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「いやぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
クリューの劈くような悲鳴が、路地の暗がりを引き裂いた。
喉の奥の奥から吐き出した大きなそれに怯んだか、彼女の肩を掴んだ手がびくりと跳ねて離れる。
その一瞬の機を逃さない。クリューは男たちに背を向けると全速力で走り出した。
「あっ、おい!」
待て、と声が飛ぶが聞こえないふりをする。零れそうになる涙を堪える余裕もなく、ただ振り返らず前だけを見て、髪を振り乱して走る。捕まるわけにはいかない、もし、捕まってしまったら。まばたき一度の短い闇に、古い記憶が蘇る。汚い床、汚い言葉、汚い男――あのひとのいない世界。
そんなところにまた、行くのは嫌だった。
しかし方角はもとよりわからず、また、体は枷をはめたようにとにかく重く自身が前に行くのを阻んでくる。足が遅い。息を吸っても肺が苦しい。耳の奥で心臓が跳ね、喉からゼエゼエと音がする。
……思考に足る酸素を得られず、やがて、自分が今、本当に呼吸を出来ているのかすらわからなくなってきた頃――
彼女は、自身の名を呼ぶ声を聞いた。
「クリューちゃん!」
同時に、正面に突如現れた誰かにぶつかった。
その人は胸に飛び込んできたクリューを迷わず抱きしめた。それは逃亡阻止のためというよりも、クリューを保護するための行動のようだ。証拠に、背に回されたその腕はとても優しい。かつて虐げられるだけの日々を暮らした彼女にとって、その違いは歴然としていた。
となれば、この人は。スプートニクの名を呼びかけて、しかし留まったのは、それが彼ではないことが明らかだったからだ。彼はクリューをそうとは呼ばないし、何より今自分が顔をうずめているふかふかした柔らかい胸元は、女性特有の――現在のクリューにはまだないがいつかはこのくらい立派になると信じている――それである。
母性を感じさせる胸元から、顔を上げる。目が合った彼女は、「無事ね」と囁いて、にっこり笑った。落ち着かない呼吸の中で、なんとか彼女の名前を呼ぶ。
「ナツ、さん?」
「お久しぶり。さっきぶり、の方が正しいかしら」
それは、先ほど会ったばかりの警察官。柔らかい微笑に、肩からどっと力が抜けた。
と同時に腕の中から何かが滑り落ちそうになって、慌てて抱き直す。落としかけたそれは、紙袋だった。買ったインクの収められている、大事な紙袋。走る間握り締めすぎたか、袋の端は湿って変色していた。
ナツは左腕をクリューの背に回したまま、「さて」と呟いて、ジャケットの内側に手を入れた。そして取り出したものは二つ折りの手帳。彼女はそれを、クリューを追ってきた男に向けて掲げ。
「動かないで! 警察局リアフィアット支部警察官のナツです……って、あなたたち?」
犯人牽制のためのものであったはずの言葉は、しかし途切れた。代わりに、素っ頓狂な声が続く。そしてそれに返された男たちの言葉もまた、意外そうなものだった。
「あれっ」
「ナツ姉?」
やはり素っ頓狂な声で彼らが口にしたものは、彼女の名前。何故か彼らもまた、ナツの名を知っていた。
「お知り合い……ですか?」
「ええ。この子達は……」
けれどその、ナツの言葉を遮って。
「テメェェェェ等か、うちの従業員に不埒な真似やらかそうとしたふてェガキ共は」
どすの効いた、地の底から響くような声が、この薄暗い路地に響き渡った。
それは少年二人の背後から。気づいた彼らがはっと振り返る――より早く、伸びてきた腕は煙草少年の胸ぐらを、また刺青少年の襟足を掴んでいた。
現れたのは一人の青年。口元は笑ったように歪んでいるが、それが笑みでないことは、引き攣った頬と眉間に深く刻まれた皺、手の甲に震える筋、その他諸々、佇まいの全てが証明している。
いつもと変わらぬ黒に、灰。あの子によく似た彩の、スプートニク宝石店店主にしてクリューの主――スプートニクが、そこにいた。
「何してくれてんだ、オラ。ただで済むと思ってんじゃねェだろな」
「えっ、ちっ、違っ」
怒りを間近に受け、かぶりを必死に振る男――いや。よくよく観察してみれば彼らは、クリューに比べれば確かに年上ではあるものの、スプートニクやナツよりは年嵩低く見えた。十代後半あたりか、まだ少年とも言える程度の面持ち。
そんな少年二人が、スプートニクの手に捉えられ逃げ場なくぶるぶる震えている。それはそうだろう、幾人もの賊を潰してきた元旅商人の眼光に、平和な町育ちの少年が勝てるわけなどないのである。
「俺たちはその、そこの子供が迷子みたいだから、その、け、警察に連れてってやろうとしただけで……」
「刺青だ煙草だァやってるガキの言い分は到底信じらんねェなァ」
「えっ」
片や袖口から覗く刺青、片や咥えた火のない煙草。
お互いのそれらを見合って、やがて掠れた声で先に説明を始めたのは、刺青の方だった。
「あっ、ちが、違うんスよコレ。本物じゃなくてペーパータトゥーでほらっほらっすぐ剥がれる奴でっ……本物の不良はこいつの方スよ煙草なんか吸ってさぁっ、ね!?」
「あっテメずりィぞ――だったら俺の方だって、ほらっこれ煙草じゃなくてチョコレートで! 包みこんなだけどぺろって向くとほら中身チョコで……な、なぁ君、チョコやるよ! ほら! すっげェ甘いやつだぞ美味しいぞ! だからこのお兄さんちょっとなんとかしてくんないかな!」
煙草の少年が、胸から取り出した小箱をクリューに差し出してくる。おずおずと受け取って開けると、中にはまだ数本の煙草、に似た包装紙のチョコレートスティックが数本出てきた。
礼を言うべきか迷っていると、今度はタトゥー――シール――の少年が声を荒らげる。
「はァ!? お前何自分ばっか助かろうとしてんのマジ最低なんですけど! ……な、なァ、き、君チョコなんかよりこういうの好きじゃない? シール! 頬っぺたとかにも貼れる奴でリボンとか可愛いのあるし――あっ今はないけど家に帰れば可愛いうさちゃんと猫ちゃんのもあるよ動物とか好きじゃないかな?」
「テメェも買収してんじゃねェか!」
「うっせェプライドより命のが大事に決まって――」
「――うちの可愛い従業員に、賄賂の持ち掛けか。いい度胸だ」
二人の喧嘩に、スプートニクの冷たい声が響く。怒りの感情の濃い声音に、また瞳に、二人は揃って涙を浮かべた。
「御二方よ、半殺しじゃご不満か、えェ?」
「ひ、ひ、ひぃ……」
「待ちなさい、スプートニク」
そこへ割って入ったのは、ナツだった。「ちょっと待っててね」とクリューを離すと、スプートニクに対峙する。
その瞬間、少年達の目にはっと希望の光が生まれた。「ナツ姉!」「ナツ姉様!」とまるで彼女が女神か何かのように呼び、スプートニクの手から脱出すると、ナツの足にしがみつく。手持ち無沙汰になった彼は、空いた腕を組んで目の前の『救済の女神』を睨みつけた。
「んだよナツ、邪魔すんな。天下の警察局様がなんて言うかは知らねェけどな、俺の法には『俺の私有財産に手をかける奴は一族郎党皆殺し』って明記されてんだから放っておけよ。万人は法の下に平等だ」
「早めに法改正することをお奨めするわ。そうじゃなくて、もっと手っ取り早い懲らしめ方があるって言ってるのよ、こいつらには」
「はァ?」
胡散臭いものを見るように、眉を寄せる。ナツを信じる、信じないの前に、彼女の言いたいことがわからないといった様子。
「どういう意味だ? それともお前もこいつらとグルか。警察に密告すんぞ」
「違うわよ。――あのね、アンタ達」
スプートニクの冗談――だろう、多分――を、しかしナツはたった一言で切って捨てた。そして彼女は足元に視線を向けると、尚自身の足に縋りついて離さない『信者』たちに向けて、ぽつりと。
こう、『御託宣』を重ねたのである。
「エルサに言うわよ」
エルサ。
その名を持つ人のことを、クリューは知っていた。近所の喫茶店のウェイトレスで、弾けるような笑顔が素敵な女性。本日午前中にも会ったばかりで、クリューの慣れない接客にも文句一つ零さず相手してくれた、とても優しい人である。少なくとも、クリューにはそういう印象の人だった。――けれど。
ナツの言葉に彼らは、まるでこの世の終わりを見たような顔をした。ナツの足から急いで離れると、二人揃ってその場に正座をし、額が地面につかんばかりの勢いで深く頭を下げる。そして、悲鳴のようにこう繰り返した。
「姉ちゃんは! 姉ちゃんには言わないでごめんなさい!」
「なんでもしますから! なんでも! だから姉ちゃんだけは!!」
その豹変ぶりには、流石のスプートニクも驚き呆れたようだった。腕組みを解くと、揃って懇願を始めた二人を力なく指さす。
「こいつら、エルサの何なんだ」
「弟。悪ぶりたい年頃なのかわかんないけど、ここ最近、よく喫茶店の手伝いサボってはこうやって不良ぶってるのよ。で、私がパトロール中に見つけてはエルサに引き渡す、と。あの子、弟たちの教育には本当恐ろしいからね、一番いいお灸になるの。あ、ちなみにこの子達、双子よ。顔、似てるでしょ」
言われてみれば。クリューは改めて二人の顔を見る。最初こそ路地の薄暗さ、また自身との身長差もあって気づかなかったけれど、確かに容貌は瓜二つだった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたが、その崩れようもまた、似ている。
「でも、でもナツ姉、俺ら本当に今日は何もしてないんだよ、ただ不良ごっこしてただけなんだよ」
「本当だよナツ姉、信じてよ。その子のことだって、迷子っぽかったから警察に連れてってあげようとしただけなんだよ信じてよ」
「これ以上小遣い減らされたら俺らもうどこも遊び行けないよ」
「ナツ姉助けてよ」
交互に言い、おいおいと泣きじゃくる二人にナツは深くため息をついた。再びスプートニクの方を向くと、これでわかったでしょう、とばかりの表情を作る。
「……ま、そういうわけだから、こいつらのことは私に任せてちょうだい。悪いようにはしておくから」
「それ『悪いようにはしないから』じゃないの普通!?」
「ナツ姉が! ナツ姉が裏切った!!」
「うるさい。――スプートニク、アンタはもっと、他にやることがあるでしょう。ねえ、クリューちゃん」
名を呼ばれ、クリューははっと背筋を正した。同時に、スプートニクの視線がクリューを向く。少し遠く見える灰色の瞳。何故だろう、クリューが店を出てからそれほど時間は経っていないのに、彼の姿を最後に見てから、何万年も経っているような気がした。
じゃ、私は先に。そう言い残すとナツは、尚も喚く双子を連れて別の路地へ消えていった。きっと、双子をエルサへ引き渡しに向かったのだろう。エルサが今どこで何をしているのかは知らないが、市内にいることはほぼ確実だ。
去り行くナツを見送ってから、改めてスプートニクを見上げる。
「ま、何も無かったようで何よりだ」
彼はそう、いつもの調子で言った。久しぶりに見た主の姿へ、自身でも理由のわからぬ衝動がこみ上げてくる。しかしほんの少し離れていただけで泣いてしまうのは気恥ずかしくて、何か誤魔化せるものをと辺りを見回した。
そして見つけたものは、握った紙袋の存在。クリューはスプートニクの胸元に、それを押し付ける。
「あの、あの、こ、こ、これ。買えました。インク、買えました!」
「そうか」
叫ぶように伝えると、クリューの勢いに驚いたのか、スプートニクは紙袋を受け取りながら苦笑いをした。その紛れもない彼の声に、存在に、えもいわれぬ安堵が心に広がる――そのときふと、一つの疑問が頭に湧いた。
――『彼はどうして、ここにいるのだろう』。
そうだ。自分を買い物に出して、彼は。店番をしているのではなかったか。だというのに、どうしてこんな、薄暗い路地なんかに。
考えて、クリューの頭に一つの可能性が浮かぶ。もしかしたら、彼は。
思いついたそれを、彼女はそのまま口にした。
「私を、探し、に……?」
問う声が震えていたのは、嬉しさにではない。彼の期待に応えられなかった悲しみにだ。
スプートニクは彼女が一人でお使いに行って帰ってこれると信じて、彼女を送り出してくれた。なのに実際には、迷子になって、帰れなくなって、探しにまで来てもらって。これでは褒めてもらうどころか、彼にとっては迷惑そのものだ。そんなのでは、クリューの理想には――『彼の隣に立つ女性』には、程遠い。
恐る恐るの、クリューの問いかけ。それに何故か彼は、目を見開いて気圧されたように身を引いた。何か言いかけた言葉を飲み込んだようでもあった。
やがて顔を背けたスプートニクが、吐き捨てるようにぽつりと一言、呟くように告げた答えは。
「違う」
予期しなかった回答に、思わず、えっ、と声が漏れた。
クリューは、彼がわざわざ迎えに来てくれたのだとばかり思っていて、だからてっきり「まったく手間をかけさせやがって」とか「お前みたいなガキに買い物させようとしたのが間違いだった」とか、いつものように嫌味に笑いながら言うのだろうと思っていた。
けれど彼はそんなことはしなかった。背けた首を元に戻し、彼女の頭に置いた手を引っ込めて、再びクリューを見る。灰の目に驚きの色は既になく、いつものように緩んでいた。
そしてやはりいつものように人を小馬鹿にした表情で、続ける。
「勘違いするなよ、誰がテメェの帰宅時間なんか心配するか。買い忘れたものがあって出てきたら、たまたま近くから悲鳴が聞こえたから来てみただけだ。――いいか、もう一度言うぞ。だ、れ、が、テメェを探すためだけに大事な店をほっぽり出して出てくるかっての」
言われて、クリューは。
脳裏に浮かんだたった一つの言葉とともに、逆上せたようであった頭の中がさっと冴えていくのを感じた。同時に、こみ上げてきていた涙も引っ込む。
思い浮かんだ言葉とは他でもない――『それも、そうだ』。
この、自分のことしか考えていない俺様が、泣いて怯える自分を放り出して買い物に行かせたこの人が、心配して探しに来るだなんてことがあるだろうか? 答えは、否だ。彼のことである、クリューの帰りが多少遅くなったところで、また帰りの遅さを不思議に感じたところで、きっとこの人はそんな懸念など、欠伸ひとつで忘れてしまうだろう。
現金なものだ、とクリューは思った。スプートニクにではない、自分の心にだ。心配をかけたくないと思っていたのに、実際心配していなかったらいなかったで、こうも腹立たしく思ってしまう。どれだけこっちが、寂しかったと思っているのだろう。心細くて、寂しくて、怖くて怖くて――
けれど。
彼の言葉はそこで終わらなかった。再び彼女の頭に手を置き、笑いかけると「それに」と続けた。
そしてクリューの、誰より愛しい雇い主は。
家を出てから彼女がずっと欲しかった言葉を、確かに彼女にくれたのだ。
「最初から言ってただろう、俺はお前が一人で買い物出来るって信じてるって。お前の力量を疑って、迎えになんか、来るわけねェだろうが。――インク、ちゃんと買えたな。よく頑張った」
彼は彼女の頑張りを、確かに認めてくれた。
置かれた手が、荒々しく彼女の髪を掻き回す。その雑な手つきもまた愛しくて堪らない。腹のそこ、溢れんばかりに満ち満ちた感情が、下手をしたら涙に代わってしまいそうで、クリューはスプートニクの胸元に飛び込もう――として。
喉の奥からこみ上げてくる異物感。いつものことだ、何が起きるかすぐにわかった。
頭をやや低くして、両手を口元に当てる。
「クー? ……あァ」
怪訝そうに名を呼ぶが、彼もまた知ったことだ。すぐに合点がいったと頷いて、背をゆっくりと撫でてくれる。
そうしてクリューは、二、三度の空咳を繰り返し。
やがて彼女の手の中に、ひとつの石が生まれ出る。現れたのは、綺麗な桃色の宝石だった。透明度の高いそれは、薄暗く光の少ないこの路地でもよく輝いている。
スプートニクはそれを見て、感心したように頷いた。
「ピンクトルマリンかな。大粒で、皹も無く、よく澄んでる。なかなかの質だ」
なかなかの質。――それが良いものであることは、素人目にもよくわかった。
落ち着きなく弾けるような明るさを持つ、桃色の石。
それはまるで、クリューの心にいっぱいに膨れた想いが、そのまま形を成したようであり。なんとも気恥ずかしく、けれどそれ以上に誇らしくて、彼女の頬に、つい笑みが零れた。
(続く)




