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時は少し巻き戻り、スプートニク宝石店。
遅い。
客のいない店内にて、スプートニクはカウンターの椅子で一人、貧乏揺すりを繰り返していた。
苛立っている理由はひとつ。買い物に行かせた従業員が、一向に帰ってこないせいだ。
またその原因もわからない。どこかで迷っているのだろうかとも思うが、向かわせた先は三軒隣の雑貨屋で、迷うほど遠くに行かせた覚えはない。スプートニクは、自身が保護者としてそれほど優れていないことは自覚していたが、初めての買い物の難易度をそれほど高く設定するほど、鬼ではないつもりだった。しかし現実として、クリューはまだ帰ってきていないのである。
壁の時計を見上げると、彼女が店を出てから長針はもう、半周近く動いていた。こうも長らく帰ってこないのはやはり異常だ、探しに行くべきだろうかと席を立ちかける。
――ドアベルが鳴らされたのは、丁度その折だった。
ようやく帰ってきたかと、安堵と共に、扉に向けて声をかける。
「遅かったな。何か、問題でも――」
「こんにちは」
しかしそれに返されたのは、従業員の帰宅を告げるものではなく。
入ってきたのは、午前中に店を訪れネックレスを引き取っていった彼女、エルサだった。にこにこと嬉しそうに微笑みながら、スプートニクの方に歩いてくる。
スプートニクは内心ため息をついて、けれど表情には出さないよう留意しながら、もう一度椅子に座り直した。
「いらっしゃい。忘れ物か」
「ううん。これ持ってきたの」
かぶりを振り、エルサがカウンターに差し出したのは、白い紙の手提げ箱。
「修理代おまけして頂いたお礼。今度お店で新作として出すタルトの試作品なんだけど、良かったらクリューちゃんと召し上がって」
彼女の仕事は、近所の喫茶店のウェイトレスだ。喫茶店には、ときどき昼飯を購入しに行ったり、また場合によっては顧客との話し合い、打ち合わせの場としても利用させてもらったりしている。だから彼女にとっては、スプートニクも店の常連客のうちに入るのだろう。喫茶店のメニューの質は甘味も含め、いずれも安定した水準を保っているから、自分やクリューの作る下手なアレンジ料理よりはよほど安心して食えた。重要顧客を連れていったところで、恥を掻くことは決してない。
故にこのタルトの差し入れも、有り難いことこの上なかった、が。
「いいのか、貰って。まけたのはクーの相手してもらうためなのに」
「うん。っていうか、クリューちゃんの対応しっかり出来てたから、お値段下げて頂く必要なかったわよ。だから、そのお返し。ただ、このタルト試作品だから、正規品に比べてひと回り小さいの。もし気に入ったら召し上がりに来てね、数日後にはお店に出すから」
つまるところ、礼と言うよりも、それによる集客が目的なのだろう。スプートニク宝石店で言うならば、上客への粗品と言ったところか。
「まったく、営業の巧い喫茶店だ」
思わず苦笑する。エルサはスプートニクにタルトを渡すと、きょろきょろあたりを見回した。「ところで」と不思議そうに言う。
「クリューちゃんはどちら? 休憩中?」
「いや、買い物に行かせたんだけど。……なかなか帰ってこなくて困ってるんだ」
壁の時計を見上げる。彼の焦心などどこ吹く風で、秒針はコチコチと、いつもと変わらぬ速度で動いていた。
「あら。どちらまで?」
「そこの雑貨屋。近いから、まさか道に迷ってるなんてことはないと思うんだけどな。初めて一人で買い物に行かせたから、少し気になってる」
「クリューちゃんが出てから、どのくらい経ってるの?」
「二十分か……三十分か、そこら。頼んだのはインク一つだけ」
「あら、ま」
普通に行けば五分とかからず着く距離だ。それは気になるわね、とエルサも眉を寄せた。同意を貰って、スプートニクの腹はますます落ち着かなくなる。
「まったく、どうしたって言うんだ」
と。
――カランカラン。
彼の言葉に重なるようにして、ドアベルが鳴った。クリューかと、スプートニクは勢いよく顔を上げる。同時にエルサも扉を向く、が。
入ってきたそれを見て、彼は瞬時に眉をしかめた。
続いて、彼にとっては極力聞きたくない声が挨拶をする。
「こんにちは」
「帰ェれババァー」
入ってきたのは警察局リアフィアット支部の警察官、ナツだった。
パトロールと称しよくこのあたりの店を回っているが、どうもスプートニクのことは目の敵にしているのか要注意人物と思っているのか、まったくと言っていいほど好意的ではない。そうして売られた喧嘩を買わない道理はなく、スプートニクもまた、彼女に好かれようという努力はしていなかった。
だからこそ今回も、先手必勝とばかりに、比較的高めの声で茶化すように言ってやる。と、彼女は面白いように表情を引きつらせた。
「あんたに会いに来たんじゃないわよ。思い上がりも甚だしいわね馬鹿」
「何言ってんだ馬鹿、ここの店主は俺だぞ。ついに痴呆かババァ」
「私はクリューちゃんに会いに来たの。第一、ババァってやめてくれない。歳ならアンタとそう変わらないでしょうが。私がババァならアンタはオッサンね。嫌だわオッサンの加齢臭」
「男は歳を取れば取るだけ味が出て来るんだよ。化粧で誤魔化すしかないババァと違ってな」
「そう言っていられるうちが花ね。だんだん枕に落ちる毛の量が増えて内心焦ってきたんじゃないの」
「ババァじゃあるめェしあるわけねェだろ。いいかババァ、昨今の化粧の乗りが悪いのは寝不足じゃなくて、歳とともに肌の張りが失われてきたせいだぞ大人しく諦めろ」
「子供みたいな言い合いはやめなさい、二人とも」
エルサが、ため息をつきながらそう制す。次いで彼女はナツを見ると、小首を傾げた。
「雑貨屋に買い物に行ったクリューちゃんが、なかなか帰ってこないんだって。ナツ、パトロールしてるんでしょ。どこかで見なかった?」
「雑貨屋?」
とナツは、ふと表情を曇らせた。顎に手を当て俯いて、
「おかしいわね、私さっき雑貨屋も立ち寄ったけど、クリューちゃんいなかったわよ」
「え?」
エルサが素っ頓狂な声を上げる。
スプートニクは、本当か、と聞きかけて言葉を飲み込んだ。この女はスプートニクにとって決して好ましい人間ではないが、そんな縁起でもない嘘をつくような性格ではないことも知っている。
自身がどうすべきか、考えるに時間はかからなかった。スプートニクは椅子を蹴って立ち上がると、
「おいナツ、お前ちょっと店見てろ。雑貨屋行ってくる」
「えっ? ちょ、ちょっと! ……エルサちょっと、お店お願い!」
「えー!? 何で私!」
「悪ィなエルサ、誰か来たら適当に接客しといてくれ」
「接客まで!?」
ナツもエルサも、店主不在の間に人の店の金に手をつけるような育ちをしていないことを、スプートニクは知っていた。
だからこそ、エルサの抗議は全力で無視。スプートニクはカウンターを出ると、一度も彼女を振り返ることなく、入口扉に手をかけた。
(続く)




