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「ええ、まだ来てないわ」
雑貨屋にて。
訪れたスプートニクが開口一番告げた問いかけに、雑貨屋店主夫人は驚きに目を丸くしながらそう答えた。もう三十分前に家を出た旨、まだ戻らない旨を伝えると、彼女の表情はやはり心配そうに曇る。
「どこかで見かけたりも、していませんか」
「ええ」
重ねて投げかけられたナツの問いかけにも、同様に深く頷く。
「スプートニクさん、午後になったらクリューちゃんを買い物に出すから、って言ってたでしょう? だから、午後のいつ頃なのかしらって思いながら、ずっと店内で待ってたんだけど」
この分では、見落としということはなさそうだ。もとより雑貨屋の内部はそれほど広いとは言えず、レジもひとつしかないこじんまりした商店である。来ていればすぐにわかりそうなものだった。
スプートニクは吐くべき言葉を見つけられず、ただ黙って商品棚からインクを一つ取り上げる。クリューに買わせるはずだったそれは、特別何の違和感もなく彼の手の中で転がった。
良くないな。誰にも聞こえないほどの小声で、スプートニクは呟いた。面白くない想像ばかりが掻き立てられる。やはりあれを一人で外出させるべきではなかったのか――ひどく特異な体質を持つあの子供を。
リアフィアット市は平和な土地だ。この広い大陸、場所によっては賄賂の多寡だけで犯人を決める警察局支部も存在するが、リアフィアット支部はそうではない。検挙率も高く、治安維持においては非常に優秀だ。正義の権化とも言えるような性格をしたこの女が胸を張って所属していることも、その裏づけとなる。
けれどそれでも、暗い路地に、細い裏道に、良からぬことを考える輩はいる。たとえばそういう不届き者に、あれの特異体質を知られたら? ――目を閉じかぶりを振ることで、つまらない妄想を打ち消した。そんなことにならないように行動するのが自身の役目であり、また万が一そんなことになってしまったのなら、保護者として責任を持って犯人を殲滅する必要がある。無駄なことを考えて精神力を削ぐのはやめるべきだ。
――しばし、重い沈黙が落ち。
やがて、眉間に刻んだ皺をますます深くしたナツが、ひどく悩ましげに、
「どこ行っちゃったのかしらね……」
と呟いたのと、
「ただいま!」
子供の明るい声が店内に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
それが自身の聞き慣れたものと異なることは気づいていたが、反射的にそちらを振り向いてしまう。とそこには、片手にアイスクリームを握った少女が立っていた。年の頃はクリューに近いが、好奇心にらんらんと輝く物怖じしない瞳や鮮やかな色の髪、誰に対しても懐っこい笑顔は、それほど似ているとは言えない。
彼女は二人の来店に気付くと、ミント色の唇で彼らの名を呼んだ。
「あ、いらっしゃいナツさん、スプートニクさん。珍しい取り合わせでお買い物だね?」
彼女がスプートニクを知っている程度には、スプートニクは彼女を知っていた。雑貨屋店主の娘で、名前は確か、アンナとか言ったはずだ。スプートニクがクリューの初の買い物先に雑貨屋を選んだのは、家からそれほど離れていないという理由の他、店を訪れるタイミングさえ合えば、歳の近い彼女と友達になれるのではという思惑もあった――今となっては無駄な期待となったが。
この女と二人一組で扱われるとは心外だ。思いながらナツを見ると、彼女は形の良い眉を寄せ、紅を塗った唇を限界まで引いて嫌悪の表情を作っていた。恐らくは自分も、同じような顔をしていただろう。
が、子供に腹を立てるのも大人気ない。スプートニクはなんでもない様子で肩を竦めてみせた。
「別にコンビ組んでるわけじゃねェよ。ちょっと面倒が起きたんだ」
「ふーん? 面倒って何なに? どんなこと?」
彼女の知らないところで起きたこの事件に、どうやらアンナは興味を持ったらしい。アイスを舐めながら、好奇の色を表情にありありと浮かべて尋ねてくる――しかし。
「おかえり、アンナ」
それを遮ったのは店主夫人、アンナの母親だった。
放つは客を迎えるものとは似ても似つかない、低い声、一語一語を噛み締めるような物言い。極めつきとばかりに、腰に手を当て、娘に向けて怒りの表情を作る。
「ずいぶん遅かったわね。お手伝いしてくれるって約束した時間、とっくに過ぎてるわよ」
「そこでアイスクリーム屋に会っちゃってー。すぐ準備するねっ」
母親の説教に罰が悪くなったか、えへへ、と誤魔化し笑いを浮かべる。そして、言うが早いか大口を開けてアイスに噛り付いた。
アンナはアイスと格闘しながら、スプートニクとナツの間を早足で通り過ぎ、レジカウンターの内側に入るとそこにある戸――恐らくは従業員の居住スペースに繋がっているそれだ――に手をかける。そしてノブを捻る、と同時に何を思い出したか、彼女は「あっそうだ」と素っ頓狂な声を上げた。
振り返り、スプートニクと目が合うと、溶けたアイスとコーンの欠片だらけの頬で笑う。そして、
「スプートニクさん、今度スプートニクさん家遊びにいくね!」
「……うちに?」
いまいち理由の判然としないことを言われ、スプートニクは怪訝に眉を潜める。けれど彼女は明るい笑顔を崩さぬまま、首を縦に振った。
それからアンナが、やはり元気よく、スプートニクに伝えることは。
「うん! さっき、クリューちゃんと約束したの!」
――――。
意味を理解するのが、一瞬、遅れた。
聞き間違いかと、確認の意味を込めて、ナツと店主夫人を見る。けれど彼女らも呆気に取られた表情をしているあたり、どうも空耳ではなかったらしい。
一瞬にして重みの増した頭を気力で何とか持ち上げて、尋ねる。
「……誰と約束したって?」
「えっ?」
しかしアンナは質問の意味が理解出来ていないのか、きょとん、と目を丸くした。
頭の回転が追いつかず言葉に詰まるスプートニクの代わりに、今度は店主夫人が娘へ問いかける。
「アンナ、あんた今日はどこで遊んでたの?」
「ペットショップだよ。わんちゃんとかの世話して遊んで来たの、楽しかった」
「あの馬鹿……」
いともあっさり判明した衝撃の真実。スプートニクは呟いて、こめかみに指先を当てた。
クリューは確かにスプートニクの教えた通り、三限隣に買い物へ行った。しかし――雑貨屋のある左ではなく、宝石店から右手側に行ったのだ。
家から右に三軒隣。そこにはアンナの言う通り、ペットショップがある。
確か営んでいるのは一組の兄妹で、いずれもそれなりに気のいい人間だった。間違えてやって来たクリューを邪険に追い返すような真似はしなかろうが、クリューとしてみれば、インクを買えと言われて指定の場所に向かってみたら、そこにあったのはペットショップだったわけである。あの臆病者のことだ、さぞ困ったことだろうと思ったが、
「で、クーはペットショップで何してる」
「子猫に餌あげてたよ」
コーンの最後のひとかけらを口に放り込み、咀嚼しながら彼女は言った。
人嫌いで引っ込み思案と思っていた我が従業員は、逆境の中にも楽しみを見出せる程度には図太かったようだ。そうか、と答えながら、自然とため息が漏れる。呆れと安堵から来たそれであったが、何を勘違いしたか、ナツはそれを見て眉を寄せた。
「怒らないであげなさいよ。クリューちゃん、一人で出かけるの初めてなんでしょ」
「言われんでもわァってる」
口煩い母親のようだ、とスプートニクは思った。もとより子供の他愛ない失敗にいちいち怒るほど狭量ではないつもりだったし、そもそもそんな程度でいちいち苛立つような性格だったら、あれとの雇用関係が今日まで続くことはなかったろう。
「取り敢えず、回収に行くか。――すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いいのよ、子供は失敗するのが仕事なんだから。クリューちゃんによろしくね」
カウンターの中からにっこり笑って、こともなげに手を振る。その余裕はやはり、アンナとその弟、二児の母であることから来るものなのだろうか。
さて、と。スプートニクは自身の頭を仕切り直すよう、軽く髪を掻いた。クリューの安全は知れたが、彼女はまだついてくるつもりなのだろうか――考えながらナツを見やると、彼女はなぜか、スプートニクの顔をしげしげと眺めていた。何か、奇妙なものを見たような、驚きの表情。原因がわからず眉をひそめると、彼女は「アンタでも『迷惑かけた』なんて言葉吐くことあるのねえ」と意外そうに呟いた、が、この女はなんて馬鹿なことを言っているのだろうとスプートニクは思う。
人間関係を円滑に進めるための術は、商人として当然に身につけているべき技術だ。スプートニクも例に漏れず、多くの商売敵や顧客に触れ、時にはしてやったりと笑い、また時には腸の煮えくり返るような思いをして、学び、技術を得てきた。その程度のことが出来ないわけがないのである。
けれどそんなことを、わざわざこの女に説明してやるのもまた癪で。
だからスプートニクはにっこり笑うと、自身の頭を指さして、彼女に一言、答えてやった。
「テメェよりはココ使って生きてンだよ、バカナツ」
――ナツの怒声を背に受けながら、スプートニクは急いで雑貨店を飛び出した。
(続く)




