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12. ぼたん鍋(1)

 平成十年も残り数日となったその夜、この冬初めての雪がちらついた。

「ちっ。雪か」

 剛三は窓の外で舞い踊るぼた雪に向かって毒付いた。

 今日もコンビニまでとぼとぼと歩く。毎年一緒に年を越していた健二も、ついに剛三の手から離れて一人前になった。所帯を持とうとしている“事故娘”の闘病生活を支えるという報告を受けてから、そろそろ四ヶ月が経とうとしている。

 健二と出会う前に、二度ほど独りで正月を迎えたことがあった。四十路の半ばごろだった。あのころはまだ、若さや金、そして何より気力があった。だが今は、その中のどれ一つとして持ち合わせていない。気付けば還暦をとうに過ぎていた。

「ちっ。体が冷えると頭ン中まで凍えらあ。おでんでも買って帰るか」

 剛三の空元気な声が白いまだらの闇に吸い込まれ、響きもせずに消えていった。


 発泡スチロールの器に盛られた玉子と大根、白滝にこんにゃく。近ごろはウィンナやスジ肉の串などという変り種もあるらしい。だが剛三は、食べ慣れた定番だけをいくつか選んで店員に頼んだ。カップ酒を五つほどカゴに入れる。熱燗といきたいところだが、あいにく常温でしか売っていなかった。

「へぇ~」

 アパートへ戻るころには、おでんもすっかり冷えているのだろう。レンジの使い方もろくに覚えていない。まずいと判っているのに、ついおでんを買ってしまう。それをつつく数分後の自分を想像し、後悔の溜息をついた。軽く頭を振って、コンビニ袋からカップ酒を一つ取り出す。カシュ、と気の抜けた音が住宅街にこだました。剛三は沈みがちな自分を奮わせるように、勢いよく酒を喉の奥へ流し込んだ。


 部屋に戻って、残りの酒とおでんを口へ運ぶ。相変わらず出来合いのおでんは、剛三の腹も心も満たしてはくれなかった。

「ちっ」

 剛三は結局買ったおでんを冷蔵庫へ放り込んだ。鍋に火を掛け湯を沸かす。コップ酒を温め直せば、少しは気持ちが慰められると考えたからだ。

 台所で沸騰を待っていると、不意に玄関の扉をノックされた。

(松っちゃんか?)

 淡い期待がほんの少しだけ剛三の口角をほころばせた。

「おう、ちょいと待ってくれや」

 そう応じながら、形ばかりの小さな三和土(たたき)へ降りて雪駄を突っ掛ける。剛三はドアチェーンを外し、扉を開けると同時に驚きで息をとめた。

「こんばんは。久しぶり」

 一瞬、千鶴が帰って来たのかと思った。自分が若返ったのかと勘違いもした。だが、目の前に立つ千鶴とよく似た女には、癖のあるゆるい栗色の髪に一本も白いものが混じっていなかった。すらりと伸びた長身は、剛三の背丈をわずかに越えている。千鶴は白の似合う女だった。目の前に佇むこの女にも同じ感想を抱くほど、女のまとう真っ白なコートが剛三の目を惹いた。だが、

「お母さんが、鍋の道具と食材を一式持たせてくれたの。一緒に食べたいな、と思って」

 と親しげに言うこの女は、明らかに千鶴の幻影でも本人そのものでもなかった。剛三の愛した、少し垂れ下がった目ではない。切れ長の細い目の端は、かわいそうなほど上へ吊り上がっている。笑っているように見てもらえないその形は、剛三が長年劣等感を抱いて来た目ととてもよく似ていた。

「鍋料理が一番好きだったよね、お父ちゃんは」

 両手の買い物袋を重そうに掲げ、まるで昨日も来たかのような当たり前の口調でそう言ったのは。

「おめえ」

 叶わない願いだと諦めていた懐かしい笑みを、十五年ぶりに見せてくれたのは。

律保(りほ)……か?」

 実の娘と十五年ぶりに交わした第一声が、そんな間抜けな問いになった。それほど、律保の訪問が剛三には信じられなかった。




 律保を部屋に上げると、彼女の第一声は説教だった。

「ちょっと、何よこれ。夕飯をこれだけで済ます気だったの? しかも残してるじゃないの」

 還暦を過ぎれば急速に体力や抵抗力が衰えるのに、とか、設備屋へ再就職したと福岡から聞いている、など言いながら、お見通しと言わんばかりの高慢な態度でこたつに腰を落とした剛三を睨み下ろして来る。律保の相変わらずさに、剛三は苦笑を浮かべた。

「笑いごとじゃないわよ。肉体労働は体力勝負なのに、いつまで若いつもりでいるの」

 と腰に手を当てて憤慨する律保に、返す言葉が見つからなかった。

「まったく。鍋の用意をして来て正解だったわ」

 律保は懐かしいふくれっ面で説教を締めくくると、勝手知ったる我が家のように狭い台所を占拠した。

「ったくよう。ちぃとも変わってねえじゃんかよ」

 隣の六畳間から台所に立つ律保を眺めながら、そんな文句が口を突く。だが、口の端がゆるりと上がった。

「お父ちゃんのいい加減なところも変わらないわよ。お互いさま」

 十五年の歳月をまるで感じさせない律保の態度が、剛三にも自然とそうさせた。


「お父ちゃーん、鍋が行くわよ」

 そんな声が殺風景な部屋に響いた。

「お」

 剛三は慌ててコタツから軽く身を引き、律保がわざわざ持ち込んで来たカセットコンロに火をともそうと躍起になった。

「ありゃ?」

「ああ、もう。まだセットレバーを下げてないの」

 呆れた口調で剛三を制する声が返って来たかと思うと、律保が湯気の立つ出来たての鍋をコンロに置いた。

「壊さないでよ。相変わらず大雑把ね」

 律保はそんな小言を口にしながら、長い髪を掻きあげて鍋とコンロの隙間を覗き込んだ。娘の立場にも関わらず、父親を小ばかにする口調も変わらない。

「危ねえなあ、おい。紐でくくっておけや。火が移ったらどうすんだ」

 遠慮のない律保の物言いが、剛三にも気楽な憎まれ口を叩かせた。

「紐って、もうやだ、笑わせないでよ」

「なんでえ。何が可笑しい」

「せめてゴムとかリボンとか」

「知るか。俺にゃ縁のねえしろもんだ」

「お父ちゃんったら、仕事以外には疎いところも、ちっとも変わってないわ」

 そう言って、また律保が笑った。どうにも不思議な感覚に陥る。鍋からのぼる湯気は熱を伝えるのに、かぐわしい味噌の匂いが剛三の空腹にやかましい音を立てさせているのに。どこか夢を見ている気分だった。

(律保が俺といるのに……笑ってらあ)

 年ごろの娘になっている律保を想像したこともない。なのに律保だと判るこの娘が、世間のお荷物でしかない老いた自分としゃべりながら笑っている。剛三は、自分だけに向けられたそれがまだ信じられなかった。

「やだ。お父ちゃんってば、もうお酒を全部飲んじゃったの?」

「お? おお。暇だからよ」

「ホントにもう、せっかちなんだから。ビールを多めに買って来てよかったわ」

 そう言っている間にも、律保はもう六畳間から消えていた。

(なんでえ。人のことをせっかちなんて言えたモンじゃねえだろうがよ)

 剛三はいそいそと冷蔵庫からビールを取り出す背中を見ているうちに、可笑しさを堪え切れずにくすりと笑った。


 コップになみなみとビールが注がれる。目の前にはコトコトと食欲をそそる鍋の音。

「かんぱーい」

「お、おう」

 律保がコツリと剛三のグラスに自分のそれをかち合わせて来た。剛三はそれを受けながら、漠然と何に乾杯なのかと小首を傾げた。

「あ。もうニンジンと大根は大丈夫よ」

 そう言いながら、手はすでに剛三の器に伸びている。

「あ。おめえ、なんで牡蠣なんか入ってんだよ。俺ぁソイツの臭いがダメなんだよ」

「知ってるわよ。でも私が食べたかったんだもの。味噌だしにしたんだから、そんなに臭ってないはずよ」

 牡蠣が苦手なことを、律保はさらりと「知っている」と言った。ただそれだけのことが、剛三を芯から温める。小さな部屋に、ずず、と鼻をすする音がかすかに響いた。

「あー、臭え臭え。さっさと食っちまえ」

 そんな憎まれ口でごまかしながら、自分の箸で鍋の中を探った。

「うそ。私はそれほど臭いを感じないけ……あ。わかった。お父ちゃん用に入れたお肉が臭うのよ、きっと」

 律保がくつくつ笑ってそう言うのと同時に、剛三が適当に箸で挟みあげたもの。

「お……こいつぁ……」

 赤というよりも紅に近い、入れられたばかりの肉。独特の臭いと、豚や牛より少しだけ箸で摘まんだときに感じる固い弾力が、まだ口に入れてもいないうちから懐かしい味を剛三の舌に蘇らせた。

「ぼたん、じゃねえか」

「うん。お父ちゃんの大好物だから」

 蘇る、遠い記憶。賑やかで楽しかった、自宅でのねぎらいの席。ほんのりと頬を染めて微笑む千鶴。声を上げて笑う小さな律保。剛三だけに見える光景が、剛三の目を更に細めさせた。

「高架下にある鍋料理のお店、お父ちゃんも福岡先生と行ったことがあるんですってね。そこの店主さんに無理を言って分けていただいたの。どうしても、お父ちゃんと、食べたくなって」

 律保の言葉が、しまいには途切れがちになっていた。俯いた律保の、垂れた髪の隙間から覗く頬が、ぼたんと張り合うほど赤い。

 剛三は、今の律保がどんな気持ちでいるのか、痛いほどよく解った。同時に妙な罪の意識に囚われる。可哀想なところが父親に似た。

「律保、おめえよう。俺に話したいことがあって来たんじゃあねえのか」

 剛三は、まだ火の通っていないぼたんを鍋に戻し、火の通った野菜を器につけ足しながら誘い水を出してやった。言葉で巧く表せない思いは、努めて穏やかな声を発することで暗に伝える。剛三にとってぼたんは、千鶴と過ごした“束の間の甘いひととき”の象徴。それにこめた律保の気持ちを、剛三は自分への赦しと解釈した。携えて来た律保へ感謝するとともに、ただ一人の愛娘へ遠回しに伝えようと言葉を紡ぐ。

「お母ちゃんや浜さ……親父さんから、和解したっつう話を聞いたから来たんじゃねえのか?」

 結婚するらしいな、と話を促してやると、律保が俯いたまま小さく肩をすくめた。

「……うん。今日は、お父ちゃんに、お詫びとお願いを聞いてもらうために、来たの」

 律保の語りを聞きながら、長い間焦がれ続けた鍋をつつく。

「学費や家とか、ほかのいろんなことも、私、お父ちゃんの気持ちを考えたこともなくって……ありがとう。それから、ごめんなさい」

 白菜に染み込んだ味噌だしが、美味い。出来合いおでんの白滝とはまるで違う美味と歯ごたえに舌鼓を打つ。

「事情も気持ちも、なんにも解っていなかったくせに、大嫌いなんて……ごめんなさい」

「せっかくのぼたんがまずくなるじゃねえか。ンなくだらねえこと言ってねえで、おめえも食え」

 そんな言い方しかできない自分が口惜しい。剛三は密かに抱いた自己嫌悪さえ隠すように、手許にあったタオルを律保へ放り投げた。

「泣くと不細工になるんだ、おめえはよ。俺に似たのが不幸だったな」

 剛三は毒付きながら、律保の器に牡蠣を一気に詰め込んだ。

「いつまでも昔のことをグダグダうじうじ言ってても、誰も面白いことなんかねえだろうがよ」

 律保がそんな風に思っているとは予想外だった。

「俺だってな、金さえ出しゃあ、立派な父親だと思ってたさ。おめえに謝られると、俺も娘相手に頭を下げなきゃならなくなるじゃねえか、クソ面白くねえ」

 素直な思いを巧く言葉にできない。その口惜しさが剛三に、最高のぼたんを食いちぎらせた。

「お。美味え。おい、律保。牡蠣なんかほっといて、ぼたんを食え。ほらよ」

 その話はしまいとばかりに、ぼたんを律保の器に放り込む。

「やだ、一度にこんな……私、衣装に合わせてダイエット中なんだけど」

 そう言って律保が頬を赤く染めた。たったそれだけの会話で、互いの心を交わし合える。

「おめえが幸せなら、それでいい」

 律保の視線が器から自分へと向かう前に、顔を伏せた。

「お父ちゃん……」

「あぢっ、ちくしょうめっ。熱過ぎるんだよ、ったくよう」

 律保がくすりと声を漏らす。

「それ、鍋に言ってるの? それとも、私に?」

「両方だよ、ちくしょうめ」

 おめでとうさん、とようやく言葉にすることができた。


 ぼたん鍋をさらい終えたころ合いを見て、律保が締めのうどんを準備する。

「お父ちゃんはきし麺が好きだったでしょう?」

 細かなことまで覚えていてくれた。ただそれだけのことが、こんなにもくすぐったい。

「お、おう」

 短い言葉に凝縮した剛三の思いが、律保にはにかんだ微笑を浮かばせた。

「あのね、お父ちゃん。お願いとお詫び、というのはね」

 律保が鍋のうどんをほぐしながら、彼女らしくない歯切れの悪さで、今日の本題を蒸し返した。

「あのね」

「浜さんから粗方話は聞いてる。お願いだのお詫びだの、しゃら面倒くせえ」

 剛三はそう言って律保の言葉を遮った。

「浜さんには伝えたはずだぜ。会社の付き合いもあるし、披露宴をしないわけにゃあいかねえんだろ? 浜さんを新婦の父親として立てろって伝えたんだけど、聞いてねえのか」

 威勢のよい声でまくし立てたつもりだが、どうにも律保の顔を見ては言えなかった。器に残っているぼたんを箸で弄びながら、詫びの言葉を聞きたくなくて、一方的にしゃべり倒す。

「俺ァな、おめえや千鶴から逃げた段階で、親父失格なんだよ。なさぬ仲の子を育てるってえのが、どんだけの覚悟がいるか、解ってらあ」

 そして、少しだけ健二のことを話した。自分にも新しい形の家族がいること。律保には自分とこれから連れ添う伴侶との未来を中心に、前を向いて生きて欲しい、ということ。

「一応これでも、まだ親父でいてえんだな。だから、何か困ったことがありゃあ、訪ねてくれりゃいい。だがな、浜さんをないがしろにするのだけは許さねえ。結婚の許可は浜さんからもらってるなら、それ以上俺をおめえの実家に割り込ませてあいつらに余計な気を遣わすな」

 自分を披露宴に呼べないことを詫びてくれるな、という声がわずかに上ずった。

「……違うの」

 律保は剛三の正面に座していた腰を上げ、剛三の真横でいきなり土下座をして剛三を絶句させた。

「岩田律保として、お婿さんをとらせてください」

「へ?」

 剛三には、律保が何を言っているのか解らなかった。言葉の意味は解っているが、何を考えているのか解らない、と言ったほうが正しい。

「浜崎豊の娘、岩田律保として、岩田剛三の息子、健二さんを私にください」

「あ?」

 剛三の手から、箸が落ちた。

「私が健ちゃんにずっと口どめしてたの。どうしても、自分の口から直接お願いしたかったから。そのためには、まずお父ちゃんに、私のして来たことを赦してもらってからでないと、って」

 頭の中が真っ白になる。

(今、律保はなんつった?)

 剛三の中で、その問いが何度も何度も繰り返された。

「本当はもっと早く訪ねるつもりだったの。いろいろあって、病気をしてしまって。それも健ちゃんに口どめしたの。私が健ちゃんに無理強いしたの。本当に、ごめんなさい。だましていたみたいな形になってしまったけれど、悪いのは私で、健ちゃんじゃないの」

 剛三の左手から、取り鉢までころりと落ちた。

(岩田律保として、岩田剛三の息子を、だと? 口どめだと? ……健ちゃん、だと?)

 ここ数年を反すうする。健二に惚れた女ができたらしいころからの言動を振り返る。

 健二は剛三に腹立たしさを感じさせるほど、堂々と“事故娘”ののろけを聞かせていた。虫も殺さないような温和な笑みを浮かべる健二が、“事故娘”の話題になった途端口ごもったり、でれりと顔をゆるませたりと、忙しかった様が蘇る。

 思えば、一つだけ、妙に視線を合わせずに報告して来た事柄があった。

『彼女も父親の借金を返しているんです。不経済だから一緒に暮らそうってことになって』

 そこで健二が「本当にすみません」と詫びた理由を、剛三は“あるべき段取りを踏まずに余所さまの娘と同棲する不道徳”からだと勝手に思い込んでいた。

 剛三は目の前で小さくなって頭を下げている律保を渋い顔で見下ろした。

 人には、親という立場になってから初めて生まれる視線、というものがある。その見方が伝えていたのは、息子のように思っていた健二の、ある時期を境に「男になったんだな」と苦笑させる、いわゆる、つまり、そういう変化。それとよく似た種類の雰囲気が、律保を今日初めて目にした瞬間にも漂っていた。だからこそ一瞬誰だか判らなかったのだ。剛三の中にいる律保は、いつまでも少女のままだったから。

 律保がすっかり女らしい成長を遂げたのは、歳月という単純なものだけが理由ではない。

(松のヤロウ、いつからてめえの惚れた女が俺の娘だと気付いていやがった)

 全てを知った途端、膝の上で握った拳が震え出した。律保の結婚を認めたつもりでいたが、こうも具体的な現実を突きつけられると、予想もしていなかった大きな衝撃が剛三を襲った。

「あ……ンのガキっ!」

 気付けば勢いよく立ち上がっていた。

「お父ちゃん!?」

 防寒着を乱暴に羽織り、焦れる思いで雪駄を突っ掛ける。

「ちょ、待って、どこ行くの!?」

 剛三は玄関に立ちふさがった律保へ怒声を上げた。

「どけっ。あの恩知らずをブン殴ってやるっ」

 人の大事な一人娘を――そんな怒りで頭をいっぱいにしたまま、剛三は玄関の扉を開けた。

「違うのっ。お願い、話を聞いて!」

 と叫ぶ律保が剛三の腕を取る。それを振り払えなかったのは、彼女の言い分を聞くつもりになったからではない。目の前に立っている人物を目にし、剛三は息を呑んだ。

「殴られる覚悟で、親父さんが出て来るのをここで待ってました」

 よく知る顔なのに見たこともない表情をした男が、剛三を見下ろしてそう言った。

「恩を仇で返す真似をして、本当に申し訳ありませんでした」

 体を真半分に折って深く頭を垂れる健二の謝罪に、律保の言葉が被さった。

「違うの。お父ちゃん、健ちゃんはずっと私に」

「うっせえ」

「律保さんは黙ってて」

 くぐもる二つの声が、剛三の腕を掴んだままだった律保を怯ませた。

「その上で、お願いします。律保さんを、俺にください」

 剛三の唇が、わなわなと震えた。悪びれもなく姿を現したかと思えば、当たり前のように、たった独りしかいない剛三の家族を横から奪うと宣言する。そんな健二に、初めて強い憤りを覚えた。

「……松よ」

 唸るような低い声が、アパートの犬走りを冷たく這った。

「はい」

 ゆっくりと頭を上げて剛三を直視する健二が、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「いい度胸してるじゃねえか」

 右手が大きく振り上げられる。

「お父ちゃんっ」

 それをとめようとしがみついた律保を、勢いよく振り払った。

「てめえなんざ、今日を限りに」

 勘当だ、というつもりで、挙げた右手を思い切り振り下ろした。

 ゴツ、と鈍い音が響く。隣の住人が気配に気付き、扉を開けようと耳障りな音を立て出した。

「律保さんっ」

 そう叫んで身を屈めた健二の頬に、剛三の振るった拳のあとはついていない。頭の中が真っ白になった剛三には、自分が何をしでかしたのかすぐには理解できなかった。

「い……ったぁ……」

 場にそぐわないほどの間抜けな声が、薄暗いアパートの前にこだました。

 剛三が健二に向けて振り下ろした右手の拳は、彼を庇った律保の頬をしたたかに打っていた。

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