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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅲ はじめてのおつかい
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7-1(6/28追加)




 夫妻の家を後にする頃にはもう、外は暗がりに落ちていた。

 酒を提供する飲食店や宿屋こそまだ賑やかにしているが、多くの商店はもう『閉店』の札を掛けている。道を行く人も昼間と比べ格段に少なくなり、クリューのような子供はもう、まったく見かけることがない。

 街灯の照る街並みを、スプートニクと肩を並べて歩き行く。彼は軽くなった鞄を腕に引っ掛け揺らしながら、いつも通りの調子で言った。

「良かったな。ゼリー、幾つか貰ったんだろう?」

「……はい」

 クリューは自身の手にした袋を見やりながら、やけに重い頭を縦に振って答えた。

 出産祝いにと持って行ったゼリーの詰め合わせ。帰り際エリィが、その中の幾つかを、猫じゃらしのお礼にとクリューに握らせてくれたのだ。透き通ってきらきら光る、赤と緑と橙のゼリー。中には色に対応した果実が埋まっているのが透けて見える。エルサの店の甘味である、これらもきっと、例に漏れずとても美味しいのだろう――けれど。それでも、クリューの心は晴れなかった。今の彼女が一番欲しいものは、お菓子などではなかったからだ。

 スプートニクを見上げる。彼はクリューに話しかけながらも、彼女を見てはいなかった。ただ真っ直ぐに行く方を向いて、何かを喋っている。

 彼が自分を見ていない。特別珍しいことではないのに、今のクリューには、それが無性に寂しかった。

 これから彼が、夜の街に出掛けることは知っていた。けれど、せめて抱いた不安だけは払拭したくて、行ってしまう前に、少しの時間だけでも自分と向き合って欲しくて、クリューは彼に声を掛ける。

 これからせめて、夕飯だけでも、一緒に食べてから行ってくれませんか。

「あの――」

「さて、と」

 しかし。

 店主は従業員の気分が如何にあるかなど、気に留めはしなかったらしい。クリューの小声での呼びかけに気づかず呟くと、不意に足を止める。大きく伸びをし、軽く髪を掻いて、それからクリューを見下ろした。

 向く、灰の瞳。しかしそれは残念ながら、彼女の求めた眼ではなかった。

 彼は言った。

「今日の業務はこれで終わりだ、お疲れさん。――俺は帰らないでこのまま出掛ける。きちんと鍵、掛けておけよ」

 そして指さすのは、自宅に続くのと違う道。その先に何があるのか、どこに向かうつもりなのかはわからなかったが、それでもそこに、自分ではない誰かが彼を待っているのは確実だった。

 我知らず、眉が寄る。

「あ……」

 即答出来ないクリューを怪訝に思ったか、彼の表情も不思議そうに歪んだ。腰に手を当てて、首を傾げる。

「どうした。帰り道はわかるだろう?」

 スプートニクの、その問いに。

 クリューは、わかりません、と答えたかった――だから家まで一緒に帰ってくれと言いたかった。しかしそんなこと、言ったところで真っ赤な嘘であることはすぐにばれただろう。きっと、何を変な冗談をと笑われて終わりだ。

 だから。

 そのときのクリューには、もう、選択肢など、なかったのである。

「はい。あの……お気を、つけて」

「どォも。お前も気をつけて帰れよ」

 軽い調子で言う彼に、深く深く礼をする。そして頭を上げたときにはもう、彼は彼の目指すところに向けて歩き出していた。クリューのことを案じて、振り返るような素振りすらもなく。

 大声で彼の名を呼びたい衝動に駆られる。けれどそんなこと、したところでどうなるものか。――もし、無視をされたらどうしたらいいのか。

 そう思うと何を言うことも出来ず、また、去って行く背を見ていることも辛くて。

 クリューはただ奥歯を噛み締めて、そっと、顔を背けた。




 そうしてクリューは彼と別れ、家に向けて一人歩き出す。

 そのときのクリューはただこみ上げる涙を堪えることで精一杯で、彼を追うことなど考えもしなかった。だから――

 背を向けたスプートニクが深くため息をついたことも知らないし、呆れた様子で「仕様がない奴だ」と呟いたことにも気づかない。




   *




 そして夜も更けた頃。

 クリューはぬいぐるみを抱いて、一人、一階へ続く階段に腰掛けていた。

 ――夕飯はエルサの店でラザニアを買ってきて、部屋で一人で食べた。店を訪れた際、クリューは自身こそ気づいていなかったがどうも相当に顔色が悪かったようで、ウェイトレスのエルサは彼女を見ると驚いたように目を見開き、素っ頓狂な声で「どうしたの!」と尋ねてきた。なんでもない、と何度言ってもしばらく離してくれなかったほどだ。

 スプートニクが出掛けていること、今晩は一人で留守番すること、食事を作る元気がないから何か作ってもらって持ち帰りたいことを伝えると、「せめて店で食べて行ったら」と強く誘われた――が、丁重に断った。誰かに会っていたい気分ではなく、また人と食事をしたとして、その場で泣き出さない保証などなかったからだ。店に訪れる人たちの楽しい食事を、温かい夕餉を、自分の憂鬱で台無しにはしたくなかったのである。

 そうして半ば無理やり自宅に持ち帰り食べたラザニアは、あの喫茶店の食事にしては珍しくも美味しくなかった。どれだけ食っても、まったく味がしないのである。結局、半分くらいを部屋に残して、やめてしまった。

 入浴して歯を磨き、寝巻きに着替えて布団に入ると、瞼の裏の暗闇に幾つかのものが映った。しんと静まり返った夜の中描かれるそれはどれも起きながらに見る悪夢のようで、やがて目を閉じていることすら、一人で部屋にいることすら辛くなり――そして結局、ベッドから降り、スリッパを履いて、自室の外の階段に、居場所を求めたわけである。

 スプートニクは、夜に出掛ければ帰ってくるのは大抵翌朝だ。ここにこうして座っていても、誰が上ってくることもないのは知っている。それでも、こんな気分で、一人で部屋にいるのは耐えられそうになかった。

「うーちゃん……」

 部屋から連れてきたぬいぐるみの名を呼び、向き合う。黒く丸い瞳にうっすら映る自分の顔は、滑稽に歪んでいた。

 そして思うのは、瞼の裏に映った絵のひとつ。

 自分を捨てた親のこと。自分が親に、捨てられたこと。

 窓から差し込む月明かりの中で、クリューは一人考える。彼女の一番近しい人、スプートニクもまた、彼女の前で自身の両親の話を語ったことはなかったから、きっとそのせいもあるのだろう。クリューは今まで、自身に親がいないことを、特別な問題であると考えてこなかった。

 けれど。今日、温かく包まれ、守られている赤ん坊を見て。

 それを羨ましいと、思ってしまった。

 一度気づいてしまえば思考はどこまでも深みに落ちていく。彼らは何故、幼いクリューを捨てたのだろう。金になると思い、誰かに売り渡したのだろうか。それとも、宝石など吐き出す異様な娘を、気持ち悪いと、思ったのだろうか。

 こんな気持ちの悪い娘は、何処かで死んでしまっても、構わないと。

 ――不意に吐き気を覚えて、階段に置いたマグカップを取り上げた。中には蜂蜜をたくさん混ぜたホットミルクがなみなみと入っている。温かいもの、甘いものは人を落ち着けてくれる。騒いでやまない心を落ち着けたくて作ったそれだが、それもラザニアと同じようにまったく味がしなかった。一口つけて、けれどやはり不味くて、続けて飲む気には到底なれず、元の場所にカップを戻す。

 そしてまた、考える。今度は自身の親のことではなく、今、自分の保護者としてある人のことを――スプートニクがいつか、人生の伴侶を見つける日のことを。

 昼間に聞いた犬屋の声が、耳の奥で蘇る。――所帯を持ちたいとか、添い遂げたいと思う女性ひととか。スプートニクさんには、いないのかい。

 スプートニクがクリューの後見人としてあるのは他でもない、彼女を従業員として雇っているからだ。だから、例えば彼に恋仲の相手が出来たからと言って、彼がクリューをこの店から追い出すことはないだろう。だから問題はそこではない。本当の問題は――

 彼が伴侶を見つけたとき、はたしてその人は、クリューを、宝石を吐く気色の悪い娘を、受け入れてくれるだろうか。もしも、スプートニクの世界で一番愛しい人が、クリューを指して「気持ち悪い」と言ったら、彼はどう行動するのか。

 そしてもう一つ、何より大きな疑問。自分はそのとき、彼の元にいることが出来るだろうか。自分以外の人に、自分に与えるより遥かに大きな愛情を向ける彼を、今までと同じ距離で見ていなければならない毎日に、はたして自分は、耐えることが出来るのだろうか?

 夕刻に見た、仲睦まじく笑い合う犬屋とエリィの姿。その犬屋の首が、クリューの想像の中でスプートニクと挿げ替えられる。それだけで、彼女の胸ははちきれそうになった。

 しかしそれが嫌だとして、クリューには行く場所も頼る人も、守ってくれる人もいない。

 親ですら捨てた自分を、もう一度、誰が拾ってくれるというのだろう?

「ふ、ふ、うぁ」

 思うと、喉から自意識でなく、声が漏れた。

 眉と眉が寄り、口の端がゆっくりと引き締められていく。兎の目に映る自身の顔が、まるで昼間見た赤ん坊のように崩れてゆく。滲む視界に耐え切れなくなりぎゅっと目を閉じると、目頭から鼻を伝い、また目尻から頬を伝って顎へ生温いものが落ちていった。

 いつの間に自分は、こんなに我が侭になったのだろうか。かつては、殴られないだけで、ものを食べられるだけで、その日を生きられるだけで幸せだったというのに。

 叫んだところで来てくれる人はいない。けれど、それでも我慢ならなかった。

 クリューは両腕で兎を抱くと、大きく口を開けて息を吸い、

「う、う、うわぁ――」

 腹を満たした遣る瀬無い感情をすべて乗せて、天井へ向けて泣き叫び――かけた、そのときである。

 彼女の声を、遮って。

 座る階段すら揺らすほどの、とても大きな音がした。






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