嫉妬渦巻く湖の畔13
妖精は酷薄の笑みで左手をディーネの顎に滑らせてから背中にまわし、右手をお腹に添える。
それまで妖精を睨んでいたディーネだったが、お腹に手を添えられた瞬間に息をのみ、表情に恐怖が滲んだ。
「――や…めて……お願い………」
あの水球を突きつけられた時は歯を食いしばるだけで乞わなかった許しを、ディーネは今、縋るように乞うた。
妖精の手が光り、ずぶりとディーネのお腹の中に埋め込まれた。ぞわりとした寒気と吐き気がこみ上げる。
「ディーネ!」
駆け寄ろうとしたが、妖精に一瞥されると再び体が痺れて動けなくなる。
「お願い、やめて!!」
痛みはないようだったが、ディーネは顔面蒼白で叫んだ。
何かを探るように妖精の腕が蠢くのを、ディーネは恐怖に見開かれた目で見ていた。
「やめてやめてやめてぇっ!!」
必死の懇願空しく、妖精は手探りで何かを探し当てたのか、にやっと口角を上げてから腕を引き抜いた。
「――…………っ!!」
今度こそ激痛に耐えるようにディーネはお腹を抱えて呻き、妖精の手の中には光輝く卵のような何かが握られていた。
「あなたを解放する代償に、これくらいはもらっていくわ」
妖精は追い縋ろうとするディーネを無視して立ち上がった。
「ダメ、それだけは――っ!!」
ディーネは額に汗を滲ませ、お腹を抱えながら必死に叫んで手を伸ばす。
「これだけで許してあげるんだから、感謝してもらいたいくらいだわ」
ふんと不機嫌に鼻を鳴らしてディーネの手を逃れた妖精は、ディーネにしたのと同じように自分のお腹に手を入れ光る卵をしまい込む。
そして、静かに湖の上を歩き始めた。
「嫌……行かないで! お願いだから返して!!」
動けないディーネが必死に叫んでも、妖精は一顧だにしなかった。
妖精が湖の半分ほどまで遠ざかった途端、身体の自由が戻ってきた。
同時に自由が戻ったらしいディーネが後を追いかけようと、ざばざばと水をかき分けて湖に飛び込んでいくのを、慌てて駆け寄って掴まえる。
「ディーネ、だめだ。追うな!」
「離してください! あれだけは、失いたくないんです!!」
ディーネはなおも私の手を振り払って追いかけようと暴れた。加減できないほどの力で押さえ込まなければ、止められない抵抗だった。
「落ち着け!!」
肩が抜けるんじゃないかという勢いで腕を引いて、振り向かせる。
「落ち着いています!!」
見上げてきたディーネの目は、間違いなく正気だった。
「でも、子供を――あなたがくれたあの子を代償にするくらいなら、私が死んだ方がどれだけよかったか!!」
助けを求め縋るような焦燥とそれ以上の強い決意に、一瞬、けおされた。
わずかに力が緩んだ隙を逃さず、ディーネは腕を振り払って再び妖精を追いかけようと踏み出した。
ディーネが水をかき分ける音に我に返り、もう一度追いかけて捕まえた途端、唐突にかくんと抵抗が止んだ。
何事かと戸惑いながらも支えていると、ディーネは痛みに耐えるように両手でお腹を抱えていて――湖の水が、鮮血に染まっていった。
「どこか、怪我でも――」
ぞくりと背筋が凍った。
「だめ、行かないで……返して……それだけは、返して……」
私の言葉は、彼女の耳に届かないようだった。
遠ざかっていく意識を必死につなぎ止めつつ、何度も何度も返してと呻き激痛に耐えながら視線だけで妖精を追いかけ続けていた。
妖精は、湖の中央でゆっくりと振り返った。
「――覚悟しておきなさい。今はまだ、魔法の残滓でそんな顔でも愛してるなんて錯覚してるだけなんだから。彼が夢から覚めてあなたが絶望するのを、楽しみにしていてあげる」
最後まで冷淡な笑みを浮かべた妖精が現れた時と同じく光る水に姿を変えて消えてしまうと、ディーネは絶望と失意の中で完全に意識を手放した。
もう一度顔を上げると、虹色の湖面は何事もなかったかのように、ただ小さな波紋を描いているだけだった。
やがて音もなく静かに波紋は収縮し、消えていった。
森も、湖も、風も。
すべてが、まるで悪い夢でも見ていたのだろうかと錯覚がするほど、穏やかに揺れていた。
けれどアベルは泥濘の中で倒れ、腕の中で気を失っているディーネの顔の半分は爛れていて――夢などではなかったことを、いやがおうにも証明していた。




