだろう」と言った。
凄い贅沢? 怪訝に思い、彼を見る。スプートニクはしたり顔で、自身の考えを口にした。
「俺がお前なら――親の金と力を使ってあれの作者を買収して、続編の主人公を俺にして書かせるように要求するかな」
――なんと、いうことだ。
彼女の贅沢を遥かに凌駕した『贅沢』に、クリューは思わずきゃあと声を上げた。
そんなもの、想像だにしなかった。しかし、あの格好いい登場人物たちを仲間に引き連れて、あの世界を旅できるなんて、そんなことが出来るとしたら、それはなんという贅沢だろう!
「勿論その分の金と交渉は親持ちで、展開が気に入らなかったら逐一書き直させる」
「く、クーも、クーもやっぱりそれがいいです! クーもそれにしますっ」
ベッドの上で詰め寄るが、勿論のことこの人は、それを許容してくれるほど寛容ではなかった。
「馬鹿、作家が一気にそんなに書けるか。俺が先に考えついたんだから俺だけの特権だ。さァて、どんな話にしようかなァ――」
「ずるい!」
当てつけるようにそう言う彼へ、ひどい嫉妬を覚える。
彼ばかりに独り占めをさせたくない。ずるいずるいと騒いでやると、彼は大げさに耳を押さえて眉を寄せ、嫌そうな顔をした。
「あァ、わかったわかった。じゃ、勝負するか」
「勝負?」
「どっちの考えた話の方が面白いかの勝負。今から十分の間にどんな話を書いてもらいたいか各々考えるんだ。で、十分後に披露し合って、より面白い方を将来、作家に書いてもらう。作家だって売れる話の方が書きたいだろうからな――どうだ。この勝負、乗るか」
「やります!」
鼻息荒く答える。
すると彼はしたり顔で笑い、枕元の時計を手に取った。針に注目し、時を数え始める。
「じゃ、今から十分な。目閉じて考えろ。よーい、スタート」
それを合図に、クリューは大きく深呼吸をして、目を閉じる。
髪を梳くように撫でる手の温かさに何とも例えられぬ至福を覚えながら、いろいろ思考を巡らせるうち、やがて意識は遠のいて――
――そしてクリューは夢を見る。
腕利きの密偵として依頼を受けたクリューが、任務により潜入した城の中で、一人の性悪王子と禁断の恋に落ちる夢を。




