混迷1
(……最低だ……)
あれからどのくらい経ったか定かではない。
自分が今どこを歩いているのかも、定かではない。
夜は白々と明けはじめ清浄な朝日が差す廊下を、私は場違いな幽霊のようにふらふらと歩いていた。
――いったい誰を抱いたのですか!
いつも優しげなあの菫色の目に、深い悲しみと絶望と怒りを漲らせていたディーネを思い出すと、胸がキリキリと締め上げられるようだった。
その痛みに、倒れ込むようにして壁に手を突き、壁に向かって呻く。
「偽りの愛を囁くならばどうして最後まで騙し通さないのか、だと……」
あれほどの怒りの中ですら、偽りの愛でも騙し通せば許したと聞こえるあの言葉に、胸をかきむしりたくなり服を強く握り込んだ。
怒られて当然の仕打ちをした自覚はある。
なのに、彼女の怒りは騙し通さなかったことに向いていた。
ディーネは、私が偽りの愛を囁いて騙したと思っている。
しかも、騙していても構わなかったと思っている。
「そんなもの、か――」
信頼、親愛、なにもかもが。
その程度のものだったのだろうか。
それは単に陵辱を受けたと詰られるよりずっと深く胸を抉り、呼吸さえ奪おうとする。
「……ディー…ネ………」
ディーネを深く傷つけておいて、信頼されていなかったことに傷ついている自身の浅ましさが、呪わしかった。
咄嗟に「違う」と言い訳が口にのぼりそうになった。
けれど、喉につっかえてしまった。
……違わなかった。
腕の中にいるのはレテ湖の妖精であるような錯覚の中にいた。
泣きじゃくるディーネに嘘偽りではないと言えない自分が歯痒くて、細い肩が痛々しく揺れるのを見るに耐えなくて、後ろ暗くて、逃げ出すことしかできなかった。
どこで、なにを間違えたのだろう。
泣かないでほしいと、笑っていてほしいと、愛おしいと、思っていたはずなのに。
最初から、妖精とディーネを重ね合わせてしまう自覚はあった。
最初から、記憶が混同するのを恐れていた。
だけどディーネをあの一度きり姿を見せない妖精の身代わりにしたかったわけではない。
断じて、そんなつもりはなかった。
最近では妖精の夢を見なくなっていたし、思い出すことも稀になっていた。
代わりにディーネの無邪気な笑顔を思い浮かべていた。
あの妖精はディーネに出会う運命を啓示するために、彼女の姿で現れたのかもしれないとすら考えていた。
ディーネを見つめるといつも口元が綻びそうになって、これが愛おしいという感情なのだろうなと思った。
毎晩のようにひっそりと泣いていたディーネは、触れたら消えてしまう淡雪のように儚げだった。
慰めたいのにどんな言葉をかけていいのかわからず、泣いている理由を聞いて嫌いだとか帰りたいとか言われるのが怖くて、見て見ぬ振りをしてきた。
傷つけたくない。
泣かせたくない。
けれどどうしたらいいのかわからずに躊躇してしまった。
初恋を知った少年でもあるまいに、どうすればいいのかと悩むばかりで気持ちを持て余していた。
そのはずだった。
ディーネを愛おしく思う気持ちに微塵も嘘はないと、思っていた。
「…………っ」
ふ、とつられて笑いたくなるような無邪気な笑顔が心に浮かんで、胸が軋んだ。
あの早春の穏やかな日差しの中でアベルと戯れて笑っていたディーネのそばに、私達ふたりの幼子がいるのも悪くないかもしれないと、思ったのだ。
正直に言えば子供は好きではないし、当初は家の結びつきに必要だからやむなく設ける覚悟をしていたほどだというのに。
その子供はきっとディーネのようにかわいらしいのだろうと想像すると、心を羽箒でふわりと撫でられるようなむずがゆさを覚えた。
あの笑顔も。
すぐに泣いてしまう脆さも。
不意に見せる、すべてを諦めたような悲しい表情も。
私のために命を捨てても構わないと言ってくれるひたむきさも――すべてが愛しくて、すべてを腕の中に留めていたかった。
この腕の中で、幸せそうに笑ってくれたらと思った。
水仙を愛でて目を細めた時のあの笑みをこの腕の中に閉じこめて、二度と離さないでいたいと、思っていた。
(酒の、勢いだろうか……?)
冴え冴えとした思考が巡る。
狂おしいほどに、凶暴なまでの独占欲。
あの純情なディーネに我が妻である証を刻み込み、既成事実で離縁などできないように、他の誰にも渡さないように――。
けれど、そんな獣ような本能を別にしたとしても、子供を設けて生涯をあんな穏やかな日々の中で暮らす――そういう夫婦の絆を築いていきたいと、そう思ったのも、決して嘘偽りなんかではなかった。
なかったのに。
それなのに、途中から妖精の姿が混じりあい、自分が抱いているのがディーネなのか妖精なのかわからなくなっていた。
ディーネに詰られるまで、わからなくなっていることにすら気づかなかったのだから、救いようがなかった。
それが結局、想いを遂げて悦に浸る私とは真逆に、ディーネは悲鳴を上げ恐慌状態で泣き叫ぶという最悪の結果を呼んだのだった。
今までディーネを思い浮かべていた時、それが本当にディーネだったのか妖精だったのか、もはや自信がなくなってしまった。
(……つくづく、最低だ……)
もういっそのこと、自分の胸を引きちぎって捨ててしまいたかった。




