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階段を下る足音がして、スプートニクは過去の業務日誌を閉じた。
あのあと。
クリューに顧客の家を訪ねさせ、ベビーリングの作成に話し合いを持ちたい旨、空いている時間を教えてほしい旨を伝えたところ、直近ではちょうど本日夕方に、夫婦とも予定が空いているとの返答だった。
急を要する注文、また来客の予約は入っていない。当初はクリューに店番をさせ、客先にはスプートニク一人で赴くつもりだったのだが、どうもそわそわしているクリューに「一緒に行くか?」と尋ねると満面の笑顔で頷いたので、二人揃っての出張業務と相成った。
店を定時より少し早めに閉め、顧客に渡す資料その他を整える。そうしてスプートニクの準備が終わっても、なかなかクリューが下りて来なかったため、時間潰しにカウンターにしまってある古い日誌など読んでいたのだが。
「準備、出来ました」
ようやく現れたクリューは、仕事用のエプロンを外し、愛用のポシェットを肩にかけていた。いつもとさほど変わらぬ外出の格好だ――その右手に何故か、リボンの装飾のついた猫じゃらしが握られている以外は。よくよく見ると猫じゃらしは本物ではなく、毛糸か何かで出来た模造品のようだ。
猫じゃらしを指示棒よろしく振り上げて、クリューはさながら鬨の声のように言った。
「行きましょう。早く行きましょう。いざ。いざ!」
何が『いざ』なのかはわからないが。
「もうちょっと待て」
急くクリューを一言で留め、業務日誌に元のように鍵をかけしまい込むと、壁の時計を見上げる。相変わらず正確に時を打つ針に、もうそろそろか、とスプートニクが思ったそのとき。
入口扉の磨りガラスに、人の影が映った。どうやら待ち人がようやく来たらしい。
「ご利用ありがとうございます。宅配便でェす」
ドアベルを鮮やかに鳴らし、入ってきたのは一人の少年だった。
背の低い白い箱を大事そうに抱えている。彼はそのままカウンターへやってくると、持った箱を「ご注文の品です」とスプートニクへ差し出した。
「ご苦労。今日はどっちだ?」
「あっ、俺は弟の方です」
「まァどっちでもいいんだけどな。代金、いくらだっけか」
「久々にデリバリー利用してくれたと思ったらその言い草。相変わらずひでェなァ」
「第一印象が悪すぎんだよ、糞餓鬼共が」
財布を出しながら睨みつける。と彼は「ありゃァ『若気の至り』ですよ」と歯切れ悪く言い、苦笑いをした。まだそんな言葉を吐けるほど老い成ってはいなかろうに。
近所の喫茶店では、双子の兄弟がデリバリーサービスを行っている。今来たこの少年は、その片割れだ。昔、彼らのつまらぬ『かっこつけ』に要らぬ心労と迷惑をかけられたことがあるせいで、現在でも、スプートニクの彼らに対する心象は決して良いものではなかった。
しかし、あまり年下に当たりすぎるのも大人気ない。スプートニクは、告げられた金額より少しばかり多めに代金を払ってやる。懐を探りながら「今、お釣りを」と言う彼を手で制した。
「余りは小遣いにしていい。兄貴と分けろ」
こういう子供には、鞭ばかり与えるのでは面白くない。
たまには飴をやるのも必要だ。思ったとおり、単純な彼ははっとスプートニクの顔を見ると、感激に目を輝かせた。
「あ、ありがとうございます!」
「恩に着ろ。くれぐれもエルサにはばれねェようにな」
「勿論です!」
拳を作って大きく強く頷いたあたり、また姉に小遣い絡みの罰を与えられているのだろう。彼は小躍りしながら店内を行くと入口扉を開け、「ご利用ありがとうございました!」と元気良く叫んで帰って行った。
ドアベルの余韻を聞きながら、スプートニクは肩を竦める。
「ありゃ駄目だな。帰ったらエルサに没収だろう」
「あはは……」
無駄に機嫌がいいのがばればれだ。クリューですら困ったように笑っているのだから、あの聡いウェイトレスには一発だろう。
やがてクリューはスプートニクの元へとことこやって来ると、白い箱を興味深そうに猫じゃらしの先でつついた。
「ところで、これ、なんですか?」
「ゼリーの詰め合わせ。エルサに頼んで作ってもらった。お客様への出産祝いが金券だけじゃ、あまりに味気ないだろう?」
「はぁー。成る程、です」
クリューはふんふん、と二度ほど頷いた。この程度は得意先を持つ商人としては当然のことだが、彼女には目新しいことに感じたらしい。
とにもかくにも、準備は出来た。
荷物を持って、ポケットに鍵があることを確認してから椅子を立つ。それからクリューに向け、「出発するぞ」と言いかけて――やめた。
別の言葉で、それを伝える。
「『機は熟した。行くぞ』」
確かそんな台詞が、クリューの気に召したあの小説にあったはずだ。
そう思って言い換えたのだが、スプートニクの記憶は正しかったらしい。彼女はそれに気づくと、またあの奇異な顔をした。そして、
「『夕餉の時間までには、すべて終わらせたいものだな』」
固く目を閉じ、まるで威嚇でもするかのように口を奇妙に歪め、両腕をぴんと突っ張って、ついでに両手も強く握り込んでいる。
…………。
尋ねるべきか迷ったが、迷った挙句、尋ねることにする。
「前から思ってたんだけどな」
「はい」
「お前のその表情、何なんだ」
と、クリューは。
きょとん、と目を丸くした。
「知らないんですか、スプートニクさん」
「何を?」
「スパイは渋いんです」
まるで訳知りのように答え、そしてまた、あの顔を作った。
それを見てスプートニクは、小説の中で主人公が語った一節を思い出す。――『スパイとは、渋い男であるべきだ』
言われてみれば確かにそれは、誤って渋柿に思いきり噛りついたときの表情に似ていた。
(続く)




