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妖精の湖  作者: 葵生りん
3章
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嫉妬渦巻く湖の畔9



「ディーネを、離せ!!」


 想いを乗せて声の限りに叫び、ありったけの力を腕に込めると、切っ先がじわりと妖精に向いた。


「あらあら。慣れないのにこんな危ないものを人に向けたらいけないわね」

「…………っ!」


 妖精は笑いながら一歩身を引き、今度は剣先にディーネを押し出した。


「手元が狂って大事な私の器に傷がついたら大変だもの、ねぇ?」


 しなりとした動き、甘えるような声、妖艶な瞳。

 目があった瞬間にくらりと酔うような、目眩にも似た感覚がして腕が、びりびりと痺れた。

 クシャッという物音で、剣を落としたことを知る。

 拾おうと思っても、全身が痺れていて動かない。

 どれだけ強く動けと念じても、じんじんと痛みを感じるだけで指一本たりとも動かない。


「お前の、ものじゃ……ない……っ!!」


 唯一口だけが、なんとか動いた。

 もう一度、妖精を睨みつけて叫ぶ。


「いいえ、私のものよ。この子も、そして、あなたもね」


 冷笑でひたと見据えられた途端、悪寒が足下から脳天までを駆け抜けて、口まで動かなくなった。


「……最近めっきり会いにきてくれなくて、淋しかったわ」


 左手にディーネを抱いたままゆっくりと距離を詰めてくる妖精の右手が、私に伸ばされる。

 あの日と同じ、くらりと酔うような美しい笑顔に、憐れみを誘う寂しさを滲ませて。

 妖精が返事を求めて私と目を合わせた途端、喉に詰まっていたものが取れたような感覚がして口が動くようになる。


「………な…にが、淋しいだ。一度も、出てきたことなんかなかったくせに」


 息をする代わりに絞り出した返事を、妖精はころころと喉の奥で笑った。


「ええ。それはだって、会ってしまったら私に会いたいって焦がれて泣いてくれなくなるじゃない?」


 頬から顎につうっと滑る指先の艶めかしい動きに、ぐっと喉が鳴る。

 だが、ディーネにこんな妖精に心を寄せ続けたと思われる不快感のほうがずっと強い。


「………こんな性悪な妖精だとは知らなかったからな」


 息を殺し、必死に睨みつけると、妖精の笑顔が僅かに歪んだ。


「妖精。――妖精、ね……」


 頬に細い指を当てた妖精はその響きを噛みしめるように呟き、細くて赤い口の端が三日月のように持ち上げられた。


「そんなの、あなたたちが勝手にそう思っただけじゃない?」

「じゃあ、お前はいったい何者なんだ?」

「―――さぁ? 何者なのかしらね?」


 面白がってからかっているような響きと他人事のようにどうでもよさそうなシラけた空気とが奇妙に混ざりあった言葉を吐き捨てた妖精が、すっと目と鼻の先まで顔を寄せた。


 瞳。

 宵闇のような紫水晶の深い色合いの瞳。

 逸らすことを許さないこの距離でその瞳を覗き込むと、魂を吸い込まれてしまいそうな気がした。


「そんなこと、どうでもいいじゃない?」


 ブランデーのような、とろりと甘い香りが漂ってきそうな声だった。

 その声が紡がれる陶磁器のように白くなめらかな喉。

 薄い唇 が  美し    く て


 そう……そんなことは、どう で  も――




「――ス様! アレス様ぁっ!!」

「…………っ!」


 ディーネの悲鳴に唐突に夢から引っ張り出されたような気分がして、強く目を瞑って深く呼吸をし、冷静でいられるよう気を強く持ち直した。

 妖精は少しだけ残念そうに身を引いただけだった。


「ふぅ、やっぱり歳を取るとどうしても魅了チャームの効きが悪くなるわね」


 妖精は自分の頬を撫でて肌の調子を確認しながらボヤき、


「まぁいいわ、もう少しの辛抱だものね」


 うっとりとディーネの頬を撫でながら独白した。


「……アレス様に、なにをしたんです……?」


 ディーネは震えを押さえきれない声で訊ねた。問われた妖精はふんわりと無邪気な笑みを浮かべる。


「たいしたことじゃないわよ? 一生私を愛してくれるって約束してもらっただけだもの。ねぇ?」


 にこやかな笑みを添えて同意を求めてきたが、返事なんかしたくなくてただただ歯噛みし、睨み返した。

 ディーネはぎゅっと唇を噛む。


「さっきみたいな魔法でアレス様を惑わせて、心を縛る契約を無理強いしたんですね?」

「人聞きの悪いこと。あんなのはただのおまじない(・・・・・)よ」


 ディーネはさらに強く、血が滲むほど唇を噛んだが、それでも押さえきれずに唇が震えていた。潤んだ瞳で睨まれた妖精は、不快感を露わにする。


「あぁ口惜しい。こんな遊び半分のまじないがやっとだなんて。それもこれも全部、忌々しいあの男のせいだっていうのに!」


 一瞬だけ美麗な顔を憎々しく歪めた妖精は、しかしすぐに大きくひとつ息を吐くと猫のような笑顔を私に向けてきた。


「だけど契約は契約。あなたの心は一生私に捧げ続けるの」


 ディーネは何かを言おうとしたが声が出ないようだった。

 妖精は私を愛おしげに見つめ、頬に指を伸ばした。

 風のようにふわりと頬を撫でた指先はひんやりと冷たい。

 それが唇に触れて、ゾクゾクと寒気がした。


「あなたのことはこの百年の間で一番のお気に入りだったのよ? とっても一途で、バカにされて笑われても孤立しても、何を失おうともずっと私を想い続けてくれた。孤立すればするほど、強く私を想って泣いてくれた……」

「………黙れ」


 陶然と酔いしれる妖精の腕の中でディーネが俯いて歯を食いしばっているのを見るのが、なによりも辛かった。

 強引に妖精のおしゃべりと遮ると、妖精はそれをくすくすと楽しくて仕方なさそうに忍び笑う。


「あら、照れなくてもいいじゃない? 本当のことでしょう?」


 事実だからこそ、吐き気がするほど自分に腹が立っていた。


「そこに、この子が嫁いできたの」


 妖精は私の怒りを嬉しそうに眺めながらディーネの顎をくいと引き寄せ、頬を寄せる。


「忘れかけていた私への気持ちを思いだして、悩んだり苦しんだりしてる姿を見ているのは最高の見物みものだったわよ。……ちょっと私とこの子が混乱して勘違いしちゃうのは不愉快だったけど。でも、それはそれで大喧嘩の原因になって面白かったし、どうせこれは未来の私だから大目に見てあげることにしたのよ」


 妖精は本当に心の底から私やディーネを弄ぶことを楽しんでいて、悪びれた様子など欠片もなかった。

 もとが端正な顔立ちだけに、その笑顔はよけいに醜悪に歪んで見え――その瞬間、心の中でふつりと糸が切れるような感覚がした。

 それは綱のように太く縒り合わされたうちの細い一本の糸だけれど。

 それでも確かに心の中でなにかが切れる音を、聞いた。



 私は6年もこんなものに心を縛られていたのか。

 ディーネは、生まれてからずっとこんなものに運命を握られて弄ばれて――。



 ディーネの境遇を思うと、怒りと憤りとがふつふつと腹の中で煮えくり返って濃度を増していく。



「……ディーネの呪いを解け。ディーネにいったいなんの罪があるっていうんだ! ただ先祖が約束を破ったというだけで、なんで一生を弄ばれなければならない!!」

「嫌よ」


 迸った怒号を、妖精は涼しげに笑って受け流した。

 きっぱりとした短い返答は、決して付け入る余地を与えなかった。


「恨むなら約束を破ったあの男を恨んでちょうだい。私だってあの男のせいでこんなわずかなまじないと魂以外、全部失ったのよ」


 妖精は言いながらディーネの首筋に舌を這わせ、腰をさわさわと艶めかしく撫でた。


「――……っ!」


 びくと身体を震わせたディーネが俯いて唇を噛むと、妖精はさらに楽しそうに耳を噛み、胸を撫で回す。


「んふふ、敏感ね」

「ディーネに、触るな!!」


 眦に涙を滲ませ唇を噛んで耐えようとしているディーネの姿を見るに耐えず、再び叫ぶ。


「……ねぇ、この身体はどうだった?」


 妖精はなおさら妖艶な手つきでディーネに触り続けながら、私に残酷なほど美しい笑みを向けた。


「この身体を手に入れたら、あなたはまた毎日ここに通ってくれるのでしょうね」


 その想像が脳裏に閃くと、肺が凍ったように息苦しくなった。


「今度は時々遠くに現れてみるのはどうかしら? 会えなくて泣き、姿を見ては泣くのでしょう?」


 ディーネがゆるゆると首を振り、ぽろぽろと涙がこぼれた。

 やめて、と口が動いたが、声はでなかった。


「愛しくて。寂しくて。後ろめたくて。憎くて。悔しくて。でも、会いたい。会わずにはいられない――そうやって苦悩する姿を、どのくらい長く楽しませてくれるのかしら?」


 妖精は目を細め、その空想に陶然と酔いしれた。

 ディーネは、何度も悪魔を追い払う呪文のように「やめて」と繰り返しながら泣いていた。



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