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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅲ はじめてのおつかい
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2-2(5/17追加)




『顧客エルサ様 依頼:補修(ネックレストップ金属部分破損)』。

 厳重な鍵のついた記録帳を解錠し、脇からはみ出た付箋のうち青いものを引っ張って該当のページを開くと、スプートニクの瞳に以上の一文が触れた。

 それは業務日誌の一ページ。スプートニクが一日二回、昼食後と閉店後につけている業務の記録で、筆跡はまごうことなく彼自身のものだ。付箋の先を親指と人さし指で摘まむと、依頼完了の意味を込めて一息に剥がす。そして、通常であればそのすぐ後、最新のページに依頼が完了した旨を記入しておくのだが――今日に限っては、それが出来ない理由があった。

 自身の昼飯は早々に食ってしまった。クリューが店に戻るのはまだだろうかと思いながら壁の時計を見上げるが、昼休憩を終えるにはまだ少し早かった。昼食を買いに出た際、午前中一人で接客が出来た『自分へのご褒美』にとデザートをいつもより多めに買っていたから、もしかしたら定刻通りには戻ってこないやもわからない。

「ま、急ぎの業務は特にないしな」

 束の間の休息を楽しむといい。そんなことを考えつつ、時間潰しに日誌の古いページを開いた。と同時に、そういえばクリューはまだあの『日誌』をつけているのだろうか、とふと思う。

 先日、閉店後にスプートニクが業務日誌をつけていたところ、クリューがどこからか可愛らしいノートを持って来て、熱心な様子で何事か書き物を始めたのだ。何を書いているのか尋ねたところ、「私も業務日誌つけてます」と胸を張っていた。ただ、自慢げに見せられた中身の大半は『ペットショップの猫が毛づくろいをしていてかわいかった』だの『おやつのクッキーを半分床に落とした』だのと、明らかに業務と関係ないことだったが。

 とはいえ本人がいいならそれでいい。彼女の行った業務はスプートニクが日々記録しているし、まだ業務日誌の書き方まで覚えさせる必要はない。従業員としてわからせること、覚えさせることはまだまだたくさん存在しているのである――そう、例えば。

 思いながら、日誌と併せてカウンターに置いたインク壺をただ眺めていると、ぱたぱたぱた、と軽い足音がした。やがて『従業員専用』の札のかかった戸が、音を立てて開かれる。

 そして顔を出したのは勿論、従業員クリューだった、が。

 何故だろう、頬を赤らめ瞳を潤ませ、細かく震えている。

「どうした?」

「す、すぷ、スプートニクさぁぁんっ」

 クリューは名を呼び駆け寄ってくると、椅子に座ったままの彼へ勢いよく抱きついた。怯えたように震える彼女を抱きしめ返し、背を擦ってやりながら、すわ泥棒か覗きかと考える。

 しかし結論から言えば、そのどちらでもなかったようだ。

 焦り、どもりながらも彼女が一生懸命に言うことは。

「あの、今、お部屋の辞書で『内助の功』調べたんですけどっ」

「? あァ」

「そしたらそしたらっ、内助の功って、『妻の功績のことを言うことが多い』って書いてあって、妻って、それじゃ私、私、エルサさんに、す、スプートニクさんの、お、おく、お、奥さん、って!」

 ――そんなことか、と言いたくなるのをなんとか堪えた。

 この恋愛のれの字も知らなさそうなちんちくりんでもやはり、そういうことを多少は気にするのだろう。というかある種、子供だからこそ敏感に捉えるのかもしれない。

 今でこそ女性関係に緩いスプートニクだが、幼い頃、好きでもない異性との仲を囃し立てられて喧嘩になった経験はなくもなかった。あのときは確か、相手の鼻骨をへし折ったあと、「発言を訂正しないとお前の爪を一枚ずつ剥ぐ」とか宣言し戦意喪失させて一応の解決を見たはずだ――幼き日の無邪気な思い出である。だからクリューの必死な様子はわからないでもなかったが、あの場合、エルサは例えとして言っただけであって、そこまでの意味合いを持たせてはいなかっただろう。

 しかし、深刻に捉えすぎた愛すべき従業員の思考は留まることを知らない。

「そんな、クーは、クー達はっ」

 赤らめた頬をスプートニクの肩にぐりぐり押し付けながら、叫ぶように言った。

「に、にゅうせきも、まだなのにっ!」

「……そうだな」

 入籍どころか、と思わずにはいられないが、今話すべきはそれではない。

「あとでエルサに会ったら、ちゃんと『入籍の予定は今後一切ありません』ってはっきり言っておいてやるから落ち着け。そんなことよりクー、お前に頼みがある」

「あ、い、いえ、予定はその、今後一切ないとは……いえ、えっと。頼み? ですか?」

 ようやく冷静さを取り戻したクリューがゆっくり首を傾げる。スプートニクは彼女の肩を掴んで自身からそっと離すと、頷いて見せた。

「あァ。――ちょっと、買い物に行ってもらいたいんだ」

 と。

 クリューは首を傾げたその姿勢のまま、目を見張り、ぴたりと固まった。そして、

「スプートニクさんと、一緒?」

「いや。クー、一人で」

 時間をかけ、ゆっくりと首が元の位置に戻る。見開かれた鳶色の瞳が細かく揺れ、

「あの」

「うん」

「えと」

「うん」

 スプートニクは相槌を打ちながら、意味ある言葉が返るのを辛抱強く待つ。

 やがて栗色の前髪の下、額にびっしり汗を浮かべたクリューが、頬に手を当て俯いて、うつろな瞳でようやく彼に答えたことは、

「クー、内助の功だから、おうちの外に出ちゃったら、内助じゃなくなっちゃうから……」

「成る程なァ」

 一理ある、とは言ってやらなかった。

 ――クリューは人混み、というかスプートニクのいない場所を恐れる。かつて賊等に囚われていた時期のことが影響しているのだろうが、いつどこから知らぬ人間が手を伸ばして来るかと思うと、足が竦んでしまうらしい。

 自室ならなんとか一人でもいられるが、それ以外では全く無理だ。スプートニクが店に立てば手伝いに来るし、買い物に行くと言えば気に入りのポシェットを下げてついて来る。店を訪れる客、買い物先の店員、旅商人の頃で言えば懇意にしていた取引先にまで怯えていた時分と比べれば遥かに成長したと言えるが、スプートニクとしては、やはり別行動が出来ないというのは、二人組の長所を殺しているような気がしてならないわけである。

 スプートニクは椅子を立つと腕を組み、クリューを見下ろした。その頬は痛々しいほど青褪めているが、いつまでも甘やかしていては成長はない。

「いいじゃないか内助卒業。少なくとも俺の嫁扱いはなくなるぞ」

「お、お嫁さんでもいいですっむしろ歓迎ですっ」

ぼかァ君を、目の前の問題から逃れるためだけに求婚するような身持ちの悪い娘に育てた覚えはありませんよ。……あのな、ペンのインクが切れちまったんだ。お前さっき、エルサの接客してくれたろう? クーが一人でもきちんと応対出来た旨を日誌に残しておきたいんだけどな、これじゃ何も書けない。買ってきてくんねェか」

 空のインク壺とガラスペンをカウンターの上に揃えて置く。ペンの青い表面に、クリューの困惑した顔が薄っすら映った。

「で、でもスプートニクさん、いつも万年筆使って……」

「こっちも切れてる」

 スラックスの尻ポケットから愛用の万年筆を取り出すと、キャップを抜いて、日誌の端にペン先を走らせてみせる。当然ながら、ブルーブラックは一滴たりと覗かない。

 逃げ場がないと悟ったクリューの瞳に、みるみる涙が溜まっていく。それが零れるのを封じるため、スプートニクは膝を折って目の高さを合わせると、彼女の頭に手を置いた。「大丈夫」と、極力温かい声音で告げる。

「そこの雑貨屋で売ってるから、それ買って帰ってくるだけだ。雑貨屋、わかるだろう? うちの、三軒隣の。……大丈夫、出来ねェことは言わねェよ。俺はお前なら出来るって信じてるから、頼んでるんだ」

「クーなら、出来る……?」

 エプロンから取り出した、鳥の刺繍の入ったハンカチ――吐き出した宝石を隠すために常に持ち歩いているそれだ――で涙を拭いながら、クリューは彼の言葉を繰り返した。それはまるで、一筋の希望を見たかのような物言い。スプートニクはそれを後押しするよう、深く深く頷いてみせた。

「出来る出来る。俺が保証するんだ、間違いない。俺が推量を間違うことなんてあったか?」

 否定など返せるはずもないとばかりに尋ねてみせる。

 彼女は一度大きくしゃくり上げてから、考えるように斜め上を向いた。そしてしばしの後、また彼の方を向いた彼女が、涙混じりに答えることは。

「……女性関係に、割と……」

「それ以外で」

 つい逸らしてしまった視線をなんとか戻す。クリューの瞳に浮かぶものが業務に対する怯えから彼への疑心に変わっていたが、スプートニクは気づかないふりでそれを真っ直ぐに見た。

 ハンカチを握る白い手を、自身の右手で包んでやる。

「大丈夫。ここは治安のいい街だ、大通りなら子供一人だって歩ける。警邏だってそこかしこにいるから、怖いことは何もねェよ。お前だって知ってるだろう、この街の警察官は職務に忠実過ぎて腹立つくらいだ」

 言いながらある市民の顔を思い出して、つい苦い顔を作ってしまう。それが誰のことを指しているのかわかったのだろう、クリューが不意を打たれたように吹き出した。

「わかりました、行ってきます。……ちょっと、恐いけど」

「それでこそうちの従業員だ」

 今度はスプートニクの方から、彼女を固く抱きしめる。クリューは「頑張ります」と宣言し、ふくふくした頬をスプートニクにすり寄せた。




 ――そして。

「い、い、行ってきますっ」

「おォ、行ってこい」

 いつものポシェットに、代金とお使いメモを詰め。裏返った声で外出の挨拶をすると、クリューは入口扉のドアベルを賑やかに鳴らした。

 カウンターの中からひらひらと手を振って、スプートニクはその姿を見送る。右手と右足が同時に出ているのが少し気にはなったが、向かわせた先はここからたった三軒隣、近所この上ない場所である。それに、雑貨屋には本日クリューに一人で買い物に行かせる旨、その際売ってほしいインクの種類等、全て事前に話を通してある。順当に行けば問題は起こり得ない――はずだ。

 万年筆を再度取り出し、予め抜いておいたインクカートリッジを戻す。ブルーブラックが、業務日誌の最新ページに『クリュー、一人で買い物に行かせる』と書いた。

 しかしながら。カウンターに肘をつき、顎を支えながらスプートニクは一人、考える。

 自分の言動、行動、そして日誌の記録内容を顧みて、

「これは、業務日誌というよりも……」

 育児日記と呼ぶ方が遥かに適切な気がして、彼は小さくため息をついた。



(続く)



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