嫉妬渦巻く湖の畔3
小鳥たちのさえずり、さわさわと木の葉が風に揺れる音。
ほのかな花の香りを運ぶ風が頬を撫でていく。
ふと気づくと、それらの心地よさに目を細めていた。
最初は緊張していたが、湖の畔はそんな緊張感などすべて洗い流してしまう穏やかさに満ちていて、本当にただ何気なくふらりと散歩に出たような気分で歩いていた。
「療養の旅の一番最初にきたのが、この湖だったんですよ」
それはディーネも同様であるらしく、のんびりと歩を進めながら懐かしそうにぽつりと言った。
「虹の麓には幸せが埋まってるって言い伝えがあるでしょう? だから、虹を溶かしたようなこの湖にも幸せがあるかもって思ったんです。ふふ、今思うと子供の思いつきですよね」
ディーネが穏やかに自嘲の笑みを浮かべると、アベルが一声鳴いた。振り返るとアベルは尻尾を振っていて、ディーネは目を細めて腰を下ろし、その頭を撫でた。
「でも、おかげでアベルにもアレス様にも出会えたから、案外本当かもしれないと思っていたんですけど」
ふっと湖面を見た視線が、にわかに厳しくなった。目元が鋭くなると、途端に妖精の――否、母親の――面影が強くなる。
「でも、ここに――」
何かを言いかけたディーネはその続きを飲み込み、唐突に私に苦笑いを向けた。
「そういえば彼女は本当のところ、何者なのでしょうね? 妖精なんでしょうか? それとも魔女、あるいはもっと別のなにかなんでしょうか……?」
言いながらディーネは手を顎に当てた。言葉が進むにつれて笑みは消え、真剣味を増していく。
「……それ、どうでもよくないか?」
「だって、なんと呼べばいいのか困りますから。それに本性が何者かということがなにかの参考になることもあるかもしれません」
なるほど。言われてみれば確かに一理ある。
ふむ、と少しだけ青空を仰いで思考を巡らせ、頭の隅のほうから妖精についての情報を引っ張り出す。
「……グラ家が魔女に呪われた事の起こりは、高祖父・ギルベインだったか」
「はい。百年程前、高祖父が当時第二王女だったエスメラルダを妻に迎えたグラ家の最盛期の頃です」
「この湖に棲む妖精の伝承は、もっとずっと前からあるんだ。それこそ、御伽噺になるほど昔から」
「では、彼女は生来妖精なんでしょうか?」
「どうだかな……」
ディーネは首を傾げ、私も首を捻ってみる。
それだけでは、最初に見た人間が妖精だと思いこんだだけという可能も否めない。
「……あぁでも、そういえば」
昔の伝承では“悪戯好きな妖精”ではなかっただろうか。
古い絵本に描かれているのは、滑らかな髪と四肢、そして蜻蛉のような羽を持ち、その一部あるいはすべてが清らかな水でできているように透けている妖精の姿が描かれていたはずだ。
そして悪戯にしても、昔は子供に急に水をかけたりといった他愛もない悪戯ではなかったか。それがいつしか“嫉妬深い妖精”になり、悪戯は段々エスカレートし、対象は恋人や夫婦に限定され、今のように笑って済ませられないほどの破滅的な魔法をかけるようになってはいなかったか。
伝承など時を経て姿を変えていくものだし、口伝ならばなおさらその変容など気にも止めなかったが、今はその事実が妙に気持ち悪く、胸の中に澱のように漂う。
それを聞いたディーネも同じように胸に手を当て、なにか考え込んでいるのか黙って目を伏せた。
「……しかし、随分遠いグラ家がどんな縁で呪いを受けることになったんだ?」
どれだけ記憶を掘り返してみても、妖精は魔女がグラにかけたような粘着質な呪いをかけたという話はなかった。妖精がかける魔法はあくまで度の過ぎた悪戯の範疇だ。
「高祖父が魔女との約束を破ったからだと聞いています」
「それは前にも聞いたな」
溜息混じりに答えたディーネに、私もまた息をついた。
「問題はその約束の契機や内容だ」
「昔はこのあたりにもグラ家の別荘があったのだと思います。今はどこにあったのかもわかりませんが、どこかでそんな記録を見たような気がしますから」
公爵家ならば、各地に数え切れないほどの別邸があるのだろう。その中のひとつがこの地方にあったとしてもなんの不思議もない。
だとすれば、こちらになにかの用事で出向いていて妖精だか魔女だかに出会ったのだろうか。
「お父様が会った魔女は『ギルベインがすべてを奪った』と深い憎しみを抱えていたそうです。お父様は王家と縁を結ぶ栄光となにかを引き替えにする約束をして、それを反故にしたのかもしれないと推測していましたが――」
ディーネは虹色の湖面を見つめながら、そっと肩を落とした。
「高祖父はいったいなにをしたのでしょうか? 少なくともそれまでは妖精と思われていた存在を魔女に変容させてしまうなんて……」
細く消えていく呟きに、思わず呆れた。
これまで散々自分に非のない苦しみを負ってきただろうに、放っておけば自分の祖先に非があれば甘んじて受けるべきだろうかと思案してしまいそうなお人好しの頭をぽんと撫でる。
「ギルベインが何をしたのだとしても、その罪は当人が背負うべきものだ。なにも知らずなんの罪もない末裔まで呪いを受ける謂われはない」
「……はい」
ディーネはそう返事をしたものの俯いたままで、しばし重い沈黙が流れた。
「元々、魔女が妖精のフリをしていただけかもしれないだろう」
「………はい」
重い返事に、やはり同意は感じられなかった。
アベルがふんふんと鼻を鳴らして匂いをかいでからディーネの手のひらをぺろりと舐めると、ふっと気を取り直すように顔を上げた。
「でも私、やはり彼女は生来妖精だったのではないかという気がします」
「なぜ?」
「根拠はありません。ただそのほうがしっくりするような気がするだけです」
そう言ったディーネはいつもの少し堅い笑顔を向けると、湖を見つめて再びゆっくりと歩き始め、アベルは心配そうにその後ろにつき従った。




