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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅲ はじめてのおつかい
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3-1(5/21追加)




 カランカランカラン……バタン。

 クリューには扉の閉じるその音が、断頭台の刃が落ちたときのそれに似て聞こえた。

 掛けられた『開店』の札はまるで皮肉のようだ。鍵は開いているのに、開けられるのに、それは今のクリューが開けることを良しとしない。開けて戻ったところで店主は、まだお前には難しかったな、と優しくしてはくれないだろう。そのまま回れ右させられてもう一度外に放り出されるのが関の山である。あれは、そういう人だ。

 諦めて、頑と拒絶する扉から視線を逸らす。そして、人の行き交う通りを見た。人通りはそれほど多くないが、彼女にはそれが毒の沼のように踏み出し難い道に思えてならない。

 涙腺が緩み掛けるのをぐっと力を入れて、堪えた。大丈夫、目的はここからたった三軒隣。それほど遠い場所ではない。万が一行き着く前に何者かに襲われても、大声を出せばきっとスプートニクに届くはずだ。クリューはそう自分を納得させ、ひとつ頷くと、右手側に歩き出した。

「いち……」

 一軒隣。誰とも目が合わないように、視線を低くし歩を進める。

「に……」

 二軒隣。時折近くを誰かの影が通るたび心臓が跳ねるが、どの影も彼女に害をなすことなく、すぐ遠ざかっていく。けれどそれでも彼女には、次の数を口にするまでの間、永遠にも近い時を歩いていたかのように感じられた。

 そして。

 ようやく吐けたその言葉は、まるで何かの解放宣言のような響きを帯びていた。

「……さんっ」

 三軒隣に辿り着き、肩からどっと力が抜ける――しかし。

 これで終わりでないことを、彼女は忘れていなかった。これから知らない人に話しかけ、インクを購入しにきたことを伝えたのちに間違いなく代金を支払って、そしてまた、この長い長い道のりを歩いて帰らなければならないのだ――自分一人で。

 果てしなくも思われる試練の道。だがそうしなくては、きっと彼は迎えてくれない。また、なせなければ彼は、それすら出来ない自分に呆れるかもしれない。ただでさえお子様で釣り合わない自分である、これ以上距離が出来るのは嫌だった。そう、彼の隣に佇む人が、買い物一つ出来ないなんてことがあるものか!

 彼の隣に佇むに、相応しい女性になるために。そう決意をし、大きく一つ頷くと、クリューは勢いよく顔を上げた――が。

「……あれ?」

 そこにあるのはどう見ても、インクなど取り扱っていないだろう店だった。

 ショーウィンドウに並んでいるのは幾つかのケース。各ケースには値札が貼られ、そしてその中には、タオルやぬいぐるみ、そして各一匹ずつ動く毛玉が入っている――ペットショップである。

 そうだ、とクリューは思い出す。ここはよく買い物帰り、クリューが足を止める店だ。中段右端の黒灰縞々の元気な子猫は、彼女の一番のお気に入りだった。右端のケースを覗くとやはり、見覚えのある猫がひくひくと鼻を動かしている。ここにインクが売っているというのだろうか?

「……インク、下さい」

 取り敢えず、言ってみる。

 すると子猫は小さな口を大きく開けて、鋭い歯を見せ得意げに返事をした。

「ニャア」

 しかし勿論にというべきか猫は、所望のものを出してなどくれなかった。端に転がっていたタオルを咥えて引っ張ってくると、寝転がり、後ろ足で蹴り始める。その様子はいたく可愛らしいが、クリューが求めているのは使い古されたタオルなどではない。

「あの……」

 ガラスに手をつき、もう一度話しかける。

 しかし闘争本能に火がついたらしい子猫は、親の仇かのようにただその布切れを蹴り続けるだけで、もう観客クリューからは一切の興味を失ってしまったようだった。

「インク……」

 決意とともに奮い立てた勇気は、すっかり萎んでしまった。

 ひどい孤独を感じて、視界がじわりと霞み、曇る。駄目だと思うが、思考とは裏腹にこみ上げるものは止まらない。耐えきれず、彼の名を大声で泣き叫びそうになった、そのとき。

 ――リン、リン。

 ドアベルの音がした。スプートニク宝石店のものより些か高く、賑やかなそれ。

 音につられてそちらを向くと、そこには一人の青年が立っていた。癖のある赤毛をした、背の高い男の人。どうもドアベルの音はペットショップの扉が発信源らしく、また青年はその扉から出てきたようだったが、クリューにはその辺りの情報はどうでもよかった。

 知らない男の人。――スプートニクではない人。

 クリューにはそれだけで、充分だった。

「あ、あ……」

 涙は引っ込んだ。しかしその代わりに、頭痛すら引き起こす強烈な危険信号が頭の中で瞬き、逃げろと喧しく騒ぎ立てる。それが誰かはわからないが、とにかく逃げなければ。少なくとも、この男の追いつけないところまで。でないと、『また』。

 恐怖に我慢ならなくなったクリューが踵を返し走り出しかけた――しかしそれより一拍だけ、早く。

 青年の方が行動に出た。

「……え?」

 しかしそれはクリューにとって、まったく予想していなかった行動だった。

 彼はクリューに近づくでもなく、手を伸ばすでもなく、怒鳴りつけるわけでもなく――クリューを捕らえるわけでもなく、何故か。

 ひょい、とその場に座り込んだ。

 膝を折り、道に腰を下ろしたわけである。と言っても正確には尻は地面から浮かせているようだが、いずれにせよ予想外の行動に、クリューは逃げることも忘れて立ち尽くす。

 その間に彼は、姿勢を限界まで低くしたそのままで、小さな歩幅でちょこちょこと時間を掛けて彼女の目の前までやってきて、それからようやく手を伸ばした。

 そして、クリューのカーディガンの裾を、人さし指と親指でちょん、と摘まみ。

「捕まえた」

 その言葉に恐怖を覚えなかったのは、彼が楽しそうににっこりと笑っていたせいだ。服を摘まむ指にもそれほどの力はなく、クリューが一歩後退すればすぐ解けてしまうだろう程度のそれだった。

 彼は地面に近い姿勢のまま、上目遣いでクリューを見上げる。そしてやはり友好的な表情で、

「こんにちは、僕はここの店員です。宝石店の子だね?」

 と言ったので、クリューは思わず驚いた。

「私のこと、知って……?」

「勿論。よくうちを覗いているじゃないか。スプートニクさんは、あまり猫に興味はないようだけど」

 確かに、買い物のときクリューがここで足を止めるとき、笑顔でガラスに張り付く彼女とは対照的に、スプートニクは面倒そうな表情をするだけで、特に動物を覗き込むような真似はしなかった。こんなに可愛いのに。

「けれど、彼が一番嫌いなのはカラスなんだそうだよ。駆け出しの頃、商品を盗まれたことがあるそうだ」

「そうなんですか?」

 あの彼に苦手なものがあるということを、少しばかり意外に思う――しかし。

 この店員は、どうしてそんなことを知っているのだろう。クリューのそんな疑問を見透かしたように、彼は小首を傾げた。

「先日の買い物帰り、君がそこから離れないでいる間、辟易していた彼とちょっとだけ話をさせてもらったんだ。君はその子に夢中で、こっちのことには気づいていなかったようだけどね。で、そのときに、君は少し人見知りの気があるという話も聞いていたよ。だからこうやって近づいてみたんだけど、逆に驚かせてしまったかな、ごめん。……あと、そろそろ立ち上がってもいいだろうか」

 そろそろ足が疲れてしまって、と照れたように笑った。気を使わせてしまったことに対する謝罪をし、楽にして下さいと勧めると、彼は礼を言って立ち上がった。折れ曲がっていたエプロンを引っ張って、皺を消す。胸の辺りに、猫と犬と鳥のひょうきんなイラストが大きく描かれていた。

 先ほどはあれほど恐ろしく見えた青年が、今は、それほどでもない。

「改めまして、こんにちは」

「こ、こんにちは」

 どもりながらもなんとか、挨拶をする。彼は笑って「良いお返事です」と言った。

「えっと、お名前は、クーちゃんだったかな」

「く、クリューです。スプートニクさんはクーって呼ぶけど」

「失敬。それじゃクリューちゃん、動物は好きかな。犬とか、猫とか、こういうの」

 そして店のガラスを手で指す。そこに住まう彼らは、短い手足で、長い尻尾で各々好き好きの行動を取っていた。眠っていたり耳を掻いていたり、タオルに掴みかかっていたり――しかしどれも同じように、可愛らしく。

 だからクリューはおずおずと、頷いた。

「好き、です」

「それは嬉しい。あのね、これからこいつらに餌をあげるんだ。いつも眺めてくれているようだし、もしよかったら君も餌やりをしてみないかと思って、誘いに来たんだけど、どうだろう?」

 エプロンの真ん中、大きなポケットから丸っこい形の鼠のぬいぐるみを一つ取り出して振りながら、彼はそう、クリューに言った。

 餌やり。ガラスのこちら側から見るしかなかったふかふかを、間近に見られるまたとない機会である。

「それとも何か、急ぎの用事でもあるのかな」

「ええと……」

 せっかくの誘いだが、お使いの途中だ、断らないとならないことは明白だった。スプートニクはクリューの帰りを待っているだろうし、早くインクを持って帰らなければ、きっと彼は困ってしまう。

 けれど。横目でちらりと、ケースを見る。黒灰の子猫はいつの間にやらタオルを手放し、行儀良く座ってクリューの方を向いていた。ガラスの向こうで、きらきら輝くふたつのまるが、一心に彼女を映している。それに気づいた瞬間、頭の中の天秤はいともあっさり傾いた。

 クリューは人さし指と親指で少しの隙間を作ってみせると、小声で、答えた。

「……それじゃ、ちょっとだけ」

 同時に心の中で、「スプートニクさんごめんなさい」と呟きながら。




(続く)




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