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スプートニクが真の意味で『失敗した』ことに気付いたのは、翌朝になってからである。
「一昨日の晩は人に言えないことをして、昨晩は揃いの指輪」
いつものようにやって来た、ナツの視線が妙に痛い。
彼女は夢見るように空向くクリューと、仏頂面のスプートニクを交互に見。そして少しばかり顔を背けると視線だけをスプートニクに向け、
「……ついに身を固める決意を」
「違ェ」
この上ない誤解に、思わずスプートニクは呟いた。
が、ナツは聞かない。
「いえ、歳の差とかいろいろあるだろうけど、あなたが心を入れ替えて清廉潔白な振る舞いをし、クリューちゃんを生涯大事にするっていうのなら、私は別に、悪いとは思わないわよ? 言葉としては陳腐かもしれないけど、ほら、よく言うじゃない『愛があれば』って」
「だから違ェって言ってるだろうが」
追い払うように左手を振る。スプートニクの小指の銀が、窓から差し込む陽光を反射して撒き散らした。
クリューはといえば、三分に一度くらいの頻度で左手を天井に掲げては指輪を眺めている。宝石店なのだから装飾品など見慣れているだろうに、自分のものとなるとそう割り切れるものでもないらしい。
時折、はっ、と驚いたように目を見開いては、慌ててエプロンのポケットから布を取り出し、指輪を磨き始める。銀製品は変色するから定期的に手入れをするように、とは確かに言ったけれども、誰も五分置きに磨けとは言っていない。気に入ってくれているのは職人として有り難いことこの上ないが。
「冷やかしならとっとと帰れ。当店は平和そのものだ」
「よく言うわね。……勝算はあるの?」
後半の言葉は、やや低い声で発せられた。しかしスプートニクは彼女の変化に気付かぬふりで、
「任せろ」
握ったペンを指先で回しながら、にたりと笑ってみせる。
ナツは驚いたように、あら、と言った。
「自信有り気じゃない」
「うちの商会は有能な人材が揃ってるんでね」
「でも、戦場に向かう人の『帰ってきたら結婚しよう』は縁起が良くないって聞いたことあるけど」
「不吉なことを言うな。あと俺はまだ独身を謳歌する」
人生の墓場に入るには、到底遊び足りない。
だからそれ以上その話題には取り合わず、壁時計を見上げた。
「もうしばらくしたらあの女魔法使いも来るだろう。それと少し話をして……あァ、そうだ。クーには暇を出すことにした」
「クリューちゃんに?」
ナツがクリューを振り返る。つられてスプートニクもそちらを見やるが、話題の彼女は相も変わらず夢心地の様子。そういえば先ほど会計をしていたが、釣り銭を間違えたりはしていなかろうか――そんな心配もこみ上げてきて、スプートニクは彼女の愛称を呼んだ。
「クー」
「……あ、えっと、はいっ」
と、ようやく目に焦点が戻った。慌ててこちらを向いた後、しかし何の話かわからないのだろう、愛想笑いを浮かべたまま小首を傾げて、
「あの、あの、はい。今日もいいお天気ですね」
「誰が天候の話をしてるか。午後からお前に、暇を出すって話だよ。昨晩の話し合いで、そういうことになったな?」
言い、目配せをする。
すると彼女の顔に、肩に、力が入った。ぶんぶんと大きく縦に頭を振って、
「は、はい。私、その、危ないので、帰ります。ええと、キュウリに?」
「……野菜?」
「郷里な」
訂正を入れてやる。
「そ、そうです。魔法使いさんは危ないので、その、ちょっと。おうちに帰ります」
と、ナツは奥歯にものの挟まったような、気分の悪そうな表情をした。さもありなん、かく言うクリューは視線を合わせず、胸の前で組んだ手を忙しなく動かしている。明らかに挙動不審なのである。
それでもナツはそれ以上追及することはしなかった。彼女を責め立てることに良心の呵責を覚えたのか、それとも他に何か思うところがあったのか。
ナツはスプートニクを睨むとまるで当て付けのように嘆息し、こめかみを軽く掻いた。
「……ま、いいわ。私そろそろ時間だから、行くけど」
「おォ、行け行け行ってしまえ。そして二度と戻って来るな」
と、もう一度睨まれた。
何かを言いかけて、しかしやめる。彼女はスプートニクに背を向けると「何かあったら来なさいよ」とだけ残して、店を出て行った。
まったく正義の申し子とは、可愛くない生き物だ。そんな冗談を思いついて、スプートニクは声なく笑う。そうして静かに、気の済むまで笑ってから彼は、またぽやっと手を眺め始めたクリューへ『暇』を出すため椅子を立った。
警察官が去り、従業員に暇を出して、店を閉め。そうしてスプートニクだけが残った店内に、イラージャが訪れるまでにはさほどの時間はかからなかった。
そろそろと『閉店』を掛けた入口扉が動き、伴って比較的大人しめにドアベルが鳴る。眺めていると、恐縮するようにイラージャが首を出した。今日の彼女は白色のツイードジャケットに、膝丈のフレアスカートを合わせている。魔法少女と対峙するのだから、てっきり魔法使いとしての正装――あのローブを着てくるものと思っていたから少々意外だったが、それは魔法使いを良く思わないスプートニクへの配慮なのかもしれない。いちいち聞く気にもなれなかったから、本当のところは知れないが。
「体調はもういいのか」
「はい。お陰様で」
それが本当かどうかはスプートニクにはわからなかった。この彼女のことだ、たとえ高熱を出したところで這ってでも来ただろう。
やはりどこか緊張感ある瞳のまま今日の礼を述べる彼女へ応接用のソファを勧めると、スプートニクはカウンターの椅子に腰かけた。
手を伸ばして、陰に隠した灰皿と燐寸、紙巻き煙草を収めた小箱一つを取り出す。客のいるときは控えているが、現状ならば喫煙したところで誰も文句は言うまい。そう思いながら小箱を軽く振った――が。
「うん?」
訝しげなスプートニクの声に反応して、イラージャが首を傾げた。
「どうしました」
「いや。煙草がな……」
いくら振れども箱の口からは、一向に何も出てこない。ついこの間補充したばかりだ、もう切らしたということはないだろう。片目で箱の取り出し口を覗くと、中に紙のようなものが押し込められているのがわかった。何だろう。
人さし指を突っ込んで、紙を取り出す。広げ、それに書かれた文字を読み、スプートニクは思わず頭を抱えた。
「……やられた」
彼の呟きを受け、はっとイラージャの顔色が変わる。しかし彼が眉を寄せたのは、彼女の憂うるそれのせいではない。ゆっくり大きく、腕を振って見せた。
「違う。……ばれてねェと思ってたんだがなァ」
ソファから立ち上がり、怪訝そうな表情でこちらに歩いてくるイラージャへ、紙切れを差し出す。それには一言だけ記されていた。
『けんこうによくないです』
書き手の署名はないが、筆跡でわかる。上手く隠しているつもりでいたのに、いつの間にやら気づかれていたらしい。
深く嘆息するスプートニクを見て、イラージャの表情が柔らかく解れた。
「仲がよろしいんですね」
「どうだかな。なかなかお節介で、物分かりの良くない娘だよ」
スプートニクは諦めて、一式をまた元の場所に返した。
近いうちに、何処か新しい隠し場所を考えなければ。そんなことを考えながら答えると、イラージャは不思議そうに首を傾げた。
「娘と言うほど歳は離れていらっしゃらないでしょう」
「妹と言うには離れすぎているもんでね」
腕と足を組み、背もたれに寄りかかる。少し上向いた視線の先、天井付近にキラリと一つ光るものを見つけ、スプートニクは目を擦った。糸屑か、疲れ目か、はたまた飛蚊症か。
「いずれにせよ、あれはまだまだお子様だ。だから――」
願うことならいずれかであれと願ったそれであったが、不幸にもというべきか、そのいずれでもなかったようだ。ゆら、ゆら、ゆらと、まるで見るものをからかうように揺れながら、虚空を落ちてくる。
壁時計が、正午を告げるオルゴールを鳴らす。
それを意識の端で聴きながら、スプートニクがぼんやりと呟くことは。
「――まだ、嫁にやりたくはないんだよなァ」
やがて光は舞い落ち、膨れ、一つの影を形作る。




