3-1
「申し訳ありません。店主は別件で取り込んでおりまして」
はたして今日は、もう何度この言葉を告げたろうか。そんなことを思いながら、クリューはまた同じそれを吐いた。
あの後スプートニクは、まずクリューに医者を呼ばせた。勿論、腕と足に刺さったものを抜くためだ。やって来た馴染みの老医師は、彼のそれを見て目を丸くしてはいたものの、黙って処置をしてくれた。事情を聞かないでくれたのは、彼の仕事――宝石加工師――を知っていたからと言うよりも、どう見ても作業中の事故とは思えないそれらに呆れていただけのようだった。処置後、器具を鞄に仕舞いながら「やんちゃも程々にな」と呟いていたのがその確たる証拠である。勿論スプートニクは、聞こえないふりをしていたが。
曰く、手足の神経に支障が残ることはなかろうとのことだった。多少の傷跡は残るかもしれないが、じきに治る。老医師がそう診断を下したとき、スプートニクの目元から少しだけ力が抜けたのを、クリューは見逃さなかった。指先の神経は加工師にとって非常に重要だ。流石のスプートニクも、それを失うことは避けたかったのだろう。
医師が帰るとスプートニクはクリューに店番を言いつけ、以降ずっと宝石加工室に籠っている。何をしているのか不明だが、先ほどそっと覗いてみたところでは、熱心に書き物をしているようだった。
「あら。そうなの、残念ね……折角来たのに」
そのためクリューは店主を訪ねて来る客へ、朝から何度も頭を下げている。元々今日は店主は外出の予定だったのだから、断りの言葉が多少変化しただけではあるけれど、いずれにせよ自身に不備はないのに頭を下げるというのは、決して喜ばしく思えることではない。――ましてその『頭を下げる対象』が、明らかに『宝石商としてのスプートニク』を求めて来たのではないとわかっていれば、尚更だ。
昼近くなった頃店に訪れたその婦人は、クリューもよく知る常連客であった。とある資産家の令室で、スプートニクがクリューと出会うより更に前、彼が旅商人をしていたころからの上客である。スプートニクが言うには「若い燕を飼っている気分に浸りたいのだろう」とのことだが、そういう方面の知識が浅いせいか、クリューの目には、どうにも彼女が遊びでいるようには見えない。スプートニクとそれほど歳が離れているようにも見えないし。
それはともかく。彼女はスプートニクがいないことを知ると、長いまつ毛の飾るまぶたをほんの少し落とし、頬に手を当てて、心底残念であるとばかりに溜息をついた。薄紫色のドレスと線の細い体つき――しかし出るところはしっかり出ている――に白い頬も合わさって、その様子はいたく絵になっていたが、クリューにとっては見ていてあまり気分のいいものではなかった。
上げた口角が引きつりそうになるのを必死で我慢。眉根を寄せて、困ったような表情を作る。
「申し訳ありません、エリーゼ様。どなたも取り次ぐな、と申し付けられておりまして」
「そう……なら、仕方ないわね。あの人を困らせるわけにもいかないもの」
あの人、ね。親しげに呼ぶその言葉もまた、腹立たしい。
以前スプートニクに探りを入れてみたところ、客の一人に過ぎないとあっさり言われたし、それに何より、彼が他の人にも同じような『接客』をしているのを見たことがあったので、スプートニクの方は彼女のことを金蔓、もとい重要な顧客以上の何かとは思っていないようであったが、こちらはそうではないようだ。
「残念だけど、今日は帰るわ。アポイントもなしに来た私が良くなかったのだし。――ああ、そうだわ、忘れるところだった。あなた、これをあの人に差し上げてちょうだい」
エリーゼは手提げから、ひとつの紙袋を差し出した。それほど重みもないそれだが、中身は一体何だろう。気にはなったが、袋を開けて覗き込む、などという失礼な行動も憚られる。
「こちらは?」
「フィナンシェっていうお菓子よ。私の住んでいる街の名物なの。あの人、これが好きで、旅をしている頃は私の街に来るといつも買って行ったのよ。だからいつの間にか、あの人が来ると報せを貰うたび、私の方がわざわざ用意しておくようになってしまって……おかしいわね、客は私の方だっていうのに」
そしてころころと、自分の話すそれが如何にも傑作であるとばかりに笑う。
しかしクリューは面白くない。もやもやした、晴れない感情が胸の中に広がる。受け取った袋を潰してしまわないように自制しながら、「ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。
「甘い紅茶によく合うの。良かったらお茶請けにして」
「はい。確かに受け取りまし――」
と、そのとき。
クリューの答えを遮って、バタン、という派手な音がした。
音の発信源を見やると、宝石加工室のドアが開いている。どうやら耳障りなそれは、ドアが荒々しく開けられた音のようだった。
それに気づいて、クリューの表情がつい陰る。その後に起こることが容易に想像できたからだ。宝石加工室の中に篭っている人はただ一人で、そのドアが開いたということはつまり、
「クー、ちょっと郵便を出しに行ってく……ん?」
中にいる人間が出てくるということだ。
予想は的中し、ドアの陰からスプートニクがひょっこりと顔を出した。それを見て思わず唇を噛む。まったくタイミングの悪い店主である、あと十分も後に出てきてくれれば、この人と会わせずに済んだのに!
「スプートニク。お久しぶりです」
そしてこれまた予想通り、挨拶を告げるエリーゼの表情はまるで蕩けるようである。
彼は彼女の存在に気付くと、呆けたような表情をすぐに隠してにっこりと笑った。加工室のドアを閉めるふりをしながら、握っていた封筒ごと右手を背に回す。彼が出したい手紙とやらは、どうやら、エリーゼの目には触れさせたくない代物らしい。
「やァ。これはこれは」
スプートニクが片手を背にやっていた時間はそう長くなく、彼はすぐさまこちらに歩み寄り、先ほどまで封筒を握っていた右手を胸に当てると、「いらっしゃいませ」とエリーゼの前で腰を折った。彼女と相対したスプートニクは、自然とクリューに背を向けることになる。
彼の背中側、ベルトに挟まれた白い封筒は裏面をこちらに見せていて、宛名はわからない。しかし右下に小さく『溢れんばかりの愛を込めて 君のいとしいスプートニクより』と署名があった。それは何かの思いを語る言葉なのか、それともただの冗談なのか。自身の唇が斜に曲がるのを自覚しながらも、クリューは何も言わずに待った。
「失礼を致しました、奥様。いらっしゃっていたのですね、気づきませんで」
「いいえ。お元気そうで何よりです。お忙しそうですね?」
「えェ、まァ。繁忙は景気の良い証拠ですから何よりですが、折角遠いところをいらして下さった奥様に愛を囁く時間すら取れないというのは、なんとも寂しい限りです」
「ま。相も変わらずお口がお上手なんだから」
「おや奥様。上手なのは口だけとお思いで?」
そんなことを言って彼女の腰など引き寄せるのだから、エリーゼの白い頬はみるみるうちに赤くなった。そんな彼女の耳に唇を寄せ、何か――恐らくは睦言――を囁き、驚く彼女に彼はにっこり微笑みかける。
両人の仲睦ましい様子を見せつけられたクリューの堪忍袋の緒が限界を迎えるまでに、それほど時間はかからなかった。が、その一方は顧客で、もう一方は腐っても上司である。怒鳴りつけたくなる衝動をぐっと堪えて、一つ咳払い。非常にわざとらしいものとなったが、構うものか。二人の視線が彼女を向く。
「スプートニクさん、大事な作業があったんじゃないんですか。お店を私に任せたのは、お仕事さぼるためですか」
「あァ、そうだそうだ」
唸るように尋ねると、彼は空を見上げて惚けたように呟いた。エリーゼの腰に回した手を離し、一歩引いて礼をする。
「申し訳ありません、奥様。予定が立て込んでおりまして、この辺で失礼させて頂きます。お目当ての宝飾品がありましたら、こちらの従業員がお相手を致しますが」
「ああ、いいえ。近くまで来たから、あなたの顔を見に立ち寄っただけで、お目当ては特にないの。冷やかしで御免なさいね、もう帰ります」
「それでは、外までお見送りを」
「いいえ、ここで失礼します。侍従と馬車を待たせているの、一人でも大丈夫」
「左様ですか。それではまた、お時間のあるときにいらしてください。どうぞ以後もスプートニク宝石店をご贔屓に」
「ええ。次はきちんと予約を入れて、お伺いします」
店の入口扉を開けながら見送りの言葉をかけるスプートニクに、エリーゼは名残惜しそうな表情をしながらそう答え、「では、また」と再会の約束をすると、扉をくぐって出て行った。
――そうして後に残ったのは、スプートニクとクリューの二人だけ。
売れ行きを確認するように、店内に並べられた商品を眺めて回るスプートニク。その姿をぼんやり眺めながら、クリューがもやもやと一向に晴れない腹を持て余していると、不意にスプートニクが歩みを止めた。
自分の首を撫でながら「さて」と呟く。
「俺も少し出かけてくる」
「どちらです?」
「郵便局」
先ほどエリーゼから隠した封筒を、ベルトから引き抜いてひらりと振る。恋文のような一文の添えられたそれ。
クリューはスプートニクを睨みつけ、とげとげしく言った。
「また女性ですか」
しかし彼は、ひょいと肩を竦めた。
「まァ、女は女だけどな、恐らくはお前が思っているものと違う。魔法少女に対抗できる術を乞う手紙だ」
だがそれでも、クリューの心からもやもやとした感情は消えない。本当にそうであるのなら、『いとしい』なんて書く必要はなかろうに。
けれどスプートニクはそんな彼女の心持ちなど知る由もない。回れ右をして、入口扉に向かおうとする――が。
踏み出そうとした足を、不意に止めた。
どうしたのだろう。怪訝に思ったが、その原因はすぐに知れた。眉を寄せて不快そうにする彼は、ガラスケースに指を添え、支えとしてそこに立っていた。その灰の目は足元を、否、足そのものを見ている。隠すようにさり気なく、ガラスケースから手を離したが、クリューはしっかりそれを見ていた。
自分でも驚くほど、クリューの心から苛立ちはあっさり消えた。代わりに浮かぶのは、傷を受けながらもクリューを庇う彼の姿。思わずきゅっと唇を引いたのは、決して怒りのせいではない。
「私、代わりに行きましょうか」
けれど彼は、首を縦には振らなかった。
「いや。出来る限り早く届けたいから、自分で交渉してくる」
「だけど足は。怪我は大丈夫なんですか」
「痛み止めが効いてるから問題ねェよ」
「嘘つき」
「行ってくる」
クリュー程度の吐く毒など、彼に対して効くわけがない。反論もせず、彼女の提案を呑むこともせず、ただ出掛けの挨拶だけを口にすると、今度はいつも通りスタスタと歩き出した。
何事かを言い出したときの彼は、大体のところ、自分の意見を曲げたりしない。危ないからと引き留めても無駄だろう。クリューがついて行ければいいのだが、店を空けられるわけがない。入口扉を開けるスプートニクを、はらはらとした思いで見送る――
そのときふと、非常に没意義な疑問がクリューの頭を掠めた。
恋文紛いの郵便を受け取るのは、エリーゼのように美しい女性なのだろうか? と。
まるで似合いの恋人同士のように、仲睦まじく笑う二人の姿が思い出される。
例えばあのとき、彼の盾になったのが自分でなくエリーゼであったら。彼は同じように、傷つきながらも彼女を庇っただろうか。
例えば今、負傷した彼の隣に立つのが自分でなくエリーゼであったら。彼女は自分より、彼を支えることが出来るだろうか?
「あの、スプートニクさん」
思ったら、引き止める言葉が口をついて出た。
名を呼ばれた彼は、足を止め、ドアノブを握ったまま振り返る。
「どうした?」
「あの、ええと」
問いを返され、口籠る。何が言いたいのか、自分でもわからないまま引き留めたせいだ。正直に言ってしまえば、腹の底に生まれたものは、ただのやっかみで、でなければやきもちで、さもなくば嫉妬である。いずれにせよ彼に伝えたところでどうにもならない感情で、良くても困らせるだけであり、悪ければ鼻で笑って馬鹿にされ、あしらわれるだけの話である。
ならば自分は何を言ったらいいのか。何を言ったら、晴れるのか。迷って――不意に、手の中の重みを思い出した。
そうだ、これだ。
「言い忘れたことが」
そう、言い忘れたことが。
不思議そうに首を傾げるスプートニクへ、クリューは紙袋をひとつ掲げて見せた。スプートニクに渡してくれと、エリーゼから預った土産である。菓子の名前は、ええと、確か。
「その。エリーゼ様からお菓子頂きました。ふぃなんしぇ、です」
「へェ」
甘い茶によく合う、と教えられたそれ。
菓子の名前を伝えると、スプートニクの口の端が柔らかく歪んだ。好意的なその表情に、エリーゼの語ったものに嘘はなかったのだと知る。自分のためでない微笑みに胸の奥が鈍く痛むが、そんな程度で負けたりはしない。
「あれか。それじゃ――」
「メロンパンも、あるんですけど」
スプートニクの上機嫌な声を遮り、クリューはぽつりと告げた。
「今日のおやつはどちらにしましょう」
拳を握り、唇を結んで、彼の答えを待つ。
スプートニクが迷うことは、なかった。
「メロンパンだな。フィナンシェは明日以降にしよう」
欠片の思考時間も持たずに即答すると、「行ってくる」とクリューにもう一度告げ、出て行った。
行ってらっしゃい、の言葉を掛ける間もなく扉が閉まる。揺れたドアベルの音が幾つか残るが、やがてそれも消えた。
そして静かな店内に、クリュー 一人が残される。
店主の出て行った扉をじっと眺めて、彼女はぽつりと、呟いた。
「……そっか」
紙袋を握った左手をそのままに、空いた右手を頬へと当てる。かつてスプートニクから贈られたイヤリングが、コツンと人さし指に触れた。
クリューが彼に聞いたのは、今日の茶菓子を何にするか、ただそれだけ。蕩ける愛を囁かれたわけでも、優しく抱き寄せられたわけでもなく――しかし何故だか、頬が緩むのを抑えられない。
「そっか」
自分だって、負けていない。
そうだ。なんと言っても自分たちは、魔法少女に勝たなくてはならないのだ。そこらのただの人間に、負けてなんていられない。
きゅうきゅうと締めつけるような胸の痛みが、少しだけ和らいだような気がした。
今日のおやつは、メロンパンと、上等なコーヒーをブラックで。
続く
更新再開します。
お待たせしてしまった方、いらっしゃいましたらすみません。
以後はまた週一更新させて頂く予定です。




