馬と草原
翌朝、いつもより少し早い時間にガリアさんが部屋へとやってきた。
今日はこちらを、と差し出されたのはつばの広い帽子とシャツに上着の動きやすそうなパンツスタイルだった。いかにも丈夫そうなブーツも一緒だったから、昨日ガリアさんが言ったとおり初の乗馬になるのだろう。
フレッシュジュースとパンとスクランブルエッグの並んだボリュームのある朝食には伯爵も一緒だった。それからのんびりと出かけることになった。
御者台にはガリアさんと赤カブ頭のタンザイトさんが座って、反動の少ない箱馬車の中では伯爵と二人きりだった。四頭立てなので馬車の速度は思ったよりも早い。屋敷の前の森をあっという間に抜けると街を軽快に駆け抜けていく。
ちょうど車に乗った気分で外を眺めていると、伯爵が「そういえば」と声を掛けてきた。伯爵は私と同じような乗馬スタイルにフックコートを羽織っている。傍らの杖の頭をしわ一つない、今日は皮の手袋で撫でた。
「今日の行き先は言っていたかな」
「いいえ」
私が答えると、伯爵は頷くように片眼鏡の顔を私に向けた。
「今日は久し振りに馬を走らせたくてね。領地の端にあたる草原まで行こうと思う」
ほとんど一日がかりだね、と付け加えて昼食は料理長の特製だから期待していいとも伯爵は付け足した。
「馬に乗ったことは?」
「ありません」
「なら、今日が初体験だね」
無表情なはずの伯爵が少し嬉しそうなので、私も少しだけ笑った。
動物をそれほど怖がるタチではないけど、馬って思った以上に大きくて驚いた。
正直あれに一人で乗れる気はしない。
そんな会話を皮切りにして、伯爵と他愛もない話していたら、私の派遣社員としての悲惨な日常を話していたところで目的地についたのか馬車が止まって、ガリアさんがドアを開いてくれた。
すでに用意してくれていた足場を降りて、目の前の光景に叫びたくなった。
草原だ。
障害物は低い木ぐらいで、あとは果てしなく草原が続いている。
あとはどこまでも続くような青空。
ここで叫ぶなら何だろう。
やっほー? たりほー? たまや?
どれも違うようなあっているような気がしたが、結局私は気の利いた叫び声も出せず、ただ目の前のパノラマを見つめた。
今まで大自然で暮らすことが多かったが、ここまで開けた場所へ出るのは初めてだ。
山も川もない、ただ草原が広がる大地。
「気に入ったかね」
いつのまにか馬を引いてやってきた伯爵が馬の首を撫でながら言った。
「ここは我が祖先が初めてやってきた土地でね。そのころには草の一つもなかったそうだよ」
ここが。
伯爵の祖先が、迷い人の仲間の提案で草の種をまいた土地。
伯爵家の、最初の土地だ。
「私は幼い頃からここが好きでね。父にせがんでよく連れてきてもらった」
この無表情な紳士にも子供の頃があったのかと思うとおかしくなって、思わず笑ってしまった。だがそれも、
「馬で駆けるととても気持ちがいいよ」
ぽいっと馬の手綱を渡されるまでだった。
恐る恐る馬の首に触らせてもらい、ぎゃーぎゃー叫びながらやっと馬の背に一人で乗れるようになった頃には、すでにお腹がぐーぐーと鳴りだしていた。
幸い、周りには良い教師ばかりだったので落馬することはなかったが、慣れないことに足腰がすでに悲鳴を上げている。
馬車を使ってパラソルを立てて、その日陰にみんなで座るようになってから、私は崩れおちるように倒れた。
「大丈夫ですか?」
同じように馬に乗っていたはずのガリアさんは乗馬スタイルでそのプロポーションを晒しながら、私と違って涼しい美しい顔だ。
私はガリアさんに差しだされたレモン水を受け取って一息に飲んだ。
「……才能ないので大丈夫じゃないです」
私にあてがわれたのは大人しい馬なのか、私の叫び声にも迷惑そうにだが付き合ってくれる馬さまなので暴れはしないが、ろくに背にも乗れないやつが相手ではせっかくの良い馬も宝の持ち腐れだ。
「おひとりで乗れるようになったじゃありませんか。午後からは軽く走らせてみるとよろしいですよ」
軽く言ってくれるが、まず馬の背の高さに怯えるんじゃ話にならないと思うんです。ガリアさん。
「まぁ、私がついているから大丈夫だよ」
そう他人事のように言った伯爵は料理長特製のサンドイッチを頬張っていた。がぶりとかぶっているのに上品に見えるってどんな紳士特典なんだ。私がかぶるとリスが必死に餌を頬張っているようにしか見えない。料理長のサンドイッチは、手の平大の大きさのパンに肉や野菜をふんだんに挟んでいるものの、一口で食べられる高さに作ってあって食べやすいし美味しかった。
「私が支えていますから、安心して乗って下さい」
昼食のあとはガリアさんの宣言通り、恐怖の乗馬でした。私に拒否権はない。
タンザイトさんが手綱持ってくれるからって、かなり怖い。
うわわ、あわわと言いながら乗ると、視界は空に近づいて一段と広い。
「そのまま馬の足並みに合わせて乗って」
無理言うな。
「私が後ろに乗ってあなたの腰を支えてお教えしましょうか?」
いらないよ。口ばっか軽い赤カブお兄さんめ。
ホストの接待乗馬に耐えつつ、しばらくしたら私は一人で馬をゆっくりとだが歩かせることが出来るようになっていた。
それを見ていた伯爵が、ちょっと走ろうと提案してきたので渋々頷いた。怖いんだよまだ。伯爵と私は、少し離れたところを行くタンザイトさんとガリアさんの馬を背にかぽかぽと草原を歩きだすことにした。走れないんです。
しばらくすると、馬ののんびりとした蹄の音を聞きながら、草原を見つめる余裕も出てきたので、私はぼんやりと草の海原を見つめた。
広い。
改めて、世界の広さを実感したような心地だった。
「知っているかね」
私の気持ちを覗いたように、伯爵は口火を切った。
「この草原はどこまでも続いているように見えるが、あと十里ほど行くと砂漠になるのだよ」
砂漠、と聞いて私はすぐその光景を思い浮かべることが出来なかった。
瑞々しい草地の中にいるから、それは余計に。
「いつか話したかね。西国という国は他のどの国よりも厳しい土地柄なのだよ」
伯爵はその目線の先に西国の大地すべてを見るような遠い目で私と同じように草原を見渡した。
「私の領地よりさらに西には広大な砂漠があり、逆に東の果てには雪も降らない極寒の荒地だ。作物の育つ土地がもともと少ないから、今でこそ王に従っているが領地の一つ一つが以前は国で、戦の絶えない土地だった」
その戦の中で、伯爵のご先祖さまは今の王様の一族に従った。
そしてこの土地を治めることになった。
いつか聞いた、この土地の歴史を思い出して、私は余計に草原が広く見えた。
「君がもし、北国へ行くというのなら、この先の砂漠を越えなければならない」
そう言われて私は伯爵を振り返る。
伯爵はいつもと変わらない無表情だったけれど、いつもより優しいような気がした。
「怖いかね」
尋ねるとも、確認ともとれない伯爵の言葉に私は思わず馬を止めた。
同じように伯爵は私の隣で馬を止めた。
怖い、のだろうか。
今度の旅は無理矢理じゃない。
必要に迫られてもいない。
ただ、私の目的のための旅だ。
私は、このままここに居れば幸せになれると思う。
今だって、幸せだ。
この温かい場所を手放すことなどないと思う。
私が怖いのは、怪我をすることよりも行き倒れることよりも、嘘をつかれることだ。
それは何度経験しても、心が血を流す。
伯爵は私を裏切らない。
それは、分かっているつもりだ。
怖いのは、私が伯爵を裏切ることだ。
自分がもしも嘘をつけば、きっと伯爵が嘘をつかれた私と同じように傷つく。たとえ、無表情で何考えているか分からない変人であっても、伯爵は温かい心の持ち主だから。
ふと、馬がうずうずと走りたそうにしていることに気がついた。
馬は走る生き物だ。
立ち止まっていることは苦手なのかもしれない。
私は歩くように手綱を緩めて、馬を歩かせた。
いつだったか。
今と同じようなことを考えたことがある。
俊藍と別れたときだ。
彼は私の半身で、きっと私を幸せにしてくれると思った。
私が望んだら、私を連れて帰ってくれたのかもしれない。
けれど、私は望まなかった。
彼には彼の人生があって、私はそれに必要ないと思った。
けれど、置いていかれたと思った。裏切られたとも思った。
私は、一人ではいたくなかった。誰より近いと思ったからなおさら、彼にはそばに居て欲しかったし、私を大切にしてほしかった。
それでも、私は半分の私を捨てられなかった。
全部、無駄になってしまうような気がしたのだ。
今までの、半分の私の人生が。
あの人と出会うために生きてきたのだと言えば、聞こえは良いかもしれないが、私にはそれが身投げに見えた。俊藍に、自分の全部を放り込んでしまうような。
私は今までの人生が無駄だと思っていない。
そりゃ、良いことなんかほとんど無かった。
こちらの世界に落ちたのだって偶然で、不慮の事故だ。
こちらの世界に落ちてからも散々だった。
同じ世界から落ちてきたはずの人には裏切られるし、攫われるし、追いかけまわされるし、死にそうになるし、殺されそうになるし。
良い人にも悪いやつにも出会った。
良いことだってあったし、悪いことも山ほどあった。
全部私のものだ。
私の体験であって、私の傷であって、私の思い出だ。
俊藍のものじゃない。
彼は私の全部を包むように守ってくれるけれど、彼は私のものじゃないし、私も彼のものじゃない。
そう考えると、魂の半身なんてものは物凄く面倒臭いものに思えてきた。
だって、自分と同じくらい大事でお互い必要不可欠なんて錯覚起こす生き物が自分以外にもう一人いるのだ。自分のことで手一杯なのに、そこまで面倒見切れない。
俊藍には一宿一飯ならぬ何食か分の恩義ある。それだけだ。
そう考えると、ひどく肩の力が抜けた。
私の力が抜けたことを悟ったのか、突然今までゆらゆらと歩いていた馬が駆け出した。
「うわ!」
ぐんっと体を置いていかれるような反動がして、手綱にしがみつく。
後ろで誰かが叫んでいるような気もしたが、もう自分のことでいっぱいだ。
落ちないように、手綱とたてがみを握り締めて、馬の背にしがみついた。
思いがけないスピードに、私は舌をかまないように前を向いた。
速い。
凪いだ海面のような草原を斬り裂くように走っている。
風のごうごうという音と一緒に、私は世界を瞬く音を聞いた気がした。
今、この瞬間。
確実に波打つ私と、この世界の。
ほとんど放心しかけた私の手綱を誰かがぐっと握ったかと思うと、馬にどんと私の他の誰かが体重をかけた。
わななきと一緒に、馬が竿立ちになる。
落ちる!
そう思ったが、私の背中に誰かが居た。
馬をなだめる皮手袋に見憶えがある。
慌てて振り返ると、
「大丈夫かね」
息一つ乱していない伯爵が居た。
舌を噛むかと思った。
それを辛うじてこらえて、辺りを見回すと、伯爵の馬が所在なさげに辺りをうろうろとしていて、その後ろから荒々しい馬蹄の音が近付いてくる。
「はぁあああああああ助かったぁああああ」
「溜息をつきたいのはこちらの方だよ」
思わずもたれかかった伯爵の胸が、見た目よりも早く鼓動しているのに気がついた。
無表情だが、心配させたらしい。
私の頭の斜め上にある伯爵の顔を見上げたら、あるはずの片眼鏡がない。
入れ墨がこめかみから縦に入った顔は紳士というよりインテリなやくざに見える。
何となくバツの悪い気がして、もたれかかるのをやめた。
というのも、我に返ってみると、私の後ろに伯爵が乗り、私の手綱を握っているので私はすっかり伯爵に囲い込まれているように見える。というか言葉通りだ。
わたわたと視線をさまよわせる私を見下ろして、伯爵は静かに言った。
「―――決めたのかね」
何を、と訊かなかった。だから、
「はい」
はっきりと応えた。
「北国へ行きます」
何も知らないままではいられない。
きっと、それが私なのだろう。
我ながら馬鹿だ。
けれど、目の前の人が誉めるようにうっすらと微笑んでくれるから、私はきっとそのままだ。
「未来の父としては、大事な娘を北国なんぞにやりたくはないがね」
伯爵は少しだけおどけるように言って、
「メフィステニス領領主としては、ぜひ行ってほしい。きっと君ならば、より良い答えを見つけられるだろう」
領主としての重い言葉を乗せられた。
これが、領主と貴族としての責任というやつなのだろうか。
「ヨウコ」
誰に呼ばれたのかわからなくなった。
けれど、目の前には伯爵だけ。
は、初めて名前呼ばれた。
訳も分からず顔が熱くなる。どっかに穴があったら入りたいというか、誰か殴りたいというか、ちょっと叫びたい。
伯爵の方は私の動揺を知ってか知らずか、面白がるように口の端を上げた。
「行っておいで。君の家はここだからね」
いつでも帰ってくるといい。
目の端がとても熱くてたまらない。
だから、思い切り抱きついてやった。
未来のお父様に。




