虚ろな器3
どれほど時間が経ったのか、よくわからない。
やがてディーネはゆっくりと泣きはらせた顔を上げ、痛々しくほほえんだ。
「……ごめんなさい。もう……大丈夫です……」
ディーネはそう言いながら寄り添っていた体を離し、私の腕をそっと払い、自分で涙を拭う。
ふたりの間の空気が、ひやりと冷えた。
あたたかい涙がぐっしょりと服を濡らしていても全く不快ではなかったのに、それが冷えて肌に張り付く感触は妙に気持ちが悪かった。
「ありがとうございました。ようやくすべてお話できて、いっぱい泣いたのですっきりしました」
涙を拭いて顔を上げたディーネは清々しい笑みを浮かべているのに、嫌な胸騒ぎがした。
「アレス様にはとても嫌な思いをたくさんさせてしまったと思いますが、出産に備えてと理由をつけてもうグラに帰るのでご安心ください。あなたは今までとおりに意中の人を想っていていただいても構いませんから」
薄くて透明な壁がそこにあるのを、肌に感じた。
薄いのに、見えないのに、そこにいるディーネに手を伸ばすことができないほどの強靱な壁に思えた。
咄嗟に「ディーネ以外に意中の人なんか」と口をつきそうになったが、「いない」と断言することができない自分に気がついて、心の中が真っ黒に塗りつぶされたようで喉が凍った。
私に――ディーネと妖精が混迷してしまうような軽薄な男に――この壁の向こうに踏み込む権利は、ない……。
「申し訳ないのですが、迎えが来るまでは滞在させていただかなければなりません。目障りかもしれませんがお邪魔にならないよう心掛けますし、アベルとここで休んでも構いませんので、どうかお部屋にはお戻りくだ――」
「…………い」
私が呻くように喉から絞り出した言葉が聞き取れなかったディーネが、首を傾げた。
「――帰さない」
思考に反して、迷子の子供のようにディーネの腕を掴んでいた。
ディーネが兄に託した手紙にも「帰る」という言葉はあったけれど、面と向かって言われると現実味が何倍にも膨らんだ。
その喪失感、その先に帰るどころではない別れがあるのかと思うと恐怖にも似た焦燥に駆られ、捕まえた腕を放すことができなかった。
この半年、ディーネは毎朝起きた時から眠りにつくまでずっと、当然のようにそばで笑っていた。
ディーネが幸福だったと言ったその時間が――私がたったそれだけのことと思っていた時間が――どれほど貴重で幸福の時間だったのかを、噛みしめた。
その愚かしさを棚上げして、身勝手に留め置きたかった。
「……あなたに死ぬ運命を強要し続けてきたグラになんか、帰さない」
咄嗟に飛び出してきた言い訳にびくりと身を震わせたディーネは、くるりと大きく見張って私を見つめた。
生まれながらに子供を産んで死ぬことが運命だと言われ続け、長くとも20歳までしか生きることを許されないと言われ続け――婿養子ではなく嫁いできたのも、子供をグラが引き取るのも、友人がいないのも、荷物が少ないのも、全部がその覚悟の顕れだったなら。
これまでずっとひとりきりでその儚い運命を背負う覚悟で生きてきたのなら。
水仙を持って駆けてきた時の笑顔は、こんな人形みたいな取り繕った表情ではなかった。本当に、本当に心から無邪気に笑ってアベルと庭を駆け回っていた。
――ならば。
「あんなささやかな日常が幸福だったというなら、ここにいればいい」
菫色の瞳が激しく揺れ動いていた。
そんなものはただディーネをここに留め置くための建前だけれど。
「……死ぬまで、私のそばにいるんだろう?」
この腕を離したら、二度と手が届かなくなる。
そう思ったら、言わずにはいられなかった。
ほんの、一瞬だったと思う。
ディーネの菫色の瞳の奥に、星屑のようなわずかな光が瞬いたような気がした。けれど口元を緩ませたディーネはすぐに瞳を伏せ、それは遮られてしまう。
やがてゆっくりと目を細めて、ディーネは笑みを浮かべた。
「……はい。あなたがそれを望んでくださるのならば」
細めた目から、もう一粒の涙が頬を伝って落ちた。
悲しい笑顔と、穏やかな声が、じんわりと胸に沁みた。
わずかな安堵からディーネを再び抱き寄せ――ふ、と。
「………………」
急激になにかよくわからない胸騒ぎに襲われて、首を捻る。
ディーネは首を傾げた私を怪訝そうに見上げてきて、目があった瞬間にその理由を閃いた。
「………ディーネ、ひとつ確認するが」
「はい?」
そうだ。
嫁いできた日も、茶会の後も、ディーネは同じように「あなたが望むならば」と言ったのだ。
あの時は、この違和感に、胸騒ぎに、全然気づかなかった。
「――あなたはどうしたいんだ?」
その返事は、私の意志と決断であってディーネの本意なのだろうかということに。




