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妖精の湖  作者: 葵生りん
3章
46/63

嫉妬渦巻く湖の畔6



「妖精に……呪いをかけられた……?」


 飲み込みきれずに鸚鵡返しになってしまうと、ディーネはゆっくりと慎重に頷いた。


「はい。私にかけられている魔女の呪いと似ているので、もしかしたら」

「私は妖精にただ単に恋い焦がれていたのではなくて、呪われていたっていうのか?」


 強い語調でさらに問い返されたディーネは、困ったように首を傾げた。


「……全く心当たりはないのですか? 妖精となにかを約束したとか」


 約束、と口の中で繰り返す。


――一生、私だけを愛してくれるって約束して?


 それが呼び水になって甘い声が脳裏に閃くと、戦慄した。

 あれが単なる睦言ではなく、契約(・・)だったとするならば、ともすれば……。


 頭の中に白い靄がかかったようで、うまく考えがまとまらない。

 ディーネはほほえんでひとつ頷くと、アベルをねぎらう時のように私の頬を撫でた。


「……アレス様。私の呪いのことを誰かに話そうとしたことはありますか? その時の感覚と比べてみてはどうでしょう?」


 少し記憶の糸を辿ってみるが、そもそも誰にも、一度も、話そうとしたことがなかった。


「話そうとしたことがないから比べようがない」

「……そうですか。では、参考に私の体験の話しでもしましょうか?」


 ディーネは苦笑いで一度言葉を切ると、決まり悪そうに湖の対岸のほうを見つめて座り直し、着衣を整えた。アベルが無言で寄り添い、ディーネはそっとその背中に手を置く。


「実は、自殺を試みたことが何度かあるんです」


 突拍子もない切り口に、背筋に氷を滑らせたような悪寒が走った。


「でもナイフを持つ手が言うことを聞かないんです。どれだけ強く念じても、薄く血が滲むかどうかという程度の傷をつけるのが精一杯なんです。入水じゅすいしようとしても、膝ほどまでの深さより先に足を進めることができない。それ以上強行しようとすると意識が遠くなって倒れてしまって……。おかしいですよね。入浴の時は肩まで浸かれるのに。あぁでも、顔は洗うだけでつけられないんですよ」


 どうしてディーネはこうも、ぞっとする話を他人事のように淡々と語ってしまうのかと思った。

 なにも言えないでいると、ディーネはふっと苦笑いを遠い故郷に向けた。


「……自殺未遂がお父様に見つかってしまった時、お父様はなにも言わずにただ私を抱きしめて、声を殺して泣きました。止めるわけでも責めるわけでも謝るわけでもなく、怒るわけでもなく。ただひたすらに……」


 もう一度ゆっくりと息を飲みながら、ディーネを見つめた。

 カラリとしたその苦笑いの奥に秘めている感情がどんなものかを知ることができたならと願い見つめたが、複雑な感情を知ることはできそうになかった。


「お父様に申し訳なくて、あれ以来屋敷ではもう試せなくなってしまいましたね……」


 きゅうっと胸の前で組み合わされた両手は、まるで神に祈るようだった。

 私の視線に気づいたディーネは「すみません、話が逸れましたね」と断りを入れてから、再び湖面を見つめた。


「あとは……そうですね。屋上から飛び降りようと手すりを越えたはずなのに、いつのまにか部屋の中に入っている、とかもありました。記憶がなくなるわけではないのに、いつのまにか、です。我に返った時、狐につままれたようなおかしな感覚がして、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが夢だったのかもわからなくて……――まるで深い霧の中に迷い込んだみたいに、頭の中が真っ白になってうまく考えがまとまらなくなるんです。不安と恐怖と焦燥でなにか言葉を絞り出そうとするのに、言葉は手ですくった水のように指の間をすり抜けて落ちていって、口にのぼらないんです……」


 ディーネは苦々しく呟きながら水をひとすくいしてみて、濡れた手を日に翳し、なにか物思いに耽るようにぼんやりとそれを見つめていた。

 それを見ているとざわざわと体中に虫が這い回っているような怖気おぞけがした。


「そういった感覚に覚えがあります?」


 なにも言葉が出てこない私を振り返って見たディーネは、ほんのりと笑った。


「……あるんですね?」


 ある、の一言がなぜか言えなかった。

 口が動かず、声が出ない。

 不思議に思って自分の喉に手をあててみると、それを見たディーネはくすくすと笑い始めた。


「あなたは……ずっと、その自覚がないまま私と妖精が混乱することにひとりで悩んでいたんですか? 誰かに話してみようとすれば、今のその違和感に気づく機会もあったでしょうに」


 滲む涙を拭いながら、ディーネは笑った。


「……でも……それでも……」


 ずいぶんと久しぶりに見る柔らかな笑みだった。

 ずっと張りつめていた肩の力が抜けて、人形のような堅さが和らいだ、本当の笑顔だった。


「それでもあなたは、妖精に立ち向かおうとしてくれたんですね……」


 その笑顔を見ていたら、心からほろほろとなにかが剥がれ落ちていくような、洗い流されていくような、そんな感覚がした。


「私ったら……魔女の呪いならどうにもできないのに。ずっと、ずっと――……」


 瞳が潤んで、声が震えて、ディーネは痛みを飲み込むように喉に手を当てて俯いた。

 リベーテ家に残ることを選んでも、あの出来事はずっとしこりのように残ってディーネを苦しめ続けていたのだろうと、改めて罪悪感が胸に刺さった。


「でしたら、あの時のことはもう不可抗力だったのだと水に流します」


 一呼吸おいてから涙を拭ったディーネは、私の胸にこつんと額をつけて呟いた。


「………不可抗力………」


 それは「許す」と受け取っていいのだろうか?

 許されたいという身勝手な願いと、いくら呪いのせいだったとしてもどれだけ深くディーネを傷つけたかを思えば許されていいはずがないという思いが胸の中でせめぎ合う。


「ええ、だって魔女の呪いがどれほど辛くて抗い難いものなのかは世界中の誰より一番、私が知っていますから」


 顔を上げたディーネの柔らかな笑みにふっと心が軽くなるような感覚を覚えた途端、ふっとその笑みに苦いものが混ざり、ディーネは再び湖面を睨んだ。


「身体が自分の言うことを聞かず、思考さえ奪われ、意志と関係なく勝手に身体が動く不気味さ、恐ろしさ。伝えたいことを言葉にできないもどかしさ――それらは、器と諦めなければ息をするのすら苦痛になるほど苦しい時間でした」


 ずしりと息苦しいほど濃密な静けさが流れたが、ディーネは一息吐くと微笑を浮かべてくるりと振り返った。


「……自覚がなかったならば、あなたはなおさら悩み、苦しんだでしょう?」


 いたわるような優しい笑みを寄せて、頬をそっと細い指が包み込んだ。

 泣いている子供をあやすようにこつんと額と額を合わせられた時、ようやく、自分が泣いていることに気づいた。


「私のと一緒に、あなたの呪いも解いてもらわないといけませんね」


 幼い子供をあやす母親みたいに背中に腕を回してさすりながら、耳元に穏やかな声が響いた。その声は、まるで砂漠に染み入る恵みの雨のような慈愛に満ちていた。




「あなたの呪いを解くことができたら――……」




 ざわ。




 突如として、肌が粟立った。

 理由のわからない怖気にあたりを見回すと、ディーネもまた不安そうにあたりを伺っていた。

 けれどどれだけあたりを伺ってみても、森も、湖も、変わったところがない。

 平素のとおり、静かに、美しく、そこに存在しているだけだった。


「ヴウゥゥ―――……」


 しかしアベルは耳と尻尾を可能な限りぴんと立てて警戒し、低く唸った。

 その視線の先は、湖面。

 鼻の頭に深い皺を刻み、身を低くして唸るアベルが見つめる湖のほぼ中央には何も――いや、その視線先だけが、風が吹いたようにざわざわと揺れて波紋が立っていた。



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