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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅲ はじめてのおつかい
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7-2(7/2追加)




 ――ドスン。

 床を振るわせた鈍い音に、クリューは天井を向き、口を大きく開けたまま、泣くことも忘れて硬直した。一体、何の音だろう。

 そういえば、ひどく驚くことをよく『心臓が口から飛び出る』などということがままある――真っ白になった頭の中で、まず思い出したのはそんなこと。はっと我に返り、開いたままの口を慌てて押さえて、心臓が飛び出ていないことを確認。口からは心臓も、また宝石も出てきてはいなかった。体調は万全だ。

 ドスン。もう一度、音がした。床に何か、とても重いものを落としたような響き。

 二度目のそれで音の方向が知れる。上向いたままの頭をゆっくり動かしてそちらを見ると、今は誰もいないはずのスプートニクの部屋が目に入った。

「……何なの?」

 ぬいぐるみを抱き直し、戸をまじまじと見る。部屋の主は今外出中で、そこには誰もいないはずだ。彼が不在であることを思い返し、ちくりと胸が痛んだが、音への興味の方が遥かに大きかった。片手にぬいぐるみ、片手にマグカップを持って、階段から腰を上げる。

 足音を立てないようそろそろと廊下を歩き、彼の部屋の前へ。マグカップとぬいぐるみを両方左手に持ち直し、開いた右手でゆっくりとノブを捻る。鍵は、開いていた。

 もしや泥棒か。ぎゅうっと、先ほどとはまた違う痛みが胸を襲った。しかし、雇い主の部屋が空き巣に入られているとするなら、黙ってなどいられるわけがない。少し前に「敵の前に飛び出すような真似はするな」と言われたが、それは『スプートニクの身を守るために』という前提条件がつく。今は彼がいないのだから、この場合は条件外ということで、認められていいはずだ。

 クリューはそう勝手に結論づけると頷いて、瞳一つ分だけ戸を開ける。息を潜めて覗き込むと、入り口から続く廊下の奥に小さな明かりがあった。そしてよく目を凝らすと、明かりの近くに人影が見える。それに気づいたとき、クリューの心臓は更に跳ねた。

 そうっと戸を開けて、体を滑り込ませる。

 廊下には木箱が二つほど置かれていた。触れてみるが、クリューの腕では重くて到底持ち上がらない。先ほどの音は、これを床に落としたときのものだろうか。

 箱のうち片方の蓋は少し開いていて、隙間を覗くと中には難しそうな本がいっぱいに収められているのがわかった。空いていない方の木箱の上や床の上には幾冊かの本がばら撒いてあって、どうも中から取り出したようだ。泥棒がわざわざ箱から取り出しておくあたり、高価な書籍なのだろうか?

 人影は奥のクロゼットを開けて、床に座り、中をごそごそやっている。こちらにはまだ、気づいていないようだ。

 クリューは心を決めると、箱の上にまず自分の持っていたぬいぐるみとカップを置いた。それから、ばら撒かれた本の中で一番分厚そうなものを手に取る。

 物語の主人公は、不審者の襲撃に対しいたくスマートに制圧をしてのけるというのに、現実はそうは出来ないものらしい。恐怖に手も足もぷるぷる震えてしまっている――が、主の不在に部屋を荒らす不届きものを許すわけには行かなかった。

 本を両手で硬く握り、その背にゆっくり近づく。気づかれないよう充分ににじり寄ってから、そおっと本を振り上げて――固く目を閉じ、振り下ろす。

「く、食らえっ!」

 しかし。

 本がその頭にぶつかることはなかった。こちらを見ないまま掲げられた空き巣の手が、しっかりと彼女の腕を捕らえていたからだ。

 しまった。慌てて本を放り逃げようとするが、手は彼女を放してくれない。

「放して! はーなーしーてー!」

 身を捻り腕を大きく振り、絶叫してなんとか振りほどこうとするが、その手はびくともしない。諦めず、騒ぎながら何度も大きく腕を振っていると、やがて呆れたように、『空き巣』は言った。

「雇い主に向けて、何が『くらえぇ』だ、コラ」

 クリューはぴたりと腕を止めた。聞き覚えのある声。

「あれ」

 こちらを向いた『空き巣』の顔を、改めて見る。暗がりでもそれが、よく見知ったものであることはよくわかった。

 彼は腕を放すとため息をついて立ち上がり、腕組みをしてクリューを見下ろした。ほとほと呆れた、といった様子の灰色の瞳。何度となく見たことのあるそれは、勿論のこと空き巣ではなかった。

 それは紛れもない、クリューの主。

「スプートニクさん……? お出掛けした、はずじゃ」

「あのなァ――」

 若干苛立った様子で言いかける、が続く言葉は吐かずに飲みこんだようだった。

 眉を寄せて、何か物言いたげに睨みつけるが、クリューにはそれがなんだかわからない。待っているとスプートニクは、諦めたようにかぶりを振った。

「……ここ暫く、ベビーリングの受注をしてなかったからな。夫妻に説明をしながら、自分でも曖昧になっているところが幾つかあるなと思って。売り物を売り手自身が知らないなんて言語道断だろう? だから、今のうちにもう一度本を読み直しておこうと、相手に断って帰ってきたんだ」

 それを聞いて――クリューは。

 つい、まじまじと彼の顔を眺めた。

「…………ほぁ」

「何だその相づちは」

「いえ……」

 彼が女性のところに遊びに行ってしまったことで、先ほどまでひどく沈んでいたというのに、実は出掛けてすらいなかったなんて。どうも、拍子抜けしたような気分になる。

 階段で一人、耽っていた悩みは一つも解決していないけれど、それでも。自分の心とは、なんと単純なのだろう。彼が今目の前にいるというだけで、重かったはずの心が羽のように軽くなった。

 それを自覚すると、自然と頬に笑みが湧く。そして、もう少し側にいたいという欲も同時に。

「あの、スプートニクさん。私もそれ、読みたいです。お勉強したいです」

「ああ、じゃ、もう何冊か探しておこう。お前にもわかるようなのがあったかな」

 彼はクリューの頼みにあっさりと了承すると、散らかした本を眺め回す。その中で、彼にとっては覚えのないものを見つけたようだ。

 木箱のところへ歩いていって、覚えのないそれ――クリューの置いたマグカップを取り上げる。

「何飲んでるんだ? 少しくれ。力仕事で喉が渇いた」

「あ、どうぞ……でも、美味しくないですよ」

 入っているのは、何故か牛乳の味すらもしないホットミルク。しかしスプートニクは忠告も無視して、マグカップを傾ける。

 一口啜って、しかしすぐに、顔を顰めた。

 口を付けたところを親指で拭って、クリューに返す。そして、妙なことを言った。

「お前、寝る前にこんなもん飲んだら虫歯に……いや。糖尿になるぞ」

「えっ?」

 どういうことだろう。

 差し出されたマグを受け取って、自分でも飲んでみる。と、

「へぐぅ」

 舌を襲った予期せぬ凄まじい味に、思わず顔をしかめた。吐き出しそうになるのをなんとか堪えて、ぐっと飲み込む。まったくの無味であったはずのホットミルクは、強烈に甘く味を変えていた。

 と同時に、味覚を刺激されたせいか、ひどい空腹を覚える。部屋に残したラザニアがいやに恋しくなり、途端に腹がきゅうきゅうと鳴り始めた。

「あの、あの。お勉強の前に、ご飯、食べてきてもいいですか。……お腹、空きました」

「なんだ。夕飯、まだ食ってなかったのか?」

「いえ、食べたんですけど、なんか、さっきまではあんまり、お腹空いてなくて。今になってお腹空いてきたっていうか」

 その理由はなんとなく、わかっていた。味を覚えなかった理由も、食欲がなかった理由も、今になって腹が減った理由も。

 けれどそれを伝えるのは、どうにも気恥ずかしくて。

 えへへ、と曖昧に笑って誤魔化すと、スプートニクは「変な奴だな」と首を傾げた。

「まァいい、好きなだけ食ってこい。その間にお前でも理解できそうな本を探して、この辺り片付けておくから」

「はいっ」

 笑顔の消えぬ顔のまま大きく頷くと、クリューはマグとぬいぐるみを手に、廊下をぱたぱた走る。両手が塞がっているせいで戸を開けあぐねていると、呆れ顔のスプートニクが追いついて、共有部分へ続くそれを開けてくれた。

 「急ぐと転ぶぞ」との忠告を照れ笑いで聞きながら、それでも何か堪えきれぬ衝動に、走らずにいられない。虫が鳴くほど空腹なのに、何かが腹を満たしている。

 部屋に戻り、甘ったるいだけのミルクは迷わず流しへ。残しておいたラザニアを火にかけて再度温め、今晩二度目の夕食の時間とする。

 ――思った通り。

 温め直したラザニアは、いつもと変わらず、美味しかった。





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