嫉妬渦巻く湖の畔5
「そんなに……嫌ですか……?」
まっすぐに見つめてくる菫色の瞳が溶けてしまいそうなほど、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「……私では、お相手は務まりませんか……?」
堰を切って涙がこぼれだすと、両手で顔を覆って静かに泣き出した。
「違う、そうじゃない」
慰めたくて大きく息を吐いてから涙にふるえる細い肩を抱いたが、さらに慟哭が増すだけだった。
「散り際のこの命を憐れんで、今この瞬間だけでも私を愛してはくださらないのですか?」
そんなことしなくても、と脳裏に閃いた言葉は口にのぼる前に水中の魚を捕まえようとしているようにするりと逃げていった。
「違う。勘違いしているだろう。私は二度とあなたを傷つけたくないんだ」
代わりに出た言葉に説得力がないことくらい承知の上だったが、それでもディーネが激しく首を振ると胸に刺さった。
「どんなに大事にしてもらっても……妹のように、では……ダメなんです………」
「妹とかそんなふうに思ったことはない」
「どんなに優しくしてくださったとしても、あなたが愛しているのがリズベット様ならば、私は辛いだけです……」
「―――は? なんでリズが出てくるんだ?」
素っ頓狂な声が出てしまうと、ディーネは涙でぐちゃぐちゃになっている顔を恨みがましく上げた。
「………違うんですか?」
「違う。断じて違う」
目が、合った。
腹の内を探るような瞳を、今だけは絶対に反らすまいと見つめ返すと、随分久し振りにちゃんと目を見たような気がした。
「昔のことだと言っただろう。信用できないか?」
信頼されていなくても仕方がないが、さすがにリズのことまで引きずっていると思われるのは耐え難かった。
「……信じようと、思いました」
ディーネは喧嘩に負けた猫のように反らした視線をあちこちに泳がせ、せわしなく瞬きを繰り返した。
「でも……でも、信じたくても、アレス様が今も親しげにリズと呼ばれていらっしゃるから―――」
口元を覆ってもごもごと言い募るディーネに、ぽかんとしてしまった。
「……………それは、そんなに気になることなのか?」
呼び方なんか全く意識していなかったが、そういえばリズも無神経だと怒っていたような気がする。
「気になります。イグニス様はとても心の広い方なので何もおっしゃらないかもしれませんけど、自分の妻を元恋人が親しげに愛称で呼ぶなんて、内心では絶対に不愉快な思いをしていらっしゃいます。私のことを別にしても、それは気をつけていただかないと外交に障りますよ?」
いやにきっぱりと言い切られた。
普段物腰の優しいディーネがここまで言うからにはよっぽどなのだろうか。
「アレス様、もしご自分がその立場だったらと想像してみてください」
そう言われると自然と知らない男が――クリーム色の髪で、立ち振る舞いは騎士のように折り目正しいうえに人懐っこい笑顔を浮かべる男だった――ディーネと親しげに話し、しかも呼び捨てにしている情景が脳裏に浮かび、胸の中に黒い霧が立ちこめたような気持ちになる。
そして、その男と元は恋仲だったとしたら――?
想像が及ぶと、悪いものでも食べたような胃の不快感がこみ上げてきた。
……なるほど。
なるほど、これは不愉快だ。
「それは、すまなかった。物心ついた頃からからそう呼んでいるから、つい……」
妙に納得すると同時に、言い訳が口を突いた。
それでも大人ならば弁えるべきで、言い訳などできようはずもないのだが。
「物心ついた頃から……?」
「あぁ、親同士が私が生まれる前から親しかったからな」
ディーネは、大きな目をぱちくりとゆっくりと瞬かせた。
「え? え…っと……じゃあ、リズベット様でないならあの時って、妖精って、誰のことなんです?」
「……いや、だから……それは――」
話を濁そうとすると見る間にディーネの瞳に嫌悪感が浮かんでいった。
「誰、なんですか?」
それはもう詰問だと思った。
下手に誤魔化そうとすれば余計な不信感を生むだけだと観念したものの、己の醜さと対極にある純真なディーネの目を直視できずに額に手を当て、俯いた。
「誰って、だから……妖精だ。この湖で会った妖精」
「………妖精………?」
アメジストの瞳がくるりと大きく見開かれて、息を呑むのが視界の端に見えた。
「え? え、だって……妖精、ですよね?」
初対面の女――しかも普通に考えれば人知の及ばない神聖な存在である妖精になんてことをと責められているようで、もはやディーネを見ることができない。
「……リズベット様と逢瀬にきて、それで妖精が出てきたんですよね?」
頷くことしかできなかった。
誘惑されたといっても、どこまでも不実な行動の理由にはならない。
「……あのときは、本当にすまなかった。……混乱、していたんだ。いつのまにか意識の中で妖精にすり替わって………自分でも、よく……区別がつかなくなくなって………今でも、冷静になればちゃんと見分けはつくのに、ディーネを見ているとすぐに混乱してわからなくなって……」
「……いつのまにか、すり替わる……自分でも、よくわからない……?」
ディーネが一言ずつゆっくりと繰り返すと、罪の意識が岩のように重く上乗せされていく。
「アレス様、それでもあの時……私の名前を呼んでくれましたよね……?」
もはや口に出すのがはばかられてただ頷いた。
「……えぇ…と、そうですね……。アレス様……例えば、私のことを考えていて気が遠くなるような感覚とか、ありますか?」
「……それが、どうかしたのか?」
なんだか医者の問診を受けているような空気になっていることに気づき、そしてどうにも会話が噛み合っていなかったことにも気づいて、そろりとディーネの様子を伺った。
ディーネはしばし複雑な表情をしていたが、やがてとても申し訳なさそうに、言ったのだ。
「――アレス様、もしかして妖精になにか呪いをかけられているんじゃありませんか?」




