12. ぼたん鍋(2)
逃げるように部屋へこもるしかない剛三だった。息子同然にここの出入りをしていた健二が、騒ぎを聞いて顔を出して来たアパートの住人の対応をしてくれていた。彼に自分の尻拭いを委ねるしかない自分の不器用さを今ほど呪ったことはない。
自分の住まいにも関わらず、部屋の隅で正座をしている己の姿が滑稽だった。鍋の火はとっくに消している。律保がこたつに足を入れて、固く絞った濡れタオルで腫れた頬を冷やしていた。
「ねえ、お父ちゃん。寒いでしょう。こっちに来て」
「……」
返す言葉さえ浮かばない。同じ過ちを繰り返した。また律保に手を挙げてしまった。せっかく解り合えたのに、赦しを得たそばからまた罪を犯した。懲りない性分と直しようのない自分の衝動的な性格に、ほとほと嫌気が差していた。
「ねえ、お父ちゃん」
少しの恨みも混じえない声で、律保が剛三に話し掛けて来る。
「お母さんが淳也を、弟を生んだあとね、体調が戻らなくて、私が世話をしていた時期があったの」
律保は突然、浜崎の家族についてとつとつと語り始めた。玄関の向こうでは、まだ健二が隣人と揉めている。
「こういう感覚って、弟というより自分の子に近い感覚なのかしら。淳也が小学校三年になって間もないころに、ちょっと性質の悪い子に乗せられて、駄菓子屋さんで万引きをしてしまったことがあったの」
浜崎の両親は、店で土下座をして謝罪したそうだ。そして懇々と息子を口で諭したらしい。気弱な二人は、淳也が主犯だと嘘をついた子供の言葉を真に受けた親に罵られ、理不尽なままにそちらへも謝罪した。淳也が主犯ではないと判ったのは、「淳也が自分からそんなことをするなんてあり得ない」と腹を立てた律保が駄菓子屋の店主の許へ赴き、双方の両親や当人同士とともに防犯カメラの映像を見せてもらったからだという。
「淳也の“面倒を起こすくらいなら自分が悪者になっておけばいい”というところが、どうしても赦せなくって。淳也を信じていたお父さんやお母さんの信頼を自分から捨てたことと同じだって……思わず淳也の頬を思い切りぶってしまったの」
怒りではなく、不安と心配で怖くなった、と律保は言った。心無い他人に利用される大人になってしまうのではないか、と、淳也の考えを正すことで必死だった、と。
「淳也の頬を打ったとき、私もものすごく痛かったの。掌もだけど、それよりも、心が」
その痛みを拭ってくれたのは淳也自身だった、と律保は小さく笑った。「ごめんなさい」と「ありがとう」、そして「どんなにおだてられても、もう二度と悪い誘いには乗らない」「嘘はもう絶対につかない」という涙ながらの宣言が、ちゃんと自分の気持ちを受け取り、理解してくれたのだと安心した。律保はそう言って話を締めくくった。
「だからね、お父ちゃん」
――ありがとう。そして、ごめんなさい。
柔らかく響いた二つの単語に、剛三は思わず顔を上げた。
「昔お父ちゃんにぶたれたとき、とても怖い気持ちしかなかったのだけど。今なら、あのときのお父ちゃんの気持ちを理解できている気がするの」
『どうしてこんな変な名前なんかつけたの。京子ちゃんたちみたいな普通の名前がよかった』
当時の律保が放ったその言葉は、千鶴から受けた愛情と、剛三自身よりも大切だとしていた千鶴を理想とし、千鶴のように育てと名付けてくれた、父からの愛情までなじったに等しい。
「殴られて当然のことを言ったのよ、私は。ぶたれた理由を思い出したとき、当時の自分をぶちたい気持ちでいっぱいになった。本当に、ごめんなさい」
律保は剛三が罪としていたことを、愛情と表現してくれた。
「思い通りにならない私への怒りじゃなくて、そんな恩知らずで感謝を知らない浅はかな私の将来を心配して腹立たしく思ったんだろうな、と思ったの。淳也をぶったときのことをあとになって思い出して、私をぶったすぐあとのお父ちゃんの顔を思い出して……私は淳也のように、すぐ受けとめるだけの素直さや理解力もなくて、とても恥ずかしい、と思ったの」
ゆっくりと顔を上げた律保の頬から、ずるりとタオルがずれ落ちた。濡れたままのそれを握りしめる律保の腫れた頬に、透きとおった一筋が伝い落ちた。
「心配を掛けてしまう親不孝な娘でごめんなさい。私のこと、健ちゃんに腹を立ててしまうくらい大事に思っていてくれて、ありがとう。だからもう、そんな顔をしないで?」
剛三は居た堪れなくなり、重い腰を上げた。律保に近付き、ずいと手を出した。
「タオル、寄越せ。ぬるくなってるだろうが」
「……ありが、とう」
激した感情はすっかり萎えていた。タオルを濡らす冷たい水は、剛三の手よりも頭をよく冷やし、自分がどうあるべきかを教えてくれた。
「……律保」
背を向けたまま、律保を呼ぶ。
「はい」
「おめえ、松と暮らしてる今は、幸せか?」
「……はい。すごく」
「そうかい……」
びしょびしょに濡れたタオルを、きゅっと固く絞る。タオルと一緒に、律保の最も望んでいる言葉も絞り出す。
「おめえが幸せなら、それでいい」
相手が誰かも解らない中で格好をつけて告げたときと同じ言葉に、剛三の心からの思いが上乗せされた。
冷えた頭が思い出させる。松枝健二という男がどういう人間なのか、ということを。
「あいつは俺たァ違う男だ。おめえが一生さっきみたいな顔して笑ってられるってえんなら……それでいい」
背後から聞こえた「ひぃっく」という懐かしいしゃくり声が、剛三の鼓膜を切なく揺らした。
外の声がいつの間にかやんでいた。剛三は絞ったタオルを手にしたまま、玄関の扉を開けに行った。
「あ」
壁に背をつけて膝を抱えた格好のままうずくまっていた健二が、慌てて立ち上がった。
「みなさん、傷害事件と勘違いしてたので説明に時間が掛かっちゃいました。すみません」
「何やってんだ、てめえはよ」
「えと、あの」
「みっともねえだろ。さっさと入って来やがれ、バカが」
「は、はいっ」
途端に笑みを浮かべた健二の素直さが、剛三の意固地さをあっという間に削いでしまう。駄々をこねて健二の真剣さを窺おうとも思ったが、いまさらそんな必要などないことを改めて認識させられた。彼の人柄は、ある意味で律保以上に剛三自身がよく解っていることなのだ。
健二が靴を脱いだのを確認すると、彼に向かって濡れタオルを差し出した。
「律保の看病はてめえのほうがお手のもんだろうがよ」
タオルに剛三の思いを託す。健二に「それが答えだ」と律保を託すつもりで、タオルを投げずに手渡した。
「……はいっ」
久しぶりに、健二の泣き顔を見た。くしゃくしゃにした顔になると、相変わらず少年のような純朴さを漂わせる。狭い六畳一間のアパートだというのに慌てて律保の許へ駆け寄り、彼女の頬へタオルを当てる健二、そしていたわる視線を彼に送る律保を横目で見ながら、卓上に置きっぱなしにされている鍋を手に取って台所へ戻った。すっかり伸びてしまったが、よく煮込まれたうどんは美味そうだ。
「律保、口ン中は切れてねえか」
振り返らずに、そう声を掛けた。
「うん、大丈夫」
「健二」
初めて健二を「健坊」でも「松っちゃん」でもない、まともな名前で呼んだ。
「は、はい」
「どうせ飯も食ってねえまんま、ぼけえっと待ってたんだろう。うどんは伸びちまったが、味が染みててコレがまた美味えんだ。ぼたんも足すからおめえも食ってけや」
「……はいっ」
裏返った健二の声に、剛三は思わず噴き出した。
三人で鍋を囲む。叶わないと思っていたのに、娘と再び大好物のぼたん鍋を囲めている。苦い思い出が鍋を避けさせていたが、鍋をつつけるくらい時が過ぎたら健二にも食わせてやりたいと思っていたぼたん鍋を、今こうして一緒につついている。
(充分じゃねえか)
願っていた以上の夢が叶ったことを、しみじみと実感した。剛三の目の前で娘と息子が同時に存在してくれるなど夢物語が過ぎると思い、ほんの一瞬淡い想像を楽しんだことはあっても、願ったことなど一度もなかった。
「あの、親父さん」
空になった鍋が下げられると、健二がこたつから足を抜いて、剛三へ再び頭を下げた。その隣へ寄り添うように、台所から戻って来た律保までが正座をして深々と頭を下げる。
「もう二つ、お願いがあります」
そう告げる健二の言葉に呆れた。娘を奪った上に、まだあと二つも願いがあるという。
「おめえ、律保の悪いトコが似たんじゃねえか? そんなに欲張りなヤツだったっけか」
牡蠣を独りで食べ切った律保が、ぼたんまで健二と取り合っていた。それになぞらえ、律保をちゃかしたつもりで笑いながら突っ込みを入れた。
「真剣に話しているの。お願いだから、真面目に聞いて」
形だけは殊勝に頭を下げているが、低く漏らされた律保の声が、尖っていた。
「へえへえ、すんませんな。そんで、なんだよ」
「四月に挙げる式と披露宴、新郎側の親として、列席して欲しいんです」
「あ? 変じゃねえか、それ」
「うちの事情はみんな知ってます」
「披露宴には、職場の人だけじゃなくて、リケン設備の社長さんや、葦原のおじさんとか、お父ちゃんと健ちゃんがお世話になった方々にも招待状を送るつもりなの。私たち親子揃って、たくさんの人にお世話になったでしょう」
「これからもお願いしますという意味合いと、これから恩返ししていくつもりでずっと繋がらせていただきたい、という意味で、心配を掛けて来た皆さんに親父さんと自分たちの今後をお伝えしたいと思ってるんです」
「お願いします」
「お願いします」
そう語る二人の意向は、剛三に一抹の寂しさと、それを凌ぐ安堵感をもたらした。節度や恩義、礼節をわきまえ、感謝の気持ちを忘れることのない、一人前に成長を遂げている。不出来な親父には過ぎた子供たちだと心から思った。
「おめえらの式だろうがよ。好きにすりゃあいいじゃねえか。俺が出ていいんだっつうなら、喜んで顔を出さしてもらわあな」
ありがとうございます、という二重奏が、二人の永遠を感じさせた。ついほころんだ剛三だが、ふと思い出して、小首を傾げた。
「んで、もう一個ってなあ、なんだ」
金ならねえぞ、と冗談を言うつもりだったが、あとに続いた二人の言葉でそんな冗談も消え失せた。
「岩田の家に、俺も住まわせてください」
健二がまっすぐ剛三を見つめて真剣な面持ちでそう言った。
「あの家はお父ちゃんの家よ。ここを引き払って、お父ちゃんにも私たちと一緒にあの家に戻って欲しいの。お願いします」
律保が剛三に向かい、強欲な二つ目の願いを単刀直入に訴えた。
答えるどころか、唸り声すら出せなかった。二人を映す剛三の目が次第にぼやけ、息が詰まって鼻の奥までもがツンとした痛みを感じ出す。
「コンビニ弁当ばかり食べているぐうたらな父親だなんて、娘としては放っておけないの。健ちゃんだって、ずっと心配ばっかりしてたんだから」
律保がそう言いながら、頭を上げた。腫れた頬を意識させないほどの真剣なまなざしが、剛三の頭を真っ白にした。
「律保さんは結婚後も仕事を続けたいそうなので、親父さんが家を守ってくれるとすごくありがたいんです。俺たちを助けてやってください。お願いします」
詰めていた息が、剛三を苦しくさせる。我慢も限界を越えて息をした瞬間、ずず、と鼻をすするみっともない音が響いた。
「っていうか、こんなに近いのに通うなんてのが面倒なの。あ、あとね、私の年齢を考えると、そう遠くないうちに子供のことも考えないといけないから、子守りのお願いも」
「律保さん、それ、親父さんを当てにし過ぎです」
目の前の夫婦漫才じみた掛け合いを笑い飛ばしてやるだけの余裕さえないほど、打ち震えるものが剛三の中で暴れ出す。
「お……ッ」
声とは言いがたい嗚咽が漏れた。目の前が揺らぎ、何も見えなくなっていく。
「親父さん」
これからは、家族に気遣って慌てふためく他人を見ても、孤独を感じて羨むことなどないらしい。
「お父ちゃん、いいよね?」
今この瞬間から、独りぼっちな現実に悶え苦しむ夜は二度と来ない。仕事さえしていれば父親気分でいた勘違いな親父を、律保はこれから先も父親として認めてくれると伝えるために訪ねて来てくれたのだ。それも、息子として慈しんで来た健二と一緒に。それが今日、律保が赴いた本題だとようやく覚った。
俯いた剛三の目の前に、ずいとハンカチが差し出される。
「失くした十五年、これからの何十年で取り戻させてね」
まるでなだめるような声だった。それを掻き消す自分の嗚咽が、耳障りで仕方がない。
「お……お……ッ」
剛三は、初めて律保の前で涙を見せた。一度堰を切ってしまうと、自分でももうとめられない。
「うぉ……お……ッ」
「半分だけ、律保さんを親父さんにお返しします。いいですよね?」
優しい言葉と思いが、雨のように温かく降り注ぐ。ハンカチの柔らかなパイル生地が、剛三の目を優しく覆う。
ぼたん鍋は、千鶴からの愛情の証だった。この日を境に、律保と健二からの愛情という味つけが、大好物のぼたん鍋に加わった。




