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――さて。
深く長いため息をついてから、スプートニクはベッドを立った。
書斎机に歩み寄ると、音を立てずに机の引き出しを開ける。何かあったかと、望みというにはあまりにも期待ないことを考えながら覗くが、やはりそこにはいつも通りの道具が幾ばくか入っているだけであった。少し迷ってから結局、細いペンチと短いゴールドフィルドワイヤーを握ってポケットに入れる。
引き出しを閉め、ついでに本棚から一番分厚い書籍を取り出し小脇に抱えてスプートニクは寝室を出た。
廊下を歩いて共有部分に繋がるドアの前に立つ。酷く面倒だが、放置するわけにもいかなかった。怒りに任せ戸を蹴り開けたい感情を堪える。クリューがようやく眠ったのだ、ここで起こしてしまっては元も子もない。
ノブを握って、極力音を立てずに開ける。
そこでは子供が一人、三角座りをしていた。
「あァ。やはり気づいていたのだね」
「気づかねェわけあるか、クソガキ」
楽しそうに笑う白い髪の少女に、疎んじる気持ちを隠すことなく吐き捨てる。
人が夕餉を取っている最中から、寝室で話をしている最中、果てはクリューを寝かしつけている最中まで。何度もドアが開いてこちらを伺う目と目が合うのだ、気づかないとしたら余程の阿呆である。途中からは視線をそちらに向けるのも意識的に避けていた。クリューが気づいたらと思うと気が気でなかったが、向こうとしても彼女に気づかれるのは本意でなかったようで、上手いこと彼女の目がないときだけチラチラこちらを覗いてきていた――が、それもそれで腹立たしいことこの上なかった。
「しかし、よくも第三者がいるとわかっていて尚、あれほど仲睦まじくいられるね。まったく、ひやひやさせないでくれ。ことに及ばれたら僕はどうしたらいいのかと気が気でなかったよ。覗き見が好きなわけじゃないんだ」
「生憎と、幼児体型に欲情できるほど人間が出来てないもんでね」
「そうかな? 女の子の成長は君が思っている以上に早いよ。お子様と侮っていると痛い目を見る、覚えておくといい」
まるで自分の言ったそれが傑作であるとばかりに、俯きクツクツと笑う。それもまたスプートニクの苛立ちを倍加させるが、この魔法少女はそんなことどうとも思っていなかろう。
「要らぬ忠告を有り難う。つか、コソコソ人の家に侵入しておいて、出歯亀は嫌いだなんてよく言えるな。――そもそも、次は予約を入れて来て下さるんじゃなかったのかよ、『奥様』?」
すると。
大きなレンズの向こうで、右目の瞼がぴくりと震えた。
今日の朝。店にやってきたあのエリーゼが本物のエリーゼでないことに、彼は気づいていた。よく似たように化けてはいたが、残念ながら商人の勘は誤魔化せない。だから抱き寄せた偽のエリーゼに対し彼は、クリューには聞こえぬような小声で囁いたのだ――『明後日じゃねェのかよ、クソガキ』
その瞬間、まさか気づかれるわけがないという慢心があったのか、彼女ははっと目を見張った。慌てて距離を取ろうとする彼女の腰を固く掴んだまま、したり顔で笑って見せた彼の様子をクリューがどう見たかは知らないが、少なくとも怪しんではいなかったようである。あの恐がりを無用に恐れさせたところで利はない。
少女は顔を上げると胸の前で手を組み、目を輝かせながら彼を見上げた。
「そうそう、それが気になっていたのだよ。君、あれが僕だと、なぜ気づいた?」
「先日奥様から来店の打診があってな。その際に、俺の予定の空いていない日は伝えていた。テメェが知っていたかどうかは知らないがな、テメェさえ来なけりゃ俺は今日、商会に行く予定だったんだ。だから、彼女が今日来るわけなかった」
――抱き寄せたときの感触が違った、という本当の理由は伏せておく。
代わりに至極真っ当そうな理由を組み上げて答えると、彼女はその大きな瞳で、ぱちくりと瞬きをした。
「なんだ。僕はてっきり『腰の触り心地が本物と違った』とでも言うのかと思ったよ。君、ただの下衆じゃァないんだね」
「…………」
ばれていた。
が、信じたのならそれでいい。フンと鼻で笑い、「人を舐めるのも大概にしておけよ」と答える。彼女は肩を竦めて「お見逸れしました」と言った。
「しかし君の度胸も大概だ。よく僕にあれだけされておいて、碌な武器もないままこんな時間にのこのこ僕の前に出てこれたね。怯えて、気づかないふりを決め込むかと思ったけれど」
「ンなことしたって結局は出てくるんだろう。だったらそんな態度、取るだけ無駄だ。それに、どうやら俺は心臓に清めた杭を刺されても死なない体質らしいからな」
「あはは。それも聞いていたよ、彼女の君に対する信頼ぶりといったらないね。まったく、可愛らしいお嬢さんだ」
「もういいだろう、そろそろ要件を言え。何の用だ」
俺もそろそろ眠りたいんだ、と睨む。彼女はその場に立ち上がると、スカートをパタパタ叩き裾を直して、彼にもう一度笑いかける。
「少し、世間話がしたくてね。君だって、僕に聞きたいことの一つや二つ、あるだろう? あァ、安心してくれ。今宵は本当に、君らに危害を加える気はない」
今宵は。――この次はどうかわからない、ということか。
非常に上からの物言いに腹が立つが、現在これに対抗できる術などないことも事実。手持ちはペンチとワイヤー、厚めの書籍だけで、攻撃にも防御にも不足していることこの上ない。ここで争ったところで泣きを見るだけだろう。そう考えてスプートニクは大人しく、思考回路を対話に移行させた。
僕に聞きたいことの一つや二つ、と彼女は言った。一つや二つで済むものか。考えても答えの出ないところを、いくつか指折り挙げてやる。
「どうしてスプートニク宝石店を狙ったのか。魔女協会にも同様の予告状を出した理由は何か。それらはリアフィアット支部の創設と関係があるのか。どうしてお前はリアフィアット市でそれだけの魔法が使えるのか」
「ふむ。君の疑問は、四つかな」
「朝に壊された道具の弁償はしてもらえるのか。五つだ」
その瞬間、彼女の頬が引き攣ったのを、スプートニクは見逃さなかった。その動揺が解けるより早く、言葉を重ねる。
「だったらどうなんだ。答えを教えてくれるのか」
「あ、あァ。そうだねェ、特別だ、君の度胸に免じて答えてあげよう。――頭から順番に、教えられない、教えられない、教えられない、教えられない、ごめんなさい。以上」
「ふざけろ」
「あ痛」
つま先で膝を軽く蹴ってやる。と、彼女は大袈裟に膝を折り、まるで悪戯した子供のように笑った。いったいどの口が言うのやら、暴力反対、と膝を擦って見せる。
「第一、朝のは君が僕に手を出してきたのが悪いんじゃないか。やられたならやり返したくなるのが人の常だろうよ」
「うるせェ。それを言うなら、テメェがうちに窃盗予告なんて喧嘩売ってきたのが悪かろう」
「うゥむ」
腕を組み、うんうんと唸り出す。その姿勢に、油断だらけだな、と思った。
とはいえこちらは負傷中の上、頭も少々眠気にやられている。隙を狙ってどうこうできるとは思えない。隙を狙うのは潔く諦め、護身用のつもりで持ってきていたワイヤーをポケットから取り出した。特に作りたい形があるわけでもなく、手遊びに捻って回す。
盾代わりの本は床に置き、ペンチを使って適当にくるくると巻いていく。それを見て、彼女はぱっと目を輝かせた。少女の、外見相応の無垢な笑顔が彼を向く。
「おや。素敵だね、何が出来るんだい」
「さァ。俺も特に考えてねェよ」
なるべく素っ気なく答えたつもりであったが、彼女は興味深いものを見るような目で彼の手元をじっと見つめながら、そうかいそうかい、と頷く。
「僕もね、昔、銀の指輪を作ったことがあるよ。あれは何だったろうか、粘土の癖に、焼くと銀になるのだそうだ。何とも不思議なものだった」
「銀粘土か」
「そう、それだ。銀粘土。思い出した。まったく、不思議だね。土が銀に変化するあの現象は、まるで魔法のようだが魔法ではないのだろう? 君もあれを使って品を作るのかい」
「いや。加工室にあるにはあるが、商品の製作にはほとんど使わねェな。サイズによっては外の工房に依頼することもあるから一概にどうとは言えねェけど、銀製品ならロストワックスやら彫金やらのが多い。銀粘土は個人的な玩具みたいなもんだ。あと、銀粘土っていうのは別に、土が銀になるわけじゃなくて――」
そこまで言って、はっと、口を閉じた。目の前にいるのが慣れ合うべきものではないということを思い出したからだ。どうにも宝石やら装飾品のことになると、口が軽くなっていけない。
気を取り直し、楽しそうに話を聞く少女の顔を真っ直ぐに睨みつけた。
「いい加減にしろ。要件があるならさっさと言え」
「要件? やがて対峙するライバルの顔を見に来たというだけでは不足かい」
うふふ、と笑うその表情もまた憎らしい。可愛さ余って、などという言葉もあるが、これの場合は余るべき可愛さもなく、ただ苛立ちが先に立つ。
その意思が伝わったのだろう、魔法少女は小さく首を傾げ、肩を竦めた。
「つれないねェ。……まァ良いや、そろそろ僕も帰ろうかな。用は済んだし」
とは言うが、彼女が来てやっていたことといえば、ただ彼らの様子を覗いていただけだ。部屋の中からは何かが盗まれた様子もなく、だからひどく怪訝に思えてしまう。
「用って、一体、何しに来たんだ」
「どうして僕の変化の魔法が見破られたのか気になったっていうのが一つ。君という人を知りたかったというのが一つ。最後の一つは……うん。これも秘密だ」
「あまり秘密主義を徹底すると友達も出来ないぞ」
「おや。正直に目的を話したら、僕と友達になってくれるのかい?」
「それは御免だ」
「寂しいなァ。それほど僕は性格悪く思われているのかな」
「テメェの性格なんか知ったこっちゃねェよ。コソ泥と慣れ合う商人がいるか」
「なるほど。それは道理だね」
ふんふんと訳知りのように頷く魔法少女。
「まァ、それならそれで仕方がない。僕はそろそろ、お暇させて頂くよ」
魔法使いも眠らないと疲れてしまうのだ。そんなことを呟き、それから大きく伸びをして――ふと、何かに気付いたように「そうだ」と言った。
「こんな時間に話に付き合って頂いたお礼に、一つだけヒントを差し上げよう」
「ヒント?」
「今晩、僕が何を目的にここに来たのか」
怪訝に眉を寄すスプートニクの前で、銀縁の奥の青目が笑う。
立てた指先から光の雫を散らせながら、彼女がヒントとやらを告げる。それは、彼が無意識のうちに犯していた、たった一つの過ちであった。
「君、疑問点の中に、『魔法少女はこの店のどの宝石を狙っているのか』を入れなかったね」
――その瞬間、思わず息を呑んだことを、失態だと思った。
それを彼女は見逃さない。スプートニクの一瞬の戸惑いに、我が意を得たりとばかりに笑う。
彼が何かの言葉を返すより早く、彼女はひどく楽しそうに「さようなら」と言い、消えていった。
組み上げたワイヤーが、手の中で歪んだ。
手のひらが何故か、熱く痛い。ワイヤーの先が手のひらに刺さったのかもわからないが、確認するだけの余裕はなかった。それよりも遥かに強い苛立ちが彼の頭を煮えたぎらせていたからである。怒りに任せ、ただの塵になったそれを床に叩きつける。カン、と軽い音を立てて跳ね、廊下の端に転がった。
それでも怒りは収まらず、壁を殴りそうになるのを、必死で抑える。下手に大きい音を立てて、眠っているのを起こすわけにはいかなかった。自分がいま、どれだけ酷い表情をしているのが想像に難くなかったからである。上司を万能と信じるあの馬鹿の前で、そんな表情をしてはいけない。ふつふつと湧いてくる抑えきれない怒りは、あのふざけた子供にではない――あまりの自分の間抜けさにだ。
「油断をするにも、程があるだろう」
階段脇にたった一人立ち尽くし、毒づく自分のなんと惨めなことか。
固く目を閉じ、長い時間をかけて、握った拳を指一本ずつ解き。噛み締めた歯の間からゆっくりと細く息を限界まで吸って、ゆっくりと、吐く。そうすることで、怒りを忘れた。
もう眠ってしまおう。そう思いながら、床に置いていた書籍を取り上げ、ドアを開ける。すると、
「……?」
奥から、妙な音が聞こえてきた。
不可解なそれに、思わず眉を寄せる。こふ、こふという軽い音。不規則に、何度も何度も繰り返して聞こえてくる。根源は、どうやら寝室のようである。
――まさか、あの子供が何か。
思うと、一気に肝が冷えた。廊下を駆け、急いで寝室のドアを開ける。
が、そこに魔法少女の姿はなかった。また、音の正体もすぐに知れる。ベッドでクリューが咳き込んでいるのだった。
安堵と同時に脱力を覚える。まったく焦らせやがって――思いながら、ベッドの端に腰掛け、咳き込む度小さく震える肩に手を置いた。
「どうした、クー。大丈夫か」
両手で唇を押さえ咳を繰り返す彼女の背を、ゆっくりと擦ってやる。すると、うっすらと瞼が開いた。寝ぼけた鳶色が彼を見て、寝ぼけた声が彼を呼ぶ。けれどその声も遮られ、小さな手の向こうから、何度か空咳が繰り返される。
やがて覆った指の間に、一つの影が現れた。
唾液に塗れて光る青。
「クー。苦しいか、クー」
返事はない。乱れた呼吸はすぐに戻り、落ち着いた寝息に戻る。また、眠ったようだ。
小脇に抱えた、分厚く黒い本の表紙。医学書、の文字が彼を嘲笑って見えた。




