嫉妬渦巻く湖の畔8
妖精が、ひっそりとしとやかに名を呼んだ。
呼ばれて目を見開いたディーネは、口元を覆う。
その声も笑みも優しく穏やかで、湖面にひっそりと佇む姿は母の肖像画がそのまま動き出したように見えた。
「お……かあさ…ま――……?」
アベルを手放したディーネが、引き寄せられるようにふらりと立ち上がった。
その瞬間、湖面にあった妖精がにこりと笑みを深めたかと思うと、その姿が風を受けた蝋燭の火のように揺らめいて消えた。
「……あなたが生まれた時以来」
次の瞬間、ディーネの背後に唐突に声が生まれた。
「でも、私はずっとあなたを見ていたわ」
「…………っ」
背中から強く抱き竦められ、穏やかにあたたかく耳元で囁かれる言葉に、明らかにディーネの心が揺れていた。
「ずっと、一度でいいからあなたを抱きしめてあげたかった……」
「……お…母様………?」
わかっているはずだ。
あれは母親を奪い、ディーネの運命を縛り付け、命も肉体も奪っていく魔女だと。あの姿が、なによりその証明だと。
それは、わかっているはずだ。
アベルが狂おしいほどに唸り続け、飛びかかるタイミングをはかっていることも。
それでも、確かめずにはいられなかったのだろう。
間違いなく、母の身体だ。
もし母の魂がわずかでもその身体に残っているのなら……それは、わずかにでも母が生きているのと同じではないのか。
もし、魔女からこの身体を取り戻すことができたら、自分のせいで死なせてしまったと苦しみ続けている父を救うことができるのではないのか。
そんなディーネの迷いが、淡い期待に縋りたいという強い願いが、目に見えるようだった。
――なのに、だ。
「………ふ、ふふふ。これで、満足かしらね?」
それなのに、動揺しているディーネの耳元に届く笑い声に、暗さが混じった。
「あなたのお母様は最後までそう願っていたわよ?」
妖艶な動きでうなじに指を這わせた妖精の、あまりにも残酷な言葉にディーネが凍り付いた。凍り付いた頬を一筋の涙が濡らしていった。
「アハハハハ、すごくいい表情よ。渇望してもがく姿って切なくて大好きだけど、やっぱり最後には絶望してくれなきゃね!」
一度でいいから子供を抱きたい――それは、絵の中でしか叶えられなかった母の夢だったと、絵の中で叶えられただけのそれに憧れていたと、ディーネは言っていた。
それは、どれほど切なる願いであっただろう。
なのに――それすらも、弄ぶのか!!
いまだかつてないほどの怒りが溢れて止まらず、剣を握る手が震えた。
「……さぁ、もっとよく顔を見せて?」
溢れるディーネの涙が顎からぽたりと落ち、満足そうに笑った妖精が向かい合わせるためにほんの少しだけディーネを抱きしめる腕を緩めた。
「ヴァォオォォッ!」
――刹那、アベルは再び妖精に牙を剥いた。
飛びかかってくるアベルに冷淡な笑みを向けた妖精がぴんっと宙を指を弾くと、小さな水玉が視認できる限界の速さで飛び出し、アベルのこめかみに命中する。弾かれたアベルはキャウンッ!と小さな悲鳴を上げ、どさりと重い音を立てて草むらに落ちた。
「アベルっ!!」
ディーネは叫びながら手を伸ばしたが、ぐったりと横たわるアベルはぴくりとも動かなかった。駆け寄り、助け起こしたいのに、妖精に強く抱き止められてそれもかなわないディーネの涙が散っていく。
「アベル……おい、アベル!!」
必死に手を伸ばし涙ながらに呼び続けるディーネの声に、弾かれたようにアベルに駆け寄って助け起こす。
息は、していた。
けれどどれだけ揺り起こそうとしてもぴくりとも動かなかった。
まるで深い眠りについているかのようだった。
「アベル、アベルアベルアベルっ!! お願い、目を開けて!!」
「邪魔だから眠ってもらっただけよ」
妖精は艶めかしい動きで髪を手で梳きながら、向かい合わせたディーネの耳元に愛しそうに唇を寄せる。
「無用な殺生は好きじゃないし、あの子は私もお気に入りだしね」
ディーネは恐怖に揺れる瞳で必死に妖精を見つめ、息をつめて問う。
「……日照りと疫病で、数千のグラの民の命を奪ったと聞きましたが?」
妖精はくすりと笑った。
「あぁ、あれは仕方なかったの。彼らが約束を破ろうとしたんだもの。好きじゃなくても、契約を履行しない悪い子にはちゃんとお仕置きしないとねぇ?」
口元の笑みとは対照的に冷たい目に見据えられ、全身が凍り付くような気がして身震いが出た。
「……だから、あなたたちは今まで通りにおとなしくしてるのよ?」
聞き分けのない子供に言い含めるようなまなざしで、私とディーネを交互に見た。
それに従うわけではないが、身体がジンジンと痺れて動くことができなかった。
ずしりとしたアベルの重みが責めるように腕にのしかかったが、それを払うこともできなかった。
妖精はゆっくりと私が動けないことを確認するように眺めてから、改めてディーネに視線を注いだ。
魔法のせいか恐怖のせいか硬直しているディーネの頬に指が滑り、頬を寄せ、ほぅと溜息をつく。
「……やっぱり若い肌っていいわねぇ。そろそろこの身体も肌のハリはなくなってくるし目元に小皺が寄るし――あと5ヶ月後が待ち遠しいわ」
恐怖にひきつったディーネの頬に再び一筋の涙が伝う。魔女はそれを嬉しそうに眺め、舌で掬って呑みこんだ。
「それまで私の身体、大事にしてちょうだいね」
ディーネの瞳に、暗い影が落ちた。
ただの魔女の器だと諦めている時の、絶望に沈む目だった。
それを見た瞬間、戦慄が走った。
「お前のものじゃ、ないっ!!」
弾き出されるようにアベルを膝から下ろし、再び剣を握った。
妖精を睨みつけ、その鼻先に切っ先を向ける。
だが、妖精は猫のように目を細め、口元に笑みをつくっただけだった。
妖精は人差し指一本でそっと剣の腹を撫でてから、切っ先をディーネに向けて押しやる。ほとんど力など込められていないように見える優雅な動きなのに、それに抗うことができなかった。
「それにしてもあなたたち、ホントに仲直りしちゃったのねぇ。つまらないわ。たまには神様も面白い悪戯してくれるって思っていたのに」
嘲り笑う妖精が、申し訳程度に眉尻を下げた。
「……でも、いいわ。これから、もっと面白いことになるもの」
ぞくりと背筋が凍り、剣を持つ手が震えた。
がちがちと震え、切っ先がディーネに触れるのではないかと思った。
なのに、腕が、動かない。
妖精に向け直すことも、下ろすことも、できない。
「………っ、…………!」
剣を向けられる格好になったディーネの唇が、なにか必死に言葉を紡ごうとしていた。けれども声は出てこないようだった。
《だめ……逃げて……逃げてください!》
空気を震わせない声が、そう言っていた。
――私は大丈夫なんです。
ディーネは、言った。
子供が生まれるまでは命を奪われることも、傷つけられることもない、と。
だけど。
「……逃げるならあなたも一緒だと、言っただろう!」
だけど、保証されているのは、ただ体が傷つかないことだけだった。
ぐったりと横たわっているアベルのように、あるいは今まで操り人形のように意志に反して行動させてきたように――それは息をすることすら苦痛だったと、さっきディーネが言ったばかりだ――決して、無事なんかでは、ない。
逃げない。
絶対に、助ける。
二度と――二度と、あんな顔をさせるものか。
そう強く想うと、震えも痺れも少しだけ押さえられ、じわりと腕が動く気がした。




