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雑貨屋を飛び出した勢いそのままに、早足でペットショップまでの道を行く。商店六軒分の道のりは、大人の足にはそれほど遠いものではなかった。
「……いた」
ペットショップの扉にはめ込まれたガラスから中を覗いて、スプートニクはため息混じりに呟いた。
ガラスの向こうに見えたのは、そこにはいろいろな種類の動物とペットショップの店員、一人の少年、客らしき女性と、それからアンナに聞いたとおり、愛すべき従業員クリューの姿。
表情こそ多少強張ってはいるが、意思疎通が可能な程度には自己主張出来ているようだ。客の女性が何事か言うのをこくこく頷いて聞いている。人見知りの改善に繋がりそうで、これもこれで良い傾向のようにも思えたが、今日の目標は一人きりでの買い物の遂行である。頓挫したものをいつまでも放っておくわけにはいくまいと、スプートニクは扉に手を掛け従業員の回収に向かう、が。
「おい、クー……ぐぇっ!?」
「ちょっと待ちなさい!」
しかしそれは遮られた。扉を引く直前に彼を襲った背後からの衝撃。蛙の潰れたような声は、ペットショップから爬虫類が逃げ出してきたわけではなく、スプートニクの喉から漏れたものである。彼の後を追いかけてきたナツが、何を狂ったかペットショップに入りかけたスプートニクの襟首を力いっぱい引っ張ったのだ。
まったく油断していた彼の気管を瞬時に詰めて、息が出来なくなる。
そのまま彼をペットショップ脇の路地に引き込んでから、ナツはようやく手を離した。腰を折り、自由になった喉を押さえて数度咳き込む。それから彼女を睨みつけ、掠れた声で叫んだ。
「何すんだ殺す気か!」
「何すんだはこっちの台詞よ! アンタ、今自分が何しようとしてたかわかってる!?」
「何って――」
ペットショップへ、うちの従業員を引き取りに。
だがナツは、彼の考えていることなど既に予測がついていたのだろう。全て言う間も与えずに、「いいこと」と声を潜めた。
そしてこう、続けたのである。
「そうしたら、クリューちゃんのお使いは失敗したことになるのよ?」
――それに対して。
だからどうした、と言えるほどスプートニクは愚かでもなかったし馬鹿でもなかった。彼女の言わんとすることを理解して、自身の犯しかけた間違いを自覚する。
「クリューちゃんは出来た子よ。アンタみたいないい加減なぼんくらに雇わせておくには勿体無いくらい、責任感があって優しくていい子だわ――だけど、だからこそ。お使いが失敗したら、それでアンタがわざわざ迎えになんて来たら、あの子、きっと落ち込むわよ」
その様子もまた、手に取るように想像出来た。自身の不甲斐なさに肩を落としながらも、心配だけはかけまいとなんとか笑って見せる彼女の姿。
「成長のためには確かに失敗も大事なものよ。でも今回のお使いに関しては、まだ失敗したとは言えないんじゃない。クリューちゃんが一人じゃどうしようもなくなって『助けて』って言うまで、『出来ませんでした』って諦めて帰ってくるまで、もう少し見守ってあげたらどう?」
「…………」
沈黙を選んだのは、吐けそうな言葉が「ナツの癖にわかったようなことを」しかなかったからだ。それを言うことは、取りも直さず自身の負けを認めることになる。が、この女に降参の意を掲げるのは自身の矜持が許さなかった。だから何を言えるわけもなくただ睨みつけている――と。
ドアベルの、音が聞こえた。
スプートニクの店より幾分か高い音のそれと同時に、ペットショップの扉が開く。スプートニクとナツは、路地からほんの少し顔を出してそちらを伺った。店から出てきたのは、ペットショップ店員の青年と、客の女性、それに続いて女の子――クリュー。女性はペット用キャリーケースを手に下げており、そしてなぜかクリューも袋を一つ、持っている。余分な金は持って行かなかったはずだが、何だろう。
「この度はお買い上げ、ありがとうございました」
青年は二人を店の外に誘うと、そう言って深く頭を下げた。笑顔の柔らかい、赤毛の青年。その面持ちはよく言えば優しそう、悪く言えば気弱そうに見える。
彼がこの店の店員であることを、スプートニクは覚えていた。彼とは、以前買い物帰りに少しだけ話したことがあった。名前は忘れたが、妹と二人でペットショップを経営していて、兄の彼はペットトリマーを、妹は獣医を兼ねているそうだ。各々のその業務だけで店の採算は取れており、ショップ業務は半ば、動物好きな二人の道楽に近いことなのだとか。
「えっと、リリィちゃんでしたっけ? 可愛がってあげてくださいね。もし飼育の上でわからないことがあったら、お気軽にどうぞ」
話の流れからするに、リリィと言うのは女性ではなく猫の名前だろう。ペットとして迎えるそれの名を呼ばれ、女性はにっこり微笑んだ。
「ありがとうございます。早く家族として認めてもらえればいいんですけど」
「懐っこい子ですから、きっと大丈夫ですよ」
「うふふ、頑張ります。――それじゃ行こっか、クリューちゃん」
女性に話を振られたクリューは、背筋を伸ばして大きく頷いた。
「はいっ。あの、あの、犬屋さん、ありがとうございました」
「こちらこそ、お手伝いありがとう。行ってらっしゃい、頑張ってね」
クリューの礼に、彼もまた礼で返す。するとクリューは嬉しそうに笑った。
――これは、また。思っていた以上に他人に心を開いている引っ込み思案に、スプートニクは些か驚いた。多少緊張した様子は見て取れるものの、彼が案じていたほどではない。ペット療法のおかげだろうか。
やがて彼女らは挨拶を終え、背を向けると、スプートニクたちがいる路地とは逆側、雑貨屋とは反対方向へ歩き始めた。彼女らは、一体どこへ行く気なのだろう?
と、スプートニクが首を傾げるその脇で。
ナツは無言のまま、路地からそっと腕を伸ばした。その手は去り行く二人の背を見送っていた青年へと音もなく迫る。そして、
「ぎゅえっ」
彼女は青年の襟を掴むと、一気に引っ張った。その勢いのままに路地に連れ込む光景は、傍から見ると誘拐か拉致の現場のようだ。
地面に膝を付き、先ほどのスプートニクと同じようにゼエゼエ咳き込むペットショップ店員を横目に、スプートニクは尋ねる。
「お前、その襟掴むの、何なの?」
「首って人体の構造上、一番簡単に制圧できるじゃない」
悪びれもせず返された答えについ呆れるが、現在話し合うべきことは他にある。引き続き苦しそうにしている青年を、スプートニクはつま先で軽く小突いた。
「オラ、起きろ」
「な、な、なんですか、勘弁してください。お、お金、お金なら持ってません」
頭を守るように抱え、目を硬く閉じて気弱に震える彼。しかし何故だろう、どうもそういうものを見ると、反射的に、胸倉を掴み上げどすの利いた声で話しかけてしまう。
「あァ? 何言ってんだ持ち合わせが無ェなら取って来いよ、ったりめェだろ。いいか今から――」
「アンタが何言ってんのよ」
ナツに頭を叩かれて、はっと正気に戻る。
手を離された青年は、聞き覚えのある声を聞いたせいか、不思議そうにしながらも恐る恐る顔を上げた。やがてそこにいる知った顔を見て、驚いたように目を丸くする。
「あれ、ナツ? スプートニクさんも。二人して、どうしたの」
確かナツもこの青年も、同じこの市の産まれだった。その物言いにはどこか、余所者を相手にするのとは違う緩い雰囲気がある。だがそこで遠慮などしてやるようなスプートニクではない。彼を見下ろし、いつも通りの調子で挨拶をした。
「どうも。うちの従業員を遊ばせて頂いたようで恐縮だ」
「いや、とんでもない。とても良い子で、お手伝いして頂いてとても助かったよ。……ところで今、僕、スプートニクさんに恫喝されていたような気がするんだけど」
「まさか。この俺がそんなことするわけねェだろ。強請り集りなんて」
空とぼけるスプートニクを、ナツはしばし物言いたげに見ていたが、今重要なのはそこではないと気づいたようで、改めて青年に向き直った。
「犬屋。あの女の人、どなた? クリューちゃんとどこに行こうとしているの?」
彼女の言う『犬屋』とは、この男の渾名だ。ペットショップを営んでいること、「どこか犬っぽい」という点から呼ばれるようになったらしいが、彼の雰囲気は犬と言っても『番犬』ではなく、愛情多く飼われ人馴れしたそれに近いものがあった。
そしてナツの問いに犬屋は、『犬』らしいほわほわした笑顔を浮かべて答える。
「ん? あ、うちの顧客で、以前売約した子猫の引き取りに来たんだよ。とても優しい人だったからね、きっと大事にしてくれるだろう」
「で、クーはその人について、今度はどこに遊びに行こうとしてるんだ」
「遊びに行くなんて可哀想な言い方だね。クリューちゃんは、君に頼まれたお使いを遂行しに、資材屋へ向かったよ」
どうやらクリューは当初の目的を忘れてはいなかったらしい。そのことには安心を覚えるが、しかし。
犬屋の台詞には、聞き捨てならない一言があった。それをそのまま、繰り返す。
「資材屋ァ?」
「うん。それであのお客さんが、資材屋の近くに住んでるから送ってくれるって」
「問題はそこじゃねェ。なんで資材屋なんだよ」
「えっ? だってインクって資材屋にあるでしょ? クリューちゃん、インクどこのお店に売ってるか忘れちゃったって言うから、資材屋にあるよって教えてあげたんだけど」
「雑貨屋にもあるじゃない」
スプートニクが尋ねると、笑顔のまま、当然のこととばかりに犬屋は答えた。しかし、追って指摘したナツの言葉に、彼の笑顔は凍りつく。
――そのまましばし沈黙し、
「あっ」
やがて犬屋が、ようやく気付いた、とばかりの声を上げたとき。
「へぶぅ」
ナツの無言のビンタが犬屋の右頬を張った。
襟をつかんで前後に大きく振る。
「アンタはどうして昔からそうも抜けてんのよっ多少は進歩しなさいよこの馬鹿犬っ!」
「ご、ごめ、ごめ、ごめ」
「落ち着け、ナツ。犬屋の顔色がいろいろまずい」
酸欠かみるみる赤くなっていく犬屋を見兼ねて、スプートニクが制止する。首から手を離されると、彼は四つん這いで地面に沈み、何度も荒い息をした。
しかし昔馴染み故の慣れか、ナツは特に心配する様子など見せない。頬に手を当て嘆息するが、それは犬屋の体調を案じてのものではなかった。
「資材屋……初めてのお使いにはちょっと遠いわよね。心配だわ」
「ま、いずれは市内のどこにでも、一人で行けるようになってもらわなきゃならなかったんだ。それが少し早まったと思えばいいだろう」
クリューたちの去って行った方を見る。既に二人の姿はないが、資材屋の場所は知っている。追いつくのは難しいことではない。スプートニクは犬屋の回復を待たず、通りへ足を踏み出した。
目指す先は、資材屋だ。
(続く)




