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二人が結ばれるきっかけとなったのは、やはり例の飼い猫リリィの存在なのだそうだ。
エリィが猫の体調や飼育に関して聞くため彼の働く店に通い、そこで何度か会ううちにお互い惹かれ合うようになったらしい――というのを何故スプートニクが知っているかというと、婚約指輪の作成、入籍の挨拶、また結婚指輪作成の際に二人の口から聞かされていたからだ。まったく同じ話を、三度も。
そういうロマンティックな話が好きなクリューは毎度目を輝かせて聞いていたが、スプートニクとしては、仕事とは言え、やはり飽きる。三回目に至っては「はァ」「ヘェ」「ほォ」三種類の返答だけで会話を成立させるという縛りを自身に課し、ゲーム感覚で話を聞いていたほどであった。
――客間に通され、二人掛けのソファを勧められてクリューと共に腰を下ろす。テーブルを挟んで向かいのソファに夫妻が座った。
「それでは」と犬屋が仕切るように言う。が、クリューはどうあれスプートニクとしては、またあの話を聞くのは御免だった。先手必勝と、彼の言葉にやや被るように、
「話を始める前に、まずこちらを」
言ってスプートニクがテーブルに置いたのは、白い箱。先ほど喫茶店で仕立ててもらったゼリーの詰め合わせだ。その上に載せた淡い暖色の封筒には、幾許かの金券が収められている。
スプートニクはそれを、夫妻の座る向かい側へと軽く押しやった。
「よろしければお納めください。ささやかではありますが、弊店からのお祝いの気持ちです」
「ま。よろしいの? こんなたいそうなもの頂いてしまって」
「勿論です。御笑納頂ければこちらも嬉しい」
夫妻は顔を見合わせると、にっこり笑った。代表して、犬屋がそれを引き寄せる。
「では、遠慮なく頂戴します。ご丁寧にありがとう」
「とんでもない」
「あの、あの」
と、彼らの会話を割るようにして、クリューが元気良く手を上げた。
「どうした、クー」
「あの、私もこれ、お祝いです。ええと、ごしょうの? 下さい」
クリューはスプートニクを真似て言うと、同じようにリボンのついた猫じゃらしをテーブルの上へ差し出した。ここに来るまでずっと握っていたあれだ。
夫妻は、彼女の置いたそれもまた貴重な品であると言わんばかりに目を細めた。
「ありがとう。きっとリリィも喜ぶわ」
「ニャ」
すると、呼ばれたことに気づいたのか、主人の足元で蹲っていたリリィが身を起こした。
きょときょと辺りを見回して、やがてクリューと目が合うと、彼女のもとに歩いて来る。それから後足で立ち上がると、前足の爪でクリューのスカートを引いた。おそらくは「遊んでくれ」と言っているのだろう。
しかし、クリューの方は困り顔で。
「リリィ、今は駄目なの、ごめんね。私、今日はお仕事で来たから。ね、ごめん」
「ニャア」
リリィは一声鳴くと、彼らに背を向けて走って行った。廊下へと姿を消す。
しかしそこはやはり猫である、クリューの言葉を正しく理解したわけではなかったらしい。リリィはすぐに、今度は自分の玩具を咥えて戻ってくると、クリューの足元に落とし「これでいいだろう」とばかりにまた鳴いた。腹を見せて、その場にごろんと寝転がる。存分に構え、のポーズ。
クリューは困ったように、猫の名を呼んだ。
「リリィー……」
「クー。いいから遊んでやれ」
致し方あるまい。ため息まじりに、スプートニクは言った。
クリューがはっとスプートニクを見た。が、彼女の返事は待たない。仕様のない奴だ、と思いながら続けて言う。
「猫がお前を気にしているように、お前も猫が気になるんだろう? 猫に気を取られながらじゃ、まともな話し合いが出来るとは思えない。用があればその都度呼ぶから、行ってこい。――申し訳ないが、ちょっと猫をお借りしても」
「ええ、私もお願いしようと思ってたところよ。クリューちゃんごめんね、良かったらリリィと遊んであげてくれないかしら。リリィ、久しぶりにクリューちゃんに会えて興奮しちゃってるみたい」
エリィの『お願い』を聞き、再びクリューがスプートニクを向く。その顔つきから、何が言いたいのかははっきりしていた――だから彼は、彼女の持って来た猫じゃらしをテーブルから取り上げ、差し出してやる。そして、
「雇い主の命令だ。行ってこい」
「……はいっ!」
クリューは猫じゃらしを受け取って元気良く頷くと、足元のリリィを見た。
遊んでくれると察したらしいリリィは、廊下に通じる戸まで走って行くと、彼女を誘うように振り返る。クリューは「では、行って来ます」といたく真面目な顔で敬礼すると、足元に落ちた玩具を拾い上げて猫の後を追い、開け放したままだった戸から揃って廊下に出て行った。
やがてその栗色が部屋から消えると、スプートニクの腹から自然と長い嘆息が漏れた。はたしてあの能天気な従業員を、連れてきて良かったのか、悪かったのか。
何にしても、まずは非礼の謝罪をすべきだろうと夫妻に向き直る。が、彼が何かを言うより早く、犬屋が廊下を見やって、上機嫌そうに笑った。
「可愛いねぇ。うちの娘も、あんな元気な子に育ってくれたら嬉しいな」
「そうね。優しいし、思いやりはあるし、責任感もあるし。クリューちゃんみたいな子になってくれたらいいわねぇ」
「……手間がかかるぞ、あの手合いは」
二人の気の抜けたような笑顔に、言うべき言葉が変わってしまった。釣られて苦笑いしてしまう。
「口先と態度ばっかり一端でな、まったく」
「あら、まだまだ可愛い盛りじゃない。女の子なんてすぐ大きくなっちゃうわよ? まだ子供だと思ってたら、突然『会って欲しい人がいるの』なぁんて言われちゃうかも。もしかしたら『スプートニクさん結婚してください』なんて言い出したりして。いずれにしても、しっかり心の準備をしておいたほうがいいわよ」
からかうようなエリィの言葉。しかし、かく言われてもクリューはまだ恋すら知らなさそうな子供であって、それが彼氏だ求婚だと言われても、いまいち想像が難しい。
だからスプートニクは、降参とばかりに肩を竦めることで、それ以上その話題を広げることを断念した。もとより時間が無限にあるわけではないのだ、この後にも『予定』が入っているのだし。
「どうでしょうね。――さて、そろそろ仕事の話をさせて頂いても?」
「あ、そうだね」
「そうね、よろしくお願いします」
向かいで頭を下げる夫妻に礼を返してから、スプートニクは鞄を開けた。
幾枚かの書類を取り出し、二人の方を向けて差し出す。彼らの所望する装飾品、ベビーリングを簡単に説明した冊子である。
軽口は封印。頭を商売のことに切り替え、説明を始める。
「ベビーリングというのは、子供にとっての『初めての装飾品』で、意味合いとしてはいろいろありますが、基本的には『子の幸せを祈って親が子に贈るもの』です。他に、出産祝いとして母親へ贈られたりということもありますが、それはまた今回とは別の話ですので――」
「あのさ、スプートニクさん」
不意に名を呼ばれ、言葉を切る。
「何だよ、犬屋」
「ごめんね、悪気はないんだけどひとつ言わせて。君が真面目に仕事の話してるとなんか気持ち悪い」
「悪気の塊じゃねェか」
結婚指輪の作成の際にも同じことを言われた。上客にはしばしば「仕事に打ち込む姿も素敵」と褒められる――そこにつけ込んでいろいろ買ってもらうこともままある――ものだが、彼にはそうでもないようだ。
エリィが「ちょっと、もう」と旦那をつつく。苦笑した彼女の様子からは、彼女自身がどう思っているのかはわからなかったが、しかしこれはどうでもいいことだ。犬屋の嫁になど、商人として、またクリューの保護者として以上の印象の良さなど持ってもらったところで意味はない。
咳払いを一つ。「話を戻すぞ」と告げると彼は「ごめん、ごめん」と再び謝罪した。
「さて。ベビーリングの用途は様々ですが、お二人はどのようにお使いになるおつもりですか」
「あら? ……ベビーリングはあの子の指輪ではないの? 用途って?」
「いえ。お渡しするときにもお話ししますが、ベビーリングは基本、お子さんに嵌めたままというのは避けて頂きたく思います」
「なんで?」
犬屋のどこか惚けた質問に、コイツ頭を使っていないな、と思う。ちらりとエリィを見ると、こちらは流石母親と言うべきかその理由に気づいているらしかった。
スプートニクは犬屋に向け自身の左手を広げて見せると、右手で左手の薬指を示し、答える。
「お前が普段、指輪しないのとおんなじ」
「え? あ」
彼は指輪をしない。結婚指輪を仕立てる際に、自分は職業上指輪をするのは難しい、と言っていたことを覚えている。ケースに保存して、家でときどき見返すことしか出来ないなとどこか寂しそうに語り、またそれを聞くエリィも――口では「仕方ない」と言っていたけれど――どこか悲しそうに笑っていた。
けれど長らく宝石商をしているスプートニクにとって、そういう顧客は珍しくなかった。だから彼は結婚指輪の引渡しの際、プラチナのチェーンを一本、サービスでつけてやったのだ。指に出来ないのなら、首から提げて服の中にでも収めておけばいいだろうと。「少しは頭を使えこの馬鹿犬が」とか言ったような覚えもあるが、正確にどういった言葉をかけたかは忘れてしまった。そのときの両人の喜びようだけは、まだ記憶にあるけれど。
それはともかく。そういった自分の事情に照らし、犬屋はすぐに思い当たる。
彼が指輪をしづらい理由。それは、彼の職業が『ペットショップの店員』だから。
「誤飲か」
犬屋は合点がいったとばかりに頷いた。
万が一仕事中に指輪が外れ、動物の口にでも入れば動物たちの命取りとなる。よく言えば慎重派、悪く言えば臆病な彼はそう懸念し、自身が指輪をすることを良しとはしなかった。
ベビーリングを赤子に嵌めさせるということにもまた、同じことが言えた。喉の奥に詰めてしまった宝石や装飾品を安全に吐き出させるのは――普通の体質の人間にとっては――なかなかにして難しい。
「そう。子供はなんでも口に入れるからな。それから、赤子は成長が早いから、嵌めたままにしておくと手指の成長が阻害されるおそれがある」
「じゃ、どうするものなの? ベビーリングってのは」
「それこそ人それぞれだ。母親がネックレスとして身につけたり、子供が成人するまで保存しておいて渡したり。あとは娘が嫁ぐときに贈った人もいたな」
「成る程ね」
と、エリィが深く頷いたとき。
――前触れもなく本当に唐突に、声がした。
聞きようによっては猫の鳴き声にも似ているそれは、しかし確かに人のものである。スプートニクは聞き慣れない突然のそれに一瞬戸惑ったが、やはりと言うべきか、犬屋とエリィはそれほど動じなかった。別の部屋にいたところでよく通って聞こえるそれ――赤子の泣き声。
「あらあら、起きちゃったのね。ご飯かしら……ごめんなさいスプートニクさん、私、ちょっと失礼するわ」
「どうぞ」
いそいそと席を立つ彼女の姿に、訪問営業を決めた自分の選択は間違っていなかったと再確認したような思いになる。
廊下へ出て行くエリィの後姿をぼんやりと眺めていると、犬屋がこちらに顔を寄せた。妻の背を指差し、どこか誇らしげに、スプートニクに言う。
「あれ、僕の嫁」
何を今更。
「知ってるよ」
「可愛いでしょ」
答えると、間髪置かず惚気られた。よくそんなことを恥ずかしげもなく口に出来るものだ。
また二人の思い出を延々語られるのは遠慮したい。そう思って答えずにいると、犬屋はぽつりと呟いた。夢見るような、またどこか遠くを見るような瞳で。
「いやしかし、家族って良いものだね」
「はァ。左様でスか」
スプートニクにとってはあまりにも『どうでも』良くて、どうしても適当な答えになってしまう。けれどそんなことはお構いなしとばかりに、犬屋は機嫌良さそうに肩を左右に揺すりつつ続けた。
「妹もいるけど、やっぱり自分の守るべき所帯っていうのはまた違った良さがある。君はどうなの? いいよー家庭って素晴らしいよ。所帯を持ちたいとか、添い遂げたいと思う女性とか。スプートニクさんには、いないのかい」
尋ねられ、スプートニクは首を傾げた。
というのも、彼にはあまり結婚願望がない。考えたことがまったくないわけではないが、いろいろな思いが腹の底で渦巻いて、結果、自分が誰か一人の伴侶として佇む絵が想像できないでいる。まだ遊び足りないという思い、仕事が楽しいという思い、それから――自分がどうこうなる前に、まずは例の『約束』を果たしてやるのが先だという決意。
そしてそれらすべてと同時に思い浮かぶのは、たった一人の少女の姿――
と。
「おや」
犬屋がにっこり笑って、先ほどエリィの去っていった方を向いた。
エリィが戻ってきたのだろうか、つられてスプートニクもそちらを見やる。しかしそこに佇んでいたのは、別の人だった。ちょうどスプートニクの頭に浮かんでいた少女――クリューの姿。
しかし何故だろう。彼女の瞳に力はなく、頬も血の気が引いて、青白い。部屋を飛び出していったときは元気そのものの顔をしていたというのに。憔悴、と言うほどではないけれども、心ここに在らずといった様子である。
「クー」
名を呼ぶと、ぼんやりした目にはっと焦点が戻った。しかしスプートニクが自身を見ていることに気づくと、怯えたように一歩下がる。一体どうしたというのだ、何か良くない発言をした覚えはないのだが――部屋の外で何かを見たのだろうか。或いは、赤子の泣き声に驚いたか。
けれど過剰に反応するのも良くない気がして、あくまで何気なく話しかける。
「猫はもういいのか」
「あ、……はい」
「なら、座れ。話を続けるから」
言うと彼女は、なんとか「はい」と答えて、先ほどと同じようにスプートニクの隣に座った。手は膝の上に置き、視線は手元に落としたままでいる。いつもの彼女であれば遊んだ猫に関し「可愛かった」「楽しかった」などと身振り手振りを混じえて騒ぎそうなものだが、それもしない。
しかし客先で第一に従業員の心配をするというのも、順序が間違っている。今は極力気にしないようにしようと心に決め、テーブルの上の資料を一枚取り上げたとき――そしてその資料の文字を見たとき。
不意に。
彼女の傷心の理由が、わかった気がした。
(続く)




