第七章 真実の館~ 支配者の呪われし宿命(5)
永久凍土の凍てつく大地はなおも続いていた。
シルクたちは身を切るような寒さに耐えながらも、ひたすら前へ前へと進んでいた。
冷たく凛とした空気の中で、悠然と待ち構えている魔神の神殿。おぼろげながらも、その距離は近づきつつあった。
それでも、クレオートとまだ合流できない彼女は、両足こそ前進していても、気持ちだけは後ろ向きのままだった。不安と焦燥、そんな二つの言葉が彼女の心を捕えて離さなかった。
「そろそろ寒さの限界だわ。クックルー、また魔法をお願い」
手足がかじかむたびに、クックルーの火殺魔法で寒さを凌いでいたシルクたち。
極寒の地で凍死してしまったら元も子もない。彼の魔法パワーを消費してしまうが、これもやむを得ない救済措置というわけだ。
寒さに弱い彼はそれに反論も異論もないが、魔法パワーが減っていくことに危機感を募らせていた。それもそのはずで、この氷の世界がいつまで続くのか予想ができないからである。
「いったい、いつになったら神殿に着けるんだコケ。オレのパワーもそろそろやばいコケ」
「神殿には一歩ずつでも近づいているわ。魔物が出現しなければいいんだけど」
シルクは先の見えない道のりに表情を曇らせる。
クックルーだけではなく、ワンコーも魔法パワーを温存しているわけではない。さらにいえば、彼女だって体力が万全とは言えないのが実情なのだ。
とはいえ、もう後戻りなんてできるはずもなく、彼女たちは無理にでも奮起しながら、すぐそこまで迫っている魔神の神殿を目指すしかなかった。
「あら、何か聴こえなかった?」
シルクの耳に届いた薄気味悪い笑い声。この寒冷なる空間の中で平然と笑える者、それはどう考えても彼女と同じ人間とは思えない。
こういう時ほど嫌な予感が的中し、出会いたくもない悪魔に遭遇してしまうもの。
氷の壁からせり出てくる禍々しき影。その正体こそ、刺々しい鱗を背中や尻尾に生やし、怪しく光る縦長の瞳孔、そして、両生類特有の粘性のある赤色の肌を持つ生物、それはサラマンダーのような風貌の魔物であった。
「グッフッフ、ここで人間に出会えるとは幸運だ。最高のご馳走に巡り合えたぜ」
バックリと開いた大きな口から、赤く染まった長い舌を覗かせるサラマンダー。この魔物も会話ができるところからして、それ相応の地位に立つ魔族なのであろうか。
魔神の神殿という到達点を前にして、シルクたちは魔物という障壁にぶち当たってしまった。しかし、立ちはだかる敵には断固として立ち向かうしかない。
「みんな、いい? 絶対に気を抜いちゃダメだからね」
「わかってるワン」
「任せろコケ」
声を掛け合って戦闘態勢を整えるシルク、ワンコー、そしてクックルー。
サラマンダーは握り拳をポキポキ鳴らして、自信満々にせせら笑っている。
背筋を伸ばすと二メートル近くある魔物と対峙して、彼女の全身に緊張の汗が滲んでいく。それがこの寒さの中で凍てつき、名剣を持つ両手がブルブルと震えてしまう。
かじかむ両手に気を取られるシルク。そのちょっとした油断が仇となってしまった。
何の前触れもなく、大きな口から突風を吐き出したサラマンダー。それが風殺魔法の真空破となって、彼女目掛けて襲い掛かってきたのだ。
「キャッ!」
シルクは天性の瞬発力で飛び退けたが、ピンク色の武闘着ごと肌に切り傷を負ってしまった。
その反動で名剣を手から離してしまい、バランスを崩して冷たい大地の上に倒れ込んだ彼女、痛みと凍えのせいか、立ち上がるどころか動くことすらままならない。
このままでは危ない! ご主人様のもとへ駆け出そうとするワンコーとクックルー。ところが、魔物がそれを見逃すはずはなかった。
「ワオン!?」
「コケケ!?」
サラマンダーの鱗だらけの尻尾が、大地の氷を剥ぎ取りながら薙ぎ払われる。
それに足をすくわれたワンコーとクックルー。ひんやりとした大地に尻餅を付いた彼らは、制御不能に陥り、じたばたと暴れながら氷上を滑ってしまうのだった。
十秒にも満たないわずかな時間で、身動きの取れない危機的状況に追い込まれた彼女たち。それだけ、サラマンダーという魔族の戦闘能力が秀でているのだろう。
「グッフッフ。ここまでやってきた人間にしては、ちょっとばかし物足りなかったな。まぁ、いい。そろそろ息の根を止めてやるぜ」
両拳に渾身の力を込めて、サラマンダーは魔法パワーを体中に蓄え始める。
ただでさえ赤い肌がみるみる赤みを増していき、その全身から炎のようなものが揺らめく。それこそが火の精霊と言われる所以か、強力な火殺魔法の解放を物語っていた。
絶体絶命のピンチ――! シルクは痛みに耐えて蹲り、ワンコーもクックルーも応戦する魔法を構える余裕などない。
サラマンダーの両手にある炎の塊、火殺魔法の炎玉が今まさに、無防備状態の彼女たちへ投下される、その瞬間だった。
「えっ!?」
シルクの背後から通り過ぎていく風のような残像。
彼女の薄ぼけた視界に映る赤い風、それはまるで真紅の流星のようだった。
(もしかして――!)
アイスリンクの氷上を軽やかに駆け抜ける真紅の騎士が、炎を身に纏ったサラマンダーの胴体に向かって体当たりした。
突き飛ばされた魔物は、呻き声を上げながら仰向けに倒れていった。
大きな衝撃音が響き渡る中で、颯爽と振り返る白馬の王子、ならぬ赤き鎧の剣士。
兜の下から見える襟足まで伸びた黒髪、腰に据えている立派な大剣。紛れもなく、彼こそ、シルクが待ち焦がれていたクレオートの勇ましい姿であった。
「姫、遅れて本当に申し訳ありませんでした。このクレオート、無事に帰還いたしました」
「クレオート!!」
シルクは張り裂けんばかりの声で咆哮した。彼女の瞳は感激の涙で潤んでいる。
ワンコーとクックルーもパッと明るくなり、その表情に安堵の色が浮かんでいた。
クレオートはお姫様のもとへ駆け寄るなり、紳士らしく片膝を氷の上に付く。そして平身低頭し、合流まで遅れてしまったことをしきりに詫びる。
「ここまで遅れてしまったこと、どうかお許しください」
「ああ、クレオート。本当にクレオートなのね? よかった……」
窮地を救ってくれた英雄の登場、何よりも、信頼を寄せる心強い味方との再会に、シルクは痛みに表情を歪めながらも、嬉しさいっぱいで感涙に咽ぶ。
クレオートから抱きかかえられてその身を起こした彼女は、ワンコーから傷を治療してもらい、ようやくホッと胸を撫で下ろすことができた。
やはりと言うべきか、彼女から矢継ぎ早に質問されてしまうクレオート。苦笑いしながら、終始言い訳に追われてしまう彼だった。
「本当に申し訳ございませんでした。村へ戻るなり、いろいろと手間取ってしまいまして」
狂信の村へ到着してからというもの、クレオートは村人たちに捕まっては、根掘り葉掘り尋ねられたり、瓦礫運びまで手伝わされたりと、それはもう散々な目に遭ったそうだ。
おまけに、肝心の忘れ物がなかなか見つからず、いろいろと手間取っているうちに、村を経つのが想定以上に遅くなってしまったとのこと。帰路を急ぐ彼にしてみたら、踏んだり蹴ったりといったところだろう。
苦労の末、長い道のりを舞い戻り、真実の館へと辿り着いた彼は、真実のみ知るエルドーヌから伝言を受け取り、ここまで全速力で駆けつけたというわけだ。
「でも、本当によかったわ。またこうして合流できたんだもの」
冒険パーティーがここに集い、この寒冷の地に暖かい吐息が飽和する。
だが、そんな和やかな雰囲気を邪魔してくる、怒りに満ちた野太い声。それは、起き上がろうとしている魔物サラマンダーのおぞましい怒声だった。
「よくもやってくれたな、おい! どうやら、俺様を本気で怒らせたようだな」
わなわなと全身を震わせながら、縦長の眼光をギロリと鋭くするサラマンダー。地位のある魔族の一員として、人間ごときに舐められたまま黙ってはいられないといったところか。
禍々しい邪気を放つ魔物に立ち向かおうと、クレオートは膝を起こして素早く身を翻した。大剣ストーム・ブレードを腰元から引き抜きながら。
「姫。遅れて到着した分、ここはわたしにお任せください」
「あ、待って、クレオート!」
シルクの制止を振り切って、クレオートは氷の上をダッシュした。
滑りやすい大地に足を取られながらも、立ちはだかる魔物の懐に一気に飛び込んだ彼は、両手に抱えた大剣を目一杯振り上げる。
ところが……。大剣の剣先が、サラマンダーの胴体に食い込むことはなかった。
「むぅ!?」
クレオートは驚きのあまり絶句した。何と、サラマンダーの獰猛な右手が、彼の大剣の両刃をがっちりと握り締めていたのだ。
驚くのはそればかりではない。粘り気があるからだろう、大剣の力を封じ込めるその素手は切り傷一つも負っていない。
「グハハ、残念だったな」
サラマンダーはニヤリと不敵に笑うと、クレオートの胸元へ岩石のような握り拳を叩き落とした。
圧倒的な攻撃力をまともに受けたクレオートは、思い切り背後へと吹き飛ばされてしまった。
制動を失ってしまい、勢いのままに氷上を転がっていく彼。氷の壁に激突する一歩手前で、シルクに受け止められる格好でどうにか止まることができた。
「クレオート、大丈夫!?」
「だ、大丈夫です……。そ、それよりも、あの魔物の拳は、すごい破壊力です」
クレオートは唖然として開いた口が塞がらない。彼が手で触れている真紅の鎧には、サラマンダーの一撃の跡が、拳の形をしたへこみでくっきりと残っていた。
この壮絶なる破壊力を目の当りにして、表情が青ざめていくシルク。ワンコーもクックルーも恐怖に怯え、ブルッと身震いしてしまった。
「こんなパンチを食らっていたら、オイラたちなんて一溜まりもないワン」
「おいおい、ヤバイじゃないか、あんなヤツに勝てるのかコケ!?」
腕を組んでふてぶてしい高笑いを極め込むサラマンダー。まだまだこんなものではないと、彼は余裕綽々の自信を覗かせていた。
「グッハッハ、人間風情がこの俺様に勝てる確率はゼロに等しいのだ。さぁ、いくぞ。これでも食らえっ!」
自信が確信であることを見せ付けるかのごとく、サラマンダーは振り上げた握り拳を氷の大地へ突き落した。
鼓膜を打つ破壊音が轟き、大地が一瞬だけ震動したその刹那、彼の拳の下にある氷にひびが入り、それが地割れを引き起こした。
凍土に生じた亀裂は直線的に突っ走り、瞬く間に、シルクたちのそばへと近づいてくる。
つるつるの氷上を這いつくばろうとする彼女だが、このままでは、亀裂によってできた割れ目の中に落下してしまいそうだ。
「みんな、転がって!」
機転を利かしたシルクの指示が功を奏し、クレオートもスーパーアニマルたちも、転がることで地割れから緊急回避することに成功した。
しかし、魔物の攻撃は留まるところを知らない。サラマンダーの次なる攻撃は、大きく開いた口から突風を吹き付ける、いわゆる風殺魔法の真空破であった。
かまいたちに変化した刃がいくつにも分裂して、氷の上で寝そべっている彼女たちに容赦なく襲い掛かる。
右に転がっては避けて、左に転がっては避ける。それを繰り返す彼女たちだったが、そう簡単にかわし切れるものでもない。
すべての真空の刃が過ぎ去った頃には、彼女たちの疲労感はさらに激しくなり、その肉体にも痛々しい爪痕を残していった。
「姫、お怪我の具合は?」
「な、何とか大丈夫よ。こんなの擦り傷程度だから……」
クレオートとシルクは小声で安否を確かめ合うも、防戦一方のこの状況に、すでに満身創痍といっても過言ではなかった。
そんな人間たちの軟弱さを嘲笑うサラマンダー。肩を揺らして愉快に笑うその振る舞いは、我に敵なしと言わんばかりの傲慢ぶりだ。
「おい、どうした? まさか、参ったなんて言わないよな? 俺様はまだ、半分の力も使ってないんだぜ」
それは虚言でも虚栄でもなく、正真正銘のサラマンダーの計り知れない実力。彼は自らの胸を手で叩いて、かかってこい!と、シルクたちを小馬鹿にしながら挑発している。
悔しそうに唇を噛み締めるシルクとクレオートの二人。攻撃に転じようにも糸口が見つからず、ただじっと氷の上で突っ伏すしかなかった。
しかし、ここで挑発に乗ってしまう無謀な者が一匹。大の負けず嫌いである、攻撃魔法のスペシャリストのクックルーだ。
「こうなったら、こっちも本気を出してやろうじゃないかコケー!」
クックルーは羽根を大きくはばたかせて、お得意の火殺魔法の体勢を整えた。
ここまでの道のりで、かなりの魔法パワーを消耗してしまった彼にとって、この捨て身の攻撃は、この戦闘における最初で最後の魔法と言えなくもない。
「そうだワン! クックルーの魔法の威力を見せ付けてやるワン!」
それをはやし立てるワンコーも、後方支援としてクックルーの背後に陣取った。
羽根の一つ一つが燃え上がる火の玉に変化していくと、クックルーは怒鳴り声を発しながら、その赤々とした火の弾丸を一斉に放出した。
「言っておくが、オレの魔法は火の玉だけじゃないコケ!」
間髪入れずに、血気盛んにそう叫んだクックルーは、大地をえぐるようなポーズで羽根を振り上げた。
それは、彼にとって追い打ちの魔法攻撃。亀裂の入った氷の下から、まるでマグマのごとく真っ赤な火柱が噴き出した。
空中を飛来してくる火の玉、そして、氷の大地を掻き分けてくる火柱。クックルー入魂の火殺魔法が、堂々と立ちはだかるサラマンダーに襲い掛かる。
ところが、サラマンダーはそれを避けようとはしない。いや、むしろ、待ち構えているようにさえ見えた。
その直後、冷気を切り裂く火殺魔法が彼の肉体に多段ヒットした。すると、全身が真っ赤な炎に包まれて、爆発のせいで、煤けた黒煙が周囲を覆い尽くしていく。
「どうだ、オレの魔法の威力を思い知ったかコケー!」
羽根を腕組みみたいに組んで、誇らしげに笑い声を上げるクックルー。しかし、その笑い声も、ワンコーの戦慄く叫び声でかき消されてしまう。
「ア、アイツ、燃えながら笑っているワン!」
「ど、どういうことだコケ!?」
ワンコーとクックルーは目を見開いてびっくり仰天した。
赤い肌を煌々と燃え上がらせながら、黒煙を振り払って姿を現した魔族サラマンダー。痛みも痒みもまったく感じないのか、平然とした仕草で不気味に笑っている。
「グハハ! 火の精を司るこの俺様に、火殺魔法が通用すると思ったか? 愚かな動物どもめ、本物の火殺魔法をたっぷりと味わわせてやるわ!」
サラマンダーは炎を纏った両腕を差し伸べると、気合いすら込めることなく、火殺魔法の中でも威力の高い炎玉を繰り出した。
両腕から放たれた二つの炎玉は、速度を高めながら、冷気の中でうねりを上げて突き進んでいく。
つるつるの床の上で瞬発力が利かず、スーパーアニマルたちは逃げる術を失っていた。火殺魔法の脅威から免れるためには、ワンコーの防御魔法に頼らざるを得なかった。
「オイラの魔法で防御するワン!」
ワンコーとクックルーの目の前に現れた、聖なる光に包まれた防御のカーテン。
そこを目掛けて、もの凄いスピードでぶち当たった二つの炎玉。ここで消滅するかと思いきや、炎のミサイルはますます火力を高めて、光り輝くカーテンを突き破らんばかりに食い込んでくる。
「おい、ダメだ、突き破られちまうコケ!」
「逃げるしかないワン!」
またしても横になって転がり、そこから逃走を図ったワンコーとクックルー。
次の瞬間、ガラスが割れる音とともに、聖なるバリケードは木っ端微塵に砕け散った。炎玉の威力に恐れをなした彼ら、その威力を身を持って体感せずに済んだことだけは不幸中の幸いだった。
その一方、壮絶な火殺魔法を撃ち放ったサラマンダーはというと、火の精霊を自負するだけに、全身を包み込んでいた炎を体内に吸収し、自らの魔法エネルギーとして蓄積してしまっていた。
クックルーの火殺魔法がまるで効果なし、それはすなわち、遠距離攻撃に頼ることができない実情を意味していた。
スーパーアニマルたちが呆然とする中、勇敢にも立ち上がる一人の剣士。接近戦以外に戦う手法がない、そう思い立ったクレオートが、おぼつかない足取りでゆっくりと歩き出す。
「待って、クレオート! いくら何でも無茶よ!」
「姫。わたしが交戦しているうちに、何とか勝機を見出してください」
シルクの甲高い叫び声は、真紅の鎧の剣士を立ち止まらせるには至らなかった。
このクレオート、最大限の力を持って戦う! 消えかけた闘志を奮い起こし、彼は大剣ストーム・ブレードを強く握り締める。
これまでにおいても、巧みなる剣捌きで魔物たちを退治してきた彼。剣豪とも言える実力だからこそ、大剣を駆使しての戦闘にはそれなりの自信もあったのだ。
「グフフ、おもしろい人間だ。さぁ、来い。相手になってやろう」
サラマンダーも接近戦に余程自信があるのだろう。全力でかかってこいと言わんばかりに、引き締まった胸を何回も拳で叩き付けていた。
わずかな間隔を空けて、再び対峙するクレオートとサラマンダー。この凍土の大地に、冷気を凍りつかせるほどの緊迫感が駆け抜ける。
「いくぞ!」
クレオートが大剣を思い切り振り上げる。すると、それを受け止めようと、サラマンダーが強靭な右手の手のひらを掲げる。
何度やっても同じことだと、余裕たっぷりにせせら笑うサラマンダー。
またしても、大剣の刃がその大きな手で取り押さえられてしまう……と思いきや、なぜか大剣の刃が空中でピタリと止まった。
「何!?」
「わたしも、同じパターンで攻撃するほどバカではない!」
大剣を寸止めしたクレオートが、サラマンダーの腹部を狙って肘鉄を食らわした。このフェイントこそが、敵の隙を突く彼なりの攻撃の突破口だったのだ。
クレオートの渾身の肘が丁度鳩尾に入り、サラマンダーは眼を見開いて苦悶の表情を浮かべる。
魔物がわずかに怯んだこのタイミングを待っていた。クレオートは大剣を氷の上に突き刺すと、自由の利く両手を振り抜いてパンチ攻撃を開始した。
まるでマシンガンのごとく、切れのある素早いパンチを繰り出すクレオート。その矢のような連続攻撃により、サラマンダーはじりじりと後退を余儀なくされてしまう。
「わたしのこのパンチを受けてみるがいい!」
形勢逆転に気を良くしたクレオートは、両足をしっかり踏み込んで、闘魂のこもったストレートをお見舞いしようとした。
空を切るようなハイスピードのパンチが、サラマンダーの喉元を絶好な角度で抉った……かに見えたが、そうは問屋が卸さなかった。
クレオートの表情が一瞬で険しくなった。焦りのせいで、兜で隠れた額から数滴の冷や汗が滴ってくる。
それもそのはずで、まるでボールをキャッチするかのごとく、魔物のグローブのような右手が、クレオートのストレートをがっちりと掴んでいたのだ。
「グッフッフ、残念だったな~」
眼をギラリと妖気に光らせるサラマンダー。悪魔パワーに物を言わせて、拳ごとクレオートの体を引き寄せた彼は、もう一方の左手の太い指で彼の首根っこに掴みかかった。
喉元に魔物の指がグイグイと食い込んでいくたびに、クレオートの表情が苦痛の色に染まっていく。呼吸困難に陥り、闘志も意識もすべて遠のいてしまいそうだ。
「さあて、人間の剣士が、どこまで踏ん張れるか楽しみだぜ」
もがき苦しむ人間をなぶり者にし、サラマンダーは愉快に笑う。
このままでは、クレオートが殺されてしまう! シルクはその場に起き上がると、無我夢中で氷の上を駆け出した。
名剣スウォード・パールを両手に抱えてひた走る彼女、その表情は悔しさと怒りに満ちており、誰よりも敬い、愛してやまないパートナーを救うことしか頭になかった。
「クレオートを離しなさーい!」
シルクは名剣の切っ先を突き出して、クレオートの首を絞める魔物のもとへ駆け寄っていく。
サラマンダーは彼女の決死の突進にも動じる様子がない。狡猾な笑みを浮かべて、人間たちのしたたかさと愚かさを嘲っているようだ。
ここでどういうわけか、サラマンダーはいきなり左手の指を緩める。
そのおかげで、苦しみから解放されて息を吐き出すクレオートだったが、それも束の間、魔物の手により、突入してくる彼女の方へ放り投げられてしまった。
滑る氷の上ではブレーキも制御も利かず、彼ら二人はそのまま正面衝突してしまうのであった。
「キャッ!」
「うぐっ!」
シルクとクレオートは体をよろめかせながら、凍てつく大地の上へと倒れ込んでしまった。
まだ息苦しさが残っているのだろう、彼は両膝を付いたまま、ゲホゲホと咳払いを繰り返していた。そんな彼のことを心配し、彼女は鎧越しの背中を必死になって擦っている。
痛ましいシーンを高見の見物で楽しんでいるサラマンダー。高慢に腕組みをし、これまでにないほどの大声で高笑いしていた。
「グァッハッハ! 魔族の世界で高い地位を誇る俺様が、おまえたちのような小賢しい人間にやられるとでも思ったか? 俺様に勝てる者はな、闇魔界を支配している魔神様しかおらんのだ!」
それは高飛車などではない。これまで戦ってきた敵とは比べものにならないパワーを見せ付けられているシルクたち。しかも、氷の上という不利な足場がそれに拍車を掛けていた。
勝てる者は魔神のみ――。これから魔神との戦いに臨もうとする彼女にとって、その言葉はあまりにも厳しい現実を突き付けるものであった。
震え上がる肉体、萎んでいく闘志、視界も薄暗くなり自信を喪失しかけていた彼女。ごく一般的な少女なら、もうすべてを投げ出して逃避しまうところだが、彼女だけは違う。
(あたしは、支配者として生まれた者。こんなところで、諦めるわけにはいかない。神聖なる天神のご加護のためにも!)
ゆっくりと手足を動かして、ふらつきながら立ち上がるシルク。その凛々しい顔つきには、気迫のこもった不屈の精神が宿っている。
この地に閉じ込められた人たちのために、どんなことがあっても諦めるわけにはいかない。大いなる使命が彼女の全神経を鼓舞し、そして活力をもみなぎらせる。
「自惚れないで。あたしの力は、こんなものじゃないわ!」
「ほぉ、これはまた活きのいい小娘だ。よかろう、俺様の究極の炎玉で抹殺してやる」
サラマンダーは蓄えたエネルギーを放出し、全身に燃えたぎる火炎のオーラを纏う。
彼の握り締めた両拳に集まるのは、まさに破滅と絶望を生み出さんばかりの特大の炎玉。その熱量は凄まじく、壁を成している氷をみるみる融かしてしまうほどだ。
シルクは毅然としたまま、名剣の柄を力強く握り締める。そして静かに瞳を閉じて、シルバーのイヤリングに聖なる輝きを求めた。
(神聖なる天神よ。どうか、このあたしに、雷撃の力をお授けください)
瞑想を始めるシルクのことを、口を閉ざしてじっと見つめているクレオート。その時、小さく煌めき出した彼女の耳元の装飾品に、彼はすっかり目を奪われてしまっていた。
「この究極の炎玉は避けられんぞ。安心しろ。熱さも痛みも感じることなく、あっという間にあの世行きだ」
サラマンダーはそんな脅し文句を零して、煌々と燃えさかる両拳を頭上へと持ち上げる。それを振り下ろした後、この凍土の地が灼熱の焦土と化すといっても過言ではない。
計り知れない熱気のせいか、それとも死への恐怖なのか、ワンコーとクックルーは口をパクパクと痙攣させて、腰が抜けたようにその場であたふたしていた。
それでも、彼らは氷の上を四つん這いになって這っていき、どうにかシルクの足元まで辿り着いた。
「ひ、姫。どうするんだワン! オ、オイラたち、このまま焼き尽くされてしまうのかワン!?」
「冗談じゃないコケ! このまま死ぬなんてまっぴら御免だ、シルク、どうにかしてくれコケ!」
みっともないなんて言ってはいられない。スーパーアニマルたちは意地も誇りもかなぐり捨てて、ワンワン、コケコッコーと泣き喚きながら、シルクの足にすがりついて助けを求めた。
クレオートも冷静としながらも、静かなる鼓動は緊張のせいで激しく高鳴っており、今はただ、彼女の聖なる守り神の再来に期待するしかなかった。
「みんな、あたしの本当の力を信じて」
それは、仲間たちを勇気付ける逞しい一言だった。
シルクに眠りし天神の力が、今まさに、稲光を発しながら名剣に乗り移った。
黄色く瞬く名剣スウォード・パールを引っ提げて、彼女は一歩、また一歩と、静かながらも力強く両足を踏みしめていく。
サラマンダーはニヤリと不敵に微笑む。エネルギーを極限まで高めた炎玉、それを放出する準備がいよいよ整ったようだ。
「この炎玉で塵となって砕け散れぇ~!」
こだまするような叫び声を上げながら、サラマンダーは真っ赤な炎の爆弾を放り投げた。
とてつもなく熱く、大きく、そして最大限の魔法パワーを蓄えた炎玉が、轟音を響かせながらシルクに向かって飛来してきた。
とても見ていられないワンコーとクックルーは、グッと目を覆い、寄り添い合って蹲っている。
歯を食いしばって立ち上がろうとしたクレオートだが、まだ息が苦しいのか咽返ってしまい、助力することもできずにその場で跪くのだった。
たった一人立ち向かう彼女、破滅と絶望を予告する炎爆弾の着弾が、もうすぐそこまで迫ってきていた――!
「はぁぁっ!」
シルクは唸り声を張り上げて、稲妻がほとばしる名剣を高々と振り上げる。
そして、冷気の中に響き渡る透き通った声で、彼女は気合とともに支配者だけが持つ神通力をここに解き放つ。
「放て、雷撃!」
名剣スウォードパールが振り下ろされると、どこからともなく激しい雷鳴が轟いた。
すると、名剣から放たれた黄色い稲妻が眩しく輝き、剣筋の軌跡を辿るように光の弧を描く。やがて、それは鋭利な凶器に形を変えて、冷たい空気を真っ直ぐに切り裂いていく。
怒涛のごとく迫りくる炎の爆弾、それを迎え撃とうとする稲妻の刃。
魔族と少女の全身全霊なる魔法力の勝負、それは、思いのほかあっけないものであった。
「バ、バカな! いったい、どうなっているんだっ!?」
そう上擦った叫び声を口にしたのは、見開いた眼に焦りの色を滲ませている魔族サラマンダーだった。
彼が驚愕の表情をしてしまうのも無理はない。火殺魔法の限りを尽くしたあの炎玉が、シルクの放った雷撃の刃によって一刀両断されてしまったからだ。
真っ二つに引き裂かれた炎の欠片は、彼女を焼き尽くすこともなく氷の壁へと激突し、蒸気を噴き上げるほどの大爆発を起こした。
炎玉を玉砕してもなお、神々しさを維持したままの雷光の刃は、パワーとスピードを落としながらも、サラマンダー目掛けて冷気の中を突っ走っていた。
「な、何だぁ、この稲妻はぁぁ!?」
そのわずか一秒後、サラマンダーの全身に電流が駆け巡った。
稲妻は粘性のある赤い皮膚をあっという間に流れていき、彼の両足がアースとなって落雷のように氷の大地へ落ちていった。
感電してしまったサラマンダーは、顔からも、肌からも、鱗を背負った背中や尻尾からも、焦げ付いた匂いと一緒に黒煙が燻っている。
それでも、縦長の眼は弱々しくも不気味に光っていた。神聖なる天神の裁きを持ってしても、彼を死滅させるには至らなかったようだ。
「こ、この、お、俺、様が……。あ、あ、ありえん……。こ、こんなことが……」
丸焦げになった両手をだらりと下げて、サラマンダーはぎこちない足取りで前進を始めた。
右へふらり、左へふらりと、千鳥足で氷の上を歩いている彼、その怪しく光る眼は、自らをここまで追い込んだ憎らしきシルクのことを見据えていた。
この魔物は不死身なのか――!? シルクは戦慄のあまり一瞬怯むも、すぐに名剣を構える。
一歩ずつ、ふらつきながら行進していた魔物だったが、やはり、受けたダメージは相当なものであった。
サラマンダーは数歩だけ前に進んだ後、力尽きるように膝から崩れ落ちると、儚くも、己の力を誇示するためにこじ開けた、ひびの入った大地の割れ目という奈落の底へと落下していくのだった。
「勝った……」
手に汗握るバトルにようやく終止符を打ったシルク。大きな溜め息をつき、その場にへたれ込んでしまった。
瞑っていた目をそっと開けるワンコーとクックルー。冷え冷えとする静寂な空間の中に、あの屈強のモンスターがいないこと、何よりも、ご主人様が無事だったことに安堵の吐息を漏らした。
ゆっくりとした足つきで、彼女のそばにやってきたクレオート。従者のように片膝を落とした彼は、その功績を称えながら優しい笑みを浮かべていた。
「姫、お見事でした。天神の力とも言える雷撃を、自由自在にコントロールできるようになったのですね」
「そう、かも知れない。でもね、あたし自身、まだよくわからないこともあるの」
勝利をその手にしても、どこか不安な面持ちだったシルク。憂慮に思ってしまう裏側には、支配者という存在そのものに苦悩する自分の心が映っていたのだろうか。
雷撃による著しい体力の消耗のせいか、彼女は自分の気力で立ち上がることができない。
クレオートからそっと手を差し伸べられて、ようやく微笑を取り戻した彼女は、その手を借りてやっと起き上がることができた。
「ねぇ、クレオート」
「姫、どうかなさいましたか?」
手を握り合ったまま、シルクとクレオートは真剣な眼差しを向け合う。
「あなたに、伝えておかなければいけない話があるの。すべての真実と、このあたしの宿命を……」
それよりもまず、この寒冷なる凍土の大地から脱することが先決。
シルクとクレオート、そしてワンコーとクックルーは、残された魔法パワーを駆使しながら、魔神の神殿へと続く道のりの先へと急いだ。
すべての真実と、このあたしの宿命――。
支配者という定めを背負って生まれてきた彼女は、宿命の赴くままに、大いなる使命にその命を捧げる決意を語ることになる。




