5-3(2/8追加)
客のいない夕方近くの店内。ドアベルの音が聞こえて、クリューははっと顔を上げた。
――埋め合わせのつもりなのか、昼食はスプートニクの奢りだった。近所の店で買ってきた、クリームパスタとトマトパスタ、「デザートも買ってきた」とリンゴタルトとレモンパイをひとつずつ。どっちがいいかと聞く彼に、どっちも食べたいですと拗ねて見せれば「じゃあ、半分ずつしようか」と好青年紛いの笑みで答えてくる。どうにかして遣り込めてやりたいが、短くない付き合いである、向こうはどうすればクリューが喜ぶのかわかっているのだから、勝負にもならない。現に『半分こ』された『お揃いの』昼食が並んだときには、クリューの怒りなどすっかり消えてしまった。
しかし。重めの昼食を食べたせいで、やって来た睡魔は強烈なものだった。客足の途切れた店内、カウンターで一人で座っていたせいで、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
涎を拭い、慌てて「いらっしゃいませ!」と立ち上がる。しかし入ってきたのは、客ではなかった。
「どうも、クリューさん。スプートニクさんへ、郵便です」
帽子を外してそう挨拶をしたのは、顔見知りの郵便配達員の青年であった。いつもの通り、受取証に代理でサインをする。彼は「ありがとうございます」と言い、入って来たときと同様、早足で去って行った。
渡されたものは、一つの白い箱だった。
正しくは、白、であったはずの箱。速達、書留、重要、親展、割れ物、貴重品、天地無用、緊急――その他諸々。箱の全面に、赤字でたくさんの言葉が書かれている。まるで思いつく限りの注意書きを認めたようなそれ。そしてそれを括った紐には、封筒がひとつ結ばれていた。
封筒に署名はない。ただ、代わりに一言『表面張力では支え切れぬほどの愛をこめて あなたのいとしいわたしより』とある。
「ひょうめん、ちょうりょく?」
どういう意味だろう。中を改めるべきか迷うが、宛先は『スプートニク様』になっている。店主の許可なく開けるわけにも行くまい、そう思いながら箱を持ったまま立ち尽くしていると、
「お、来たか」
背中から声がした。クリューがそちらを見るより早く、背後から伸びてきた手が箱を取り上げる。振り返るとそこには、上機嫌そうに鼻歌など歌っているスプートニクがいた。天地無用と書かれているのにも構わず、両手で箱をくるくると乱暴に回し、矯めつ眇めつ眺めている。いいのだろうか?
「なんですか、それ」
「商会からの贈り物」
尋ねると彼は、鼻歌をやめてそう言った。
「間に合うかどうかは少し不安だったし、そもそもそんなものが作れるのかも甚だ疑問だったけどな」
箱から取り外した封筒に、信じていたよ、とキスをする。その軽薄な仕草に、怒りよりも呆れを覚えた。
「そんな様子で。いつか女の人に刺されても知りませんよ」
「いつかも何も、昨日やられたばかりじゃないか。魔法少女に」
それでも反省の色が見えないのだから、まったく仕方のない店主である。
「それよりもクー、あの魔法使いの様子を見てきてやれ。店は俺が適当に見てるから」
「適当にってなんです適当にって」
「間違えた。手紙の片手間に見てるから」
同じことではないか。
とはいえ気になることは確かである。睡眠中の女性に女誑しを近づけるのもあまり気の進むことではなかったし――カウンターに箱を置いて鋏を取り出し、いそいそと開封を始める店主を横目に、彼女は『従業員専用』の戸を開けた。
話をしている間に気を失ってしまったという件の魔法使いは、今は二階の客室に寝かせている。二日連続で呼びつけられた老医師はほとほと呆れた顔をしていたが、彼女の様子を見ると「ただの過労だ」と診断を下した。「魔法使いの体質なぞ知らんが、この症状は明らかに過労だ。もし暫く寝かせて目が覚めなければ、そのときは魔法使いの仲間にでも連絡したがよかろう」とのこと。
しかし二人きりの話し合いの最中に、過労で倒れるとは。疑いの目を隠すことなく「彼女に何をさせていたんです」と尋ねると、「知りたい?」と下卑た笑顔で言われたので腹が立った――が、そのやりとりを見兼ねたらしい老医師が「一朝一夕で溜まる疲労具合ではない、数日間何らかの緊張に晒されでもしていたんじゃないのかね」と言い、スプートニクへ「悪役を買って出るのも程々にしろ」と諌めてくれた。それにもスプートニクはやはり、肩を竦めるだけであったが。
階段を上り、スプートニクの隣の部屋をノックしてから開ける。トイレ一体型のバスルームの脇を通り過ぎ、寝室を覗くとそこには、ベッドの上に半身を起こし、きょとんとした表情でこちらを見ている女性が一人。
彼女はクリューと目が合うと、なぜか怯えたようにびくりと震えた。
「あ、あの。ここは」
「店の二階です。お話中に倒れてしまったって。覚えていらっしゃいませんか」
「あ……」
思い当たる節があったのだろう、合点がいったようで頷いた。怯えたような表情は消え、しゅんと勢いなく項垂れる。
「はい。あの、すみません、お手数をおかけしました」
「いえ……ええと、ご気分はいかがでしょう。あ、お水です。よかったら」
「ああ、すみません。ありがとうございます、頂きます」
ヘッドボードから水差しとグラスを取り、注いで渡す。彼女はグラス半分ほどをゆっくりと飲んで、息をついた。
「医師が言うには、ただの過労だそうです。魔法や魔力のことに関しては私たちにはわかり兼ねますので、お戻り次第魔法使いの体調に詳しい方に診察を受けることをお勧めします」
「ありがとうございます。……魔力とは時間が経てば体内でまた湧き、蓄積されるものですので、尽きたところでそれほど問題はございません。お医者様が過労と仰るのであれば、それが原因なのでしょう。本当に、ご迷惑をかけて……申し訳ありません」
「あ、あの、いえ」
クリューの魔法使いに対する感情は嫌悪以外の何でもなかった。何せ彼を傷つけた者と同じ人種だ――が、そうも深々と頭を下げられると、逆にこちらが恐縮してしまう。
絆されそうになるのを踏みとどまり、聞くべきことを口にする。
「そ、それより。……先ほど、店主と何を話していたのか、伺ってもよろしいでしょうか」
「店主様と? 先ほどの話し合いでしょうか。でしたら店主様ご自身から聞いた方が早いのでは……」
「教えてくれないんです」
クリューは言って、ぷう、と頬を膨らませた。「お前には関係ないとか、大したことじゃないとか、お前が聞いても意味ないとか言って。たくさん文句言ったのに教えてくれなくて、おかげでお昼ご飯たくさんでお腹いっぱいでした。美味しかったです」
「は? はぁ……」
拗ねる彼女に、不思議そうにしながらも相づちを打つイラージャ。
「だから教えてください。人に言えないことを話し合っていたというわけではないのでしょう?」
「え、ええと……それは、あの、ですが、その、あまり口外するようなことでは……いえ、はい、わかりました」
さほど厳しい表情をしていた自覚はなかったが、渋っていた彼女がクリューと目が合うと即座に意見を変えたあたり、そうでもなかったのだろう。イラージャはかくかく頷いて、「くれぐれも他言無用で」と前置きしてから先の『話し合い』の内容を語り始める。それは、自身の上司のソアランという人がどれだけ優れた才能の持ち主かということ。だのに協会のお偉方は彼を何の力も振るえない地方に据え置こうとしていること。そしてイラージャはそれを阻止するため、魔法少女を捕まえようとしていること――などであった。
話している間に段々と、イラージャの語調に熱が入ってくる。
「リアフィアット支部設立の計画は着々と進んでいます。そのため、一刻も早いナギたんの確保が必要なのです」
そう言って、「失礼」と一口水を含んだ。間が空いたのを質問の好機と、今度はクリューが口を開く。
「あの。店主はそれに、何と?」
「お返事は頂けませんでした。……その前に私が気を失ってしまったせいですが」
「そうですか」
となるとスプートニクは、当日の許可不許可以外にも、大した質問はしなかったということになる。
しかしクリューには、話の中でひとつ、気になったことがあった。スプートニクは、急を要して聞くほどのことでないと思ったのだろうか。確かに魔法少女に関係することとは思えなかったが――クリューはこのイラージャという魔法使いに興味を持った。だから、
「私からもひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ。何でしょう?」
気分を害した様子はなく、にっこりと微笑む彼女をまっすぐに見て、クリューはこう、問いかけた。
「イラージャさんは、ソアランさんのことがお好きなんですか?」
が、どうもイラージャは、何を言われたのかすぐには理解できなかったようだった。
きょとん、と硬直し――後、ようやく意味を理解して、一気に頬を紅潮させると「へべらばばぁぁっ」と声を上げた。クリューの知らない、魔法使いの言語かと思ったがそうではなく、単純に混乱から出たもののようだ。
耳まで真っ赤にしたイラージャは、掛け布団を抱きしめ大きく上下に振り、
「ち、ち、ちが、違いますっ。私はそういう、そういう邪な感情で動いているわけではなくてですね、その、その、そう、それに……」
否定はしているがこの様子である、恐らく違ってはいないのだろう。
しかし言葉が進む度、腕を振る勢いが落ちていく。そしてそれはやがて止まり、抱きしめる腕を緩めると、少し間を開けてもう一度「それに」と呟いた。二度目のそれはどうも悲しげで、布団の裾を掴んだ手に力が入る。
それから彼女はクリューに向け、もう一度笑って見せた。けれどそれは『喜ばしい』と形容するには程遠く、心中を秘め無理矢理形作ったようなそれで、痛ましい。そして告げたものは、やはり胸を締め付ける内容であった。
「彼には心に決めた方がいらっしゃるのです」
「それは……」
イラージャにとっては辛かろう事実に、クリューは思わず言葉を失くした。それはつまり、彼女の想いが実ることはないということだ――いや、ないと言い切れはしないが、少なくとも現在、彼女の想い人の心は、彼女以外の女性に向いているということだ。
それはさぞ、辛かろう。かける言葉を思いつけずにいるクリューを前に、彼女は話を再開する。しかしそれもまた、人生経験のそれほど豊富でないクリューには衝撃的なものだった。
「その方はもう、この世にはいないのですが」
「……えっ?」
クリューの思考がその意味を理解するより早く、イラージャは自身の手元に視線を落とし、淡々と告げる。
「かつて彼には、婚約者がいらっしゃいました。とても聡明で、美しく、良い家柄の令嬢であったそうです。彼女も協会の職員でいらっしゃって、協会に宛がわれた婚約者ではあったようですが……まるで本当の恋仲であるかのような睦まじさでいらしたようです。私は当時まだ職員ではありませんでしたから、お二人のことは噂に聞いたことがある程度ですけれども」
恋仲ではないのに婚約、というのはどういうことだろうとやや不可解であったが、そういえば魔女協会では男女の扱いに差があるとスプートニクが語っていた。そのあたりが関係しているのかもしれない。あとでスプートニクに聞いてみようとこの場は納得することにし、先を促す。
「それで、その、婚約者さんは……」
「あるとき協会の命令で、魔法使い同士の抗争の調停に向かい――巻き込まれて、不幸にも命を落としたそうです」
恋敵である人の最期。けれど彼女はそれを、喜色で語ったりなどしなかった。まるで自身が大事な人を失ったかのような、痛ましいものを見るような瞳で、ともすれば嗚咽すら吐きそうな震える声で。
「けれどソアラン様は、その報せを聞いても、協会幹部に詰め寄るでもなく、怒るでもなく。ただ『彼女が命を賭しても守ろうとしたこの協会に尽力することを、始祖様の名に誓いましょう』と語ったということです」
その心中たるや、如何許りか。
イラージャが顔を上げる。まっすぐに見た彼女の頬はやや白く、疲れたような目をしていた。
「彼のローブの胸元の釦の色が、私と異なっていたことを覚えておいでですか。あれは私たちの作法で、喪に服していることを意味するのです。それが彼女への弔いであると彼の口から直接聞いたわけではありませんが、少なくとも、私が魔女協会の職員になったときには彼の釦はああでしたし、私が知る限り変わったことは一度たりとありません」
彼がかつての婚約者のことについて、自分から誰に何を語ることはなくとも、きっとその釦の存在こそが紛れもない彼の想いなのだろう――ぶわぁ、とクリューの瞼に涙が溢れてきた。
「か、か、かわいそうっ」
「あ、あ、ええと、その、く、クーさんでしたっけ。泣かないでください」
「クリューですっ。だ、だって、ソアランさん、ソアランさんかわいそう。大事な人が亡くなって、つらくて、でも、恨んだりとかしないで、協会さんに頑張って仕えてるのに、それなのに協会さんは、東の端っこの、要らないところに行けだなんて、そんなのひどい」
「でしょう!」
我が意を得たりと、イラージャはベッドから身を乗り出す。
「私は、一部の心無い人間のせいで有能な人間が評価されないなんていうのは、許せないのです! ナギたんを捕まえることでソアラン様も少しは私のことを見てくれるかもなんて、そんな、そ、そんな、そんな邪なこと……そんなのではないのです!」
そして、無力を知り、自身の想いを隠しながらも想い人の為に尽力しようとするイラージャ自身の姿勢もまた、クリューの心を動かす大きな要素となり。
結果、鼻息荒くするイラージャの前で、クリューもまた、固く拳を握った。
「イラージャさん! 私、イラージャさんのこと応援します! スプートニクさんのことなら任せて下さい、私が絶対に説得します!」
「く、クリューさん、ありがとうございます! 私、私、何とお礼を言ったらいいか……!」
「お礼なんて不要です! イラージャさん、あの憎っくき魔法少女をぎたぎたにして、市中引き回しの上協会さんに引き渡して差し上げましょう!」
二人は互いの手を握り、視線を交わすと深く深く頷いた。




